コリントの信徒への手紙一5:1-13

コリントの使徒として


1.コリントの状況

 コリントには「みだらな行い」がありました。それは、あらゆる意味での律法違反を意味していたものと思われます。パウロが例としてあげたケースでは、父親の妻と同棲している者がいた、というのです。たぶん、自分の継母と同棲ということです。彼の父親がまだ生きているかどうかに関わらず、モーセの律法はこのような関係を禁止しています。

(申命記『27:20 「父の妻と寝る者は呪われる。父の衣の裾をあらわにするからである。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。』)。

異邦人もまた、継母との結婚を認めてはいません。ですからパウロは、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」、と断言しました。

 パウロが問題視するのは、コリントは高度な霊性をもちながら、このようなことがらをまったく排除してこなかったことです。コリントの教会の有力者たちは、教会で上座を占めるのには長けていても、教会を正しく指導する能力はなかったと言えます。しかし、この問題には神学的な背景がありました。初代教会の時代には、霊的な力を知った多くの人々は、「(人が死ぬときには)どうせ肉体はこの世に残って朽ち果てる。大切なのは、霊が神の高みに上ることだ」、と考えたわけです。つまり、霊ではない肉体の犯す罪を問題にしなかったのです。しかし、教会は罪の中で安住してはいけないのです。パウロは、4章までで、コリントの信徒を裁くことをしませんでしたが、ここでの裁きは厳しいものでした。パウロが教会を訪れるとき、「公に罪の生活を送っている者」を教会から排除するということです。

『5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。』

 この言葉は、謎めいています。その人は、教会の外部に追い出され、もはや教会の権利や宝にあずかることができなくなります。だからパウロは、「教会員たちがつまずかないように」との配慮をしているだけではありません。この罪を犯した人間の霊が「最後の日」に救われることをも目的として、すべては執り行われるべきなのです。 しかし、この箇所の示す正確な意図はわかっていません。

 パウロが生きていたら、今の私たちの教会の中に倫理的な罪を多く見出だすでしょう。現代の教会の中にも、コリントほどではなくても、みだらな生活をしている人がいるでしょう。そんななかで、もしも私たちの教会の中の誰かが、パウロと同じような行動をするならば、「愛が無い」との批判の対象となるかもしれません。当時のコリントの信徒も、人々が知らず知らずに地獄に向かって転げ落ちていくのを見過ごすのも、「愛」だと言うのでしょうか。

2.古いパン種

 パンを作るときには、多くのパン種は要りません。少しでも入っていれば生地全体がふくれあがります。パウロは古いパン種を完全に抜き去るように命じています。今ここで、パウロはキリストの教会を「生地」と呼んでいます。この生地は古い生地をこねなおしたものではなく、完全に新しい、つまり罪のない生地だ、ということです。だから、教会からは「古いパン種」、すなわち罪の生活を除いて、教会を清く保たなければなりません。もともと多くのコリントの信徒たちは清いのです。今パウロは彼の手紙の一番重要なことがらに話題を移します。それは、キリストがすべてを清めてくださった、ということです。

 キリストが賜物として与えてくださった「聖さ」がすべてであります。キリストは「過越しの羊」です。この羊が犠牲となって流される血が、私たちを神様からの罰と死から守っています。しかしだからと言って、教会はもう神様の御心を探し求める必要がないわけではありません。パウロは、罪に塗られた者たちが清められるように勧めているのです。なぜなら、彼らはキリストによって すでに清くされているからです。だから、神様とその恵みの中にあること、神様の御心の中にとどまることが、求められるのです。

3.コリントの交わり

 パウロはすでにコリントの教会に、

「姦淫を行う者と信仰の兄弟姉妹の交わりをもってはならない」

と手紙を書き送りました。

コリントではこの言葉を、

「教会員ではない人々も含め、あらゆる罪人との接触を避けなければならない」

と曲解する人たちがいました。

 パウロは彼らの誤解を解こうとします。ここで問題になっているのは、クリスチャンであるにもかかわらず、みだらな生き方をしている者たちのことなのです。言うまでもなく、コリントの一般市民は神様のことをまったくないがしろにしていました。にもかかわらず、クリスチャンは彼らのことを避ける必要はないのです。その裁きは、神様に任せるべきことだからです。一方で、クリスチャンだと自認している罪人のことは、よく見分けて彼らを避けるようにしなければなりません。

 ここで罪人とされているのは、姦淫の禁止の掟を破る罪だけではありません。そこにはまた、偶像礼拝、貪欲、略奪、人を悪く言う、ことなども含まれています。これらの罪ある者は、教会外部の人ではなく、教会の中にいる人のことであります。教会の外部にいる人たちのことは、神様が裁いてくださるので、調べることも、断罪することも必要がありません。しかし、クリスチャンの場合は、私たちの仲間に悪い者がいるならば、そのことを知って、その罪を取り除かなければなりません。パウロは、具体的な手段を提案しているわけではありません。また、仲間外れにしろと言っているのでもありません。そのクリスチャンである罪人が、救われるように願って言っているのです。このためには、祈るしかないのかもしれません。