マタイ13:24-58

「毒麦」のたとえ

 

1.「毒麦」のたとえ

  毒麦が、生えてきた畑に、すぐにでも抜き取ろうとする僕に対し、主人は育ってから仕訳をしようと言います。麦と毒麦はまだ小さい時には見分けが難しいので、大きくなってから仕訳けることを提案したわけです。

 間違って、普通の麦の芽まで抜いてしまうよりは、はっきり育った状態で仕分けようということです。それまでの間は、毒麦もに投げ込まれることは無いわけです。毒麦を抜き取るのが目的ではなくて、麦を一も枯らさずに育てるのが目的なのですから、主人はそのやり方を選んだのです。

 

2.「からし種」と「パン種」のたとえ

  からし種はたいへん小さい粒です。それなのに、芽を出すと、大きな木(本当は草)に育ちます。

 パン種は、イースト菌を使って練った小麦粉を発酵させたものです。パンを作るときに、生地にパン種を混ぜて、発酵させるとイースト菌が呼吸することで二酸化炭素を出して、パンの中に小さな気泡をいきわたらせます。そして、焼くとパンは膨らむのです。


 からし種とパン種どちらも、見えない小さいものが、大きく姿を変える力を持っていることを象徴します。

 

3.「毒麦」のたとえの説明

 刈り入れが、世の終わりを指します。その時、悪魔によって蒔かれた毒麦は、刈入と同時に炉の中に放り込まれます。弟子たちは、イエス様からたとえの意味を聞きます。日常的に、弟子たちはたとえの意味を聞いていたようです。「ある人が良い種を畑にまいた」と言う言葉が、イエス様の説明によると「イエス様が御国の子をこの世に派遣した」という事になります。


 確かに説明を受けた後には、意味が良く分かるのですが、たとえを聞いただけでは、その意味がわかりません。「毒麦」のたとえは、「悪魔の蒔いた悪人は、終わりの時が来るまで、滅ぼされない」ことを示します。また、その時が来たら、すべての不法を行うものを集めて炉の中に投げ込ませることを示しています。


 

4.「天の国」のたとえ

 良い物だけが、取り分けられる。そして、良い物以外は、すべて売ったり捨てたりして顧みられない。それが「天の国」です。取り分けるという事は、そこに良い物かどうかの判定があります。「天の国」では、良い者が取り分けられ、そしてそうでない者は捨てられるのです。

 

5.天の国のことを学んだ学者

  家にある古いもの新しいものを取り出して、良いものだけを取り分けようとすることは、自己吟味をしていることを示したものです。天国のことが分かったならば、そうするに違いありません。つまり、天国のことがわかったら、早速、自分の持っている「もの」、つまり性質を自己吟味し、悪い部分を取り分ける作業を始めるべきなのです。

 

6.ナザレで受け入れられない

 たとえ立派な人に育っていても、子どものころを知っている人たちにとっては、受け入れにくく、尊敬の念を抱くことができないものです。イエス様は、伝道した先々で、「癒し」や「しるし」を行いましたが、かかわった人たちの信仰によるところが大きかったのです。ですから、ナザレの地では、イエス様は尊敬されていなかったので、「しるし」を行えるような状況になかったようです。