詩編96:1-13

主を仰ぎ見る

2020年 7月 19日 主日礼拝

主を仰ぎ見る

聖書 詩編96:1-13            

おはようございます。

 今日は、詩編からお話したいと思います。今日の96編は、ユダヤ教では新年祭で使われたそうです。新年祭とは第七の月の1日と2日のことです。ユダヤの暦は月を基準とした太陰暦でした。第一の月は、現在の太陽暦では3~4月の夜に月がかすかに見える日、つまり新月の次の日の日没から始まるそうです。第七の月の1日は、今の暦では9月から10月に当たります。ですから、丁度中秋の名月で満月になったときから、15日たって新しい月が見え始めた日没から、ユダヤの新年祭が始まるということになります。どうして、第七の月の一日が新年なのかな?とは思いますが、モーセの時代から第七の月が特別であったことは、旧約聖書の多くの記載から読み取れます。一方で、新年が第七の月なので、第一の月とはいったいどういう月なのか?も興味を引くと思います。レビ記にユダヤの代表的な行事の日が書かれていますから、そこで、確認してみましょう。

 

 過越の祭り『23:5 第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。23:6 同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。』

新年祭『23:24 イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい。』

贖罪日『23:27 第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい』

 仮庵の祭り『23:34 イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる。』

 

 このレビ記の記事は、モーセが神様から頂いた命令です。新たに付け加えられた命令ですから、第七の月の一日と二日が安息日とは別に定められた安息の日となっています。詩編96編は、その特別な日の礼拝に用いられていたということです。一方、キリスト教では、詩編96編は、クリスマスイヴとクリスマス礼拝に用いられてきたそうです。わたしも、長崎教会で聖歌隊の指揮をしていた頃には、新年礼拝の聖歌隊の賛美は、詩編96編を使っていました。

 

 キリストの誕生を記念することと、新年を迎えることでは、礼拝の目的は違いますが、新しい時が与えられたことを感謝して捧げられる賛美と言う意味では、同じだと言えます。

聖書に書かれている「賛美」を挙げてみると、ダビデが神の契約の箱を迎え入れた時、同じような詩で聖歌隊に賛美をさせています。(歴代誌16:23-36)また、ソロモンの神殿が壊された後、再建を果たしたときに第七の月の一日に、編集を終えたばかりの律法を読み上げ礼拝を捧げたとされています。(ネヘミヤ8:1-2)

 この神殿再建を果たしたときに何を歌ったか?と言う記事は、新共同訳聖書には実は書かれていません。現在の旧約聖書の元になっている70人訳聖書の詩編96編の表題「捕囚の後、家が建てられたとき」が根拠で、この紙片96編が歌われたとされています。

70人訳聖書とは、聞きなれないかもしれません。紀元前三世紀頃、ギリシアが強大な力を持っていたヘレニズム時代に、エジプトで翻訳されたギリシャ語の聖書であります。この作業のために、七十二人のユダヤ人長老たちがエルサレムからエジプトに派遣されました。当時の最高の知見をもって、ヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳したものです。この通称“七十人訳”が、現存する最古の体系的な旧約聖書であり、その内容はイエス様のころの聖書そのものです。この70人訳の詩編96編の表題に、ようやく再建がかなった神殿の前でささげた賛美と書かれているわけです。

 

 詩編96編は、そういった意味でバビロン捕囚を経て、エルサレムに帰った来たユダヤの民が、再び神殿を建設すると言う民族の再出発を祝うときに、ダビデの感謝の賛美に倣って歌われたものと言えます。ですから、新年等の再出発のときに詩編96編を歌う習慣があったのです。そして、その内容は、「あたらしい歌で、賛美せよ」という単純なようで、なかなか深いものがあります。

 

 「新しい歌」とわざわざ取り上げるということは、「今までの歌ではない新しい歌」との思いを表しているのでしょう。新しい時が与えられた。その感謝を、全世界の作られたものが喜んで、賛美してほしい。そのためには、「新しい歌がふさわしい」そういった思いがあふれていると思います。

「新しい歌」をもって、すべての作られたものが主を賛美する。ここで「新しい歌」とは、「新たな感動の歌」と言う取り方のほかに、「その時代の歌」、「神様が今与えてくれた歌」「救われた喜びの歌」「新しい気持ちで歌う歌」等と考えることが出来ます。そして、賛美するのはすべての作られたものです。そこにはユダヤ人も異邦人等の民族の区別もありません。それどころか、天も地も海とそこに満つるものも、野とそこに住むすべてのものも森の木々も 全てのもので主を賛美しよう。と呼びかけるのです。全ての物それぞれが、それぞれの仕方で賛美することを考えてください。本当に聞いたこともな音色の新しい歌で満たされた光景が思い浮かぶでしょう。

 

 バビロン捕囚の前後、そしてエルサレムに戻ってきたユダヤの民にとって、異国の神々は、災いのもとでした。第一に異国の神々を拝んでしまったことについて、何人もの預言者が来ては、神様に立ち返るよう警告してきましたが、ユダヤの民はそれを聞き入れませんでした。その結果、神様は、ユダヤの民を異教の国バビロンの手に渡されたのです。ユダの国は滅びてなくなってしまい、ソロモンの神殿は壊され、多くの財産を奪い取られました。そして、国王や主だったものは、バビロンに連れていかれたのです。ユダの国は、滅ぼされたままで、そのまま放置され続けました。国を立て直したくても、バビロンの地に連れてこられているユダヤの民に出来ることと言えば、遠く異国で故郷を思う事しかなかったのです。バビロンがペルシャに敗れた後も、そういう日々が続きました。

 それが、ペルシャのキュロス王の時に、ユダヤの民はようやく許されて祖国に戻り、そして神殿を再び建設したわけです。神様に見放されたユダヤの民は、神様に立ち返りました。ユダヤの民を神様に立ち返らせるために、神様は大きな力で、そして長い時間をかけて、助け導き続けていました。それにようやく気づいたユダヤの民は、異国の神々とは比べようのない「ユダヤの神様の力」を体験したのです。神様は、世代が変わるほどの長い長い時間をかけながら、ユダヤの民が神様に立ち返るよう、ユダの国の滅亡とバビロンへの捕囚、そしてエルサレムへの帰還を計画されました。そして、神殿の建設がかない、第七の月の一日に、感謝の礼拝を捧げ、編集できたばかりの律法(モーセ五書:創出レビ民申)を読み上げ、神様を見上げて賛美をしたのです。神様の気の遠くなるほどの長い時間をかけた計画と、導きに感謝を捧げたのです。ですから、ユダヤの民はユダヤの神様の力をいまさらながら知って、このように賛美しす。諸国の民の神々には、偶像はあるけれど「中身がない」。ユダヤの神様は、そもそも天を作られた方である。だから、ユダヤの神様と神殿には栄光と輝きがある。だから、異国の民に言おう。「進んでユダヤの神様に帰りなさい」「あなたの栄光と力は、ユダヤの神様に返しなさい」。具体的には、「供え物をもって神殿に入り、そこにひれ伏して、神様の前におののきなさい」、そうしたならば、「神様の栄光を主に返す」ことになる。・・・そういう賛美をしたのです。

 

 驚くべきことは、旧約の時代なのに、すでに異邦人への伝道を呼びかけていることです。主とは、イエス様と読み替えて特に違和感はありません。そして、賛美を続けます。主イエスを仰ぎ見ながら、このように賛美します。

 国々に「イエス様は王である」と触れ回りなさい。そうすれば、世界は固く据えられる。イエス様は、どの国の人へも公平だから、ますます世界は揺らぐこともない。だから、天も地も海もそこにあるすべてのものは、喜びなさい。

 そうして、詩編96編は結びになります。

「イエス様は来られる。」のです。「イエス様はこの地を裁くために来られ、世界を正義と真実をもって諸国の民を裁かれる。」と予言しているのです。

 

 今日の詩編96編からも、新約聖書のイエス様像は、すでに旧約聖書の中に示されているとお感じになるでしょう。私自身も、旧約聖書がイエス様が来られることを預言していることに、改めて気づかされています。そのきっかけは、宗教改革者ジャン・カルヴァンの詩編による説教を読んだことでした。カルヴァンは、旧約聖書からどんな説教をしたのか?との興味で読んでみて、驚いたのです。詩編を題材にしていながら、イエス様の事だけに焦点を当てて説教しているのです。それときまで私は、「イエス様のことを宣教するならば新約聖書から」、と思っていたのです。ですから、旧約聖書で宣教するときに、イエス様のことを中心に語ることは新鮮に感じました。もちろん、旧約聖書は、救い主イエス様が来られることが前提になっています。ですから、「主は来られる」を「イエス様は来られる」と読み替えても違和感が無いのだと思います。

 

 さて、私たちにとって、新しい歌。イエス様を仰ぎ見てイエス様を賛美するための歌には、何がふさわしいのでしょうか?。それは、「私たちの新鮮な気持ち」ではないかと思います。新しい詩、新しい曲。これは、心踊らされて湧き出てきたことを象徴していますが、決して、「歌自身が新曲だから良い」 というわけではありません。イエス様を仰ぎ見た時の畏れや、感動。そして、イエス様を仰ぎ見た時に、「あぁ そうだ、あの時イエス様は私に働きかけてくれていたんだ」と気づかされる。そして、イエス様の平安の中にあることを全身で理解し、そして全身で応答して賛美をする。そんなとき、賛美は新しい歌に変えられるのです。ユダヤの民が、バビロン捕囚から帰ってきて、今までの体験は神様の導きだったと、神様を畏れて、御前にひれ伏して礼拝したとき、神様を仰ぎ見た時の心の反応が、心の反応こそが、あたらしい歌なのです。

 イエス様を畏れをもって仰ぎ見ましょう。何か問題があった時、何かがあったとき、そして何もなかった時、イエス様を仰ぎ見てください。イエス様の平安と新しい歌 「賛美」がともにあるでしょう。