ローマ10:1-22

万人の救い

 パウロは繰り返し、ユダヤ人の救いについて語ります。

『10:1兄弟たち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」

 何故ユダヤ人は救いを拒否するのか?パウロはユダヤ人のことをこのように分析します。

『10:2わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。10:3なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。』

 ユダヤ人は熱心に神様の戒めを守ろうとしました。たしかに、熱心なのですが、何処かおかしな認識なのか、自身の行いによる義を追い求めていました。だから、神様の義を受け取ろうとしなかったのです。神様の義を求めるのか?自身の義を求めるのか?と何度も問われていながら、神様の義を選ばなかったのです。そして、戒めを守れない人までを裁くようになります。パウロは、ユダヤ人が追求していたのは、「神の義」ではなく、「自分の義」であったことを教えます。「神様が正しいとされることよりも、自分が正しいと考えることが大事である」との、自己中心的で傲慢な姿がそこにあります。

パウロは、言います『10:4キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために。』

つまり、パウロは、「律法は 自らに義をもたらすための道具」だと考えていました。そして、その律法が狙っていた目標は「キリスト」でした。そして、すでにキリストが来られたことによって、律法は不要になったのです。律法と言う道具を使わなくても、キリストの恵みを受け入れ信じることによって、義とされる道筋ができたからです。

1.万人の救い

 ですから、パウロはこのように言います。

『10:9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10:10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。』 

 現代の私たちはこの言葉を聞いて、信仰を言い表すのは自由だと思いますが、当時においては、「イエスは主であると公に言い表す」ことは、命がけの行為でした。そして、その命を懸けたイエス様への信仰が救いをもたらしました。そこに至るまでの間、働きかけが必要でした。宣教する者がいて、その言葉を聞くことは少なくとも必要です。パウロはこのように語ります。


『10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。』

(イザヤ『52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。』)

 神様はイエス様を死人の中から甦らせました。そして、その証人として多くの使徒を各地に派遣しました。パウロ自身が、『ローマ1:1神の福音のために選び出され、召されて使徒となった』との召命を持って宣教しています。それでも、すべての人がイエス様を信じて、従ったわけではありませんでした。

 神様がモーセに語らせた言葉を見ると、やはり昔から従わない人々がいるのです。

申命記『32:21 彼らは神ならぬものをもって/わたしのねたみを引き起こし/むなしいものをもって/わたしの怒りを燃えたたせた。それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって/彼らのねたみを引き起こし/愚かな国をもって/彼らの怒りを燃えたたせる。』


 イザヤは、そのような不信仰なユダヤの民にも、いつも共にいて手を差し伸べると預言しています。

イザヤ『65:1 わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。65:2 反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。』


 ですから、イエス様の時代よりもっと前から、神様は手を差し伸べ続けているのです。そして、パウロが伝えている福音は、だれにでも受け取ることができるはずの良い知らせです。イエス様を信じると義とされるからです。


『10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。』