ゼカリヤ9:9-10

メシアはろばに乗って

2024年 324日 主日礼拝

メシアはろばに乗って

聖書 ゼカリヤ書9:9-10 

今日から受難週となります。そして、棕櫚の日曜日、つまりパームサンディですね。棕櫚と言いますと、日本ではワジュロのことを指しますが、イスラエルではどこにでも生えている、ナツメヤシのことを指します。生命力を象徴する木であり、その実はデーツと言って主要な食品であります。今日のこの日に、イエス様はエルサレムに入城しました。4つの福音書には、いずれもエルサレム入城の場面がありますが、マルコとルカはゼカリヤ書の預言には触れていません。一方、マタイとヨハネはこの預言を取り上げて、イエス様こそ救い主であることを強調しています。ここでは、ヨハネによる記事をお読みしたいと思います。

ヨハネ『12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」』

 イエス様がエルサレムに入城するときに、人々が、ナツメヤシ(ヨハネ12:13)から枝を折って道に敷いたことにちなんで、この日を棕櫚の日曜日と呼びます。そして、道に敷くために使われたのは枝とはありますが、「木」の部分は使わないで、葉っぱの方だけを藁のように敷いたものです。つまり、ユダヤの王を迎えるために、そこにある物で即席の絨毯を敷いたわけです。即席の絨毯は王様として迎えるための歓迎を示します。イエス様がエルサレムに入った時、人々は「王様がやってきた」と 歓迎しました。ユダヤ民族の独立のために、人々はローマからの解放を願っていたからです。人々はイエス様がローマ兵を追い出してくれる、救い主だと期待していたのです。もちろん人々は、「その救い主が十字架にかけられる」とは、知りようもありません。また、弟子たちは、何度かイエス様から十字架の予告を聞いているのですが、その時が来ているとは、考えもしませんでした。

 さて、今日の聖書箇所ですが、ヘンデルが作曲したオラトリオのメサイアに使われています。(ソプラノのアリア:18番目の曲)。たまたま、Bible-hubという英語の聖書解説サイトで、今日の聖書箇所を調べたとき、そのアリアの歌詞と一緒だったものですから、気づきました。合唱用の楽譜を開いてみると、確かに出展として今日の箇所が記されていました。メサイアは、日本ではクリスマスに演奏することが多いようですが、もともとは受難週用に作られたテキストであります。

 もうひとつ、知っておきたいことがあります。新約聖書にはよく、旧約聖書からの引用がありますが、あまり整合が取れていません。例えば、今日の聖書で「大いに踊れ」とあるところの原文は「大いに喜べ」であります。この違いの原因は、新共同訳聖書の翻訳者にあるようです。たぶん、「躍り上がるほど喜びなさい」という趣旨でしょうが、原文には「踊る」という文言もニュアンスも含まれていません。また、ヨハネでは「恐れるな」(12:15)となっています。これほど、訳が揺れる原因が一つあげられます。福音記者が旧約聖書をヘブライ語からギリシャ語に翻訳するときに、ヘブライ語に忠実な訳が難しかったと言うことです。なにしろ、イエス様の弟子たちが普段使っているのはアラム語です。ヘブライ語→アラム語→ギリシャ語と2回翻訳しているわけですから、結構大変な作業です。日本の聖書はと言うと、さらに英語(欽定訳)が間にあって、日本語になると言うことで、原文に忠実な訳が難かしいわけです。

 前置きが長くなってしまいました。「娘シオンよ大いに喜こべ」このシオンとは、エルサレムの町の事です。神殿のある山をもともとシオンと呼んだようですが、時間と共に、エルサレムの町全体をシオンと呼ぶようになったようです。もう一つ、シオンには天国との意味もあります。そして、大いに喜べですが、これは地上での喜びではありません。地上では味わうことのない天国での喜びの事を指します。「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。」エルサレムは、そのまま町の名前でありますが、語源的に言いますと「平和の基盤」であります。これらをまとめて意訳しますと・・・

「シオンの人々よ、大いに喜べ、神の国が近づいた。エルサレムの人々よ、歓喜の声をあげよ、平和の基盤がやってきた」と言ったところでしょう。

 『見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。』

王様がろばに乗って来る? しかも子ろばです。王様ならば馬車ぐらいに乗ってよさそうですが、イエス様は高ぶることもなくろばに乗ってきます。地上の征服者であれば、大勢の騎馬隊に護衛されて来るでしょう。しかしイエス様は、みすぼらしくも、ろばに乗って、しかも、ろばの子に乗って来ました。実際、ろばに乗った景色を考えると、威厳を感じられないし、みすぼらしく見えるのは間違いありません。それでもろばに乗ったイエス様を迎えた人々は、違和感をもちませんでした。なぜなら、当時のユダヤ人は、このメシアの預言を知っていたからです。子ろばに乗ってエルサレムに入城する人こそが、救い主メシアなのです。しかし、この子ろばに乗るその意味は、わからなかったに違いありません。それが、イエス様のエルサレム入城によって、明らかになりました。謙遜と柔和さ、そして世俗的な権威への無関心をあらわすのに、ろばの子に乗るのが適切だったのです。そして、このろばの子は、誰も座ったことのないろばです。母ろばは、体も大きくて人を乗せるには適していたでしょう。しかし、だれも座ったことのないろばの子が、イエス様のために用意されました。・・・それにしても、荷物を背負ったことのない「ろばの子」は、重かっただろうに・・・とかわいそうな光景であります。ろばの子に乗ってイエス様がエルサレムに向かうと、群衆が歓喜の声を挙げて、着ていたマント(上着)を道に広げ、木の枝を切り、葉っぱを道に敷き詰めて、叫びました。

 ホサンナ。どうか、救ってください。と

『9:10 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。』

エフライムは、イスラエル12部族の一つです。ヨセフの子からはじまった氏族ですが、北イスラエルを構成した氏族であります。ですから、エズラ等と同じ時期に活躍したゼカリヤから見ると、すでにエフライムは、遠い昔に失われています。ゼカリヤの時代に残っている氏族は、ユダとベンジャミンだけです。ほかの十部族は北王国の滅亡によって失なわれたのです。しかし、イエス様が再び来ると、失われた北王国も復活します。しかも、北王国にもユダ王国にもともに、戦車や軍馬そして弓も必要が無い平和がやって来るのです。もちろん武力による支配によってではありません。世界中がイエス様の支配によって、互に争う必要が無くなるのです。その象徴が、ろばの子に乗ったイエス様です。

 エルサレムの住民は歓喜して、救い主メシアを城壁の中に迎え入れます。もちろんこの「イスラエルの王」は、「義しい」方であります。そして「救い」をもたらします。誰に対しても、「柔和」であり「へりくだった」お方です。そうです、この救い主こそがイエス様なのです。


先ほど、ヨハネによる福音書から、イエス様入城の様子を引用しました。じつは、この中にもう一か所、旧約聖書からの引用があります。 

ヨハネ『12:13 ~そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」』

並行記事がマタイとマルコにもありますが、マルコを見てみましょう。

マルコ『11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。』

 微妙に違いますが、どちらも詩篇118篇 所謂メシア詩篇からの引用です。

詩篇『118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。』

 ホサナは、「どうかお救い下さい」を意味しますので、ほぼ同じと言えます。

 この歌は、メシアを歓喜をもって迎え入れる との預言でもあります。そして、もう一つの預言が同じ詩篇118篇にあります。イエス様の受難と復活です。

 詩篇『118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。』

 イエス様が入城した後のことです。イエス様は、神殿にいる祭司長たちや律法学者たちと問答をしていました。そこで、ぶどう園の農夫たちのたとえを話します。それは、農夫らが主人のしもべらを殺し、ついに主人の息子までを殺した話でした。(マタイ21:33~)つまり、神様の御子であるイエス様を、祭司長や律法学者がころすとの予告をしたのです。そしてこの「隅の親石」を引用します。事実、彼らはイエス様を死刑にするために総督ピラトに引き渡しました。祭司長たちは、イエス様を要らない石として捨てたのです。しかし、その捨てられた石であるイエス様が、教会の土台に据えられました。そのためには、イエス様の十字架での受難、そして復活が、必要だったのです。

 新約聖書になると、だんだん明らかになってきますが、メシアの来臨は二回あります。旧約聖書では、預言として一まとまりになっていても、実はキリストの最初の来臨と再臨を一緒に語っている場合がほとんどです。ここもその一例です。ですから、10節の方は、キリストの再臨と読み取ってください。

 再臨とは、イザヤ書やダニエル書で描かれている、神の国、千年王国が来る時であります。

 イザヤ『2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。』

平和がやってきますから、あらゆる武器はみな農作業の道具に使われる、とイザヤが預言したわけです。

 そしてゼカリヤは、その平和はイスラエルとエルサレムから始まることを預言します。戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶つ、と神様は約束しているからです。

 早くそうありたいですね、世界中の人々が平和を望み、平和を叫んでいますが、それをもたらすのは、私たちの主、イエス・キリストのみです。戦いや、政治的な交渉では、平和はやってきません。その証拠に、第二次世界大戦後、列強の支配から解放された諸国は、平和だったでしょうか?。今もどこかで、内紛などの衝突に明け暮れています。支配から解放されても、人の内にある罪が争いへと駆り立てるのです。だから、私たちは平和の君であります主イエス・キリストを、人々に証ししなければなりません。それは、イエス様の命令でもあります。(マタイ28:19,20)イエス様の十字架の犠牲によって、私たちの罪が赦されました。その事を憶えて、この一週間、イエス様の十字架による救いに感謝をささげましょう。