ルカ7:36-50

 罪深い女を赦す

 

 

 新約聖書には、香油を注いだ女性が二人登場します。一人はベタニアのマリア(マタイ26:6-、マルコ14:3-、ヨハネ12:1-)、もう一人は今回とりあげている罪深い女です。西方教会では、この名前のわからない女を他の福音書に出てくるマリア、それからマグダラのマリアと同一人物と見立てて、マグダラのマリアのことを罪深い女としてきました。(ペトロと比べマグダラのマリアの評価が高い中、ローマ法王側としては恣意的に解釈して初代ローマ法王であるペトロの権威を保とうとしたのでしょう)一方で、東方教会ではそのような解釈はされていません。


 イエス様がファリサイ派のシモンの家に食事に招かれた時のことです。その町で「罪深い女」とされていたひとりの女性が入って来て、イエス様の後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗りました。それを傍で見ていたシモンは、イエス様が彼女の行為を受け入れ、されるままにしていることが理解できませんでした。イエス様がもし預言者であるならば、彼女の素性がわかるはずだと見ていました。シモンは、その女が罪深い女であることを知っており、ファリサイ派の人々ならば、その女に近づくこともしないからです。なのに、預言者であると思っていたイエス様がこの女を受け入れていることを赦せなかったのです。


 イエス様は、彼の思いを見抜いて、「二人の借金のたとえ」を話しました。金貸しが二人借金(一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ)をあわれんで帳消しにしたという短い話です。その話をした後、イエス様はシモンに「二人のうちどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか」と尋ねます。シモンから「帳消しにしてもらった額が多いほうだと思います」との答えを引き出しました。このシモンの答えで、彼女の行為をなぜそのまま受け入れているのか、説明しようとしたのです。


 罪深い女として知られていた女性は、主から「あなたの罪は赦された」(48節)、さらには「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)との言葉を頂いています。イエス様は、「あなたの信仰が」と言っておられますが、彼女の信仰はどのような点に見つけることができるでしょうか。


 まず、呼ばれてもいない、そして歓迎されるはずのないファリサイ派の人シモンの家に行ったことにあります。もちろんイエス様に会いに来るわけですが、彼女は町の人たちから自分がどのように見られていたかを知っていました。特にファリサイ派の人からは避けられていることはよく分かっています。そんなところに出て行ったら、追い出されることは覚悟の上だったのでしょう。彼女が勇気をもってシモンの家に行くためには、自分の罪深さをそしられる覚悟が必要だったのではないでしょうか。


 次に、自分のような罪深い者でも赦し受け入れてもらいたいと、イエス様のもとにやって来たことにあります。彼女はイエス様のうわさを知り、イエス様に会いたいと思いました。イエス様は、人々を癒し、罪を赦してきた、とても権威の高い預言者だとの評判からです。しかし、彼女はそれ以上のことは知りません。そもそも、罪深い女に会ってくれるのか?話を聞いてくれるのか? それさえわからないのです。それでも、彼女はイエス様があわれみ深い方であるとの信仰をもって、イエス様に近づいたのです。そして、彼女はイエス様が信じたとおりの方であることを知りました。イエス様を彼女なりにできることで歓迎したのですが、イエス様は、だまって、彼女のすることを受け入れてくださったのです。すでに彼女は、イエス様に近づいた時から、赦されていました。そして、それを分かった彼女は、イエス様の足を溢れる涙で濡らしてしまいました。


 そして、イエス様に対して愛の行為をします。この当時のユダヤでは客人の足を洗ってあげて、オリーブオイルを、顔や足に塗りつけて、歓待の意を表します。ファリサイ派のシモンは、イエス様を招待しておきながら、歓待している様には見えません。彼女は、とっさに髪の毛で足を拭き、そして持っていた高価な香油をイエス様の足に塗りました。今できることの最大のことを、彼女はそこでやり遂げたのです。それは、彼女の欲しかった最大のものを受け取ったからだとも言えます。

 イエス様は、シモンからより多くを帳消しにしてもらったほうが金貸しを愛するようになる、との答えを引き出しました。そして、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)と言いました。罪深い女とシモンのイエス様に対する態度の違い(44-46節)は、「多くの罪が赦された」ことを感謝する者と「赦されるべき罪など犯していない」と考えている者との罪の意識の違いであります。たとえに登場する五百デナリの借金と、五十デナリの借金では、より多く赦された者が より金貸しを愛するでしょう。しかし、このファリサイ派のシモンは、借金があることそのものを受け入れていません。罪の自覚のないところにイエス様の赦しはやってこないのです。


 だれでも罪の赦しを受けるためには、自分が赦しが必要な罪人であることを知る必要があります。また、どんな行いも罪の赦しを得るには不十分であることとを認めなければなりません。罪を赦す権威をもった方であるイエス様の前に出て、罪の赦しを願うからこそ、イエス様は私たちの罪を赦してくださるのです。


 そして、罪を赦された女は、イエス様から「安心して行きなさい」と声をかけられ、イエス様の愛に応える新しい歩みが始まるのです。その後、聖書にはこの女がどうなったかは書かれていません。しかし、少なくとも、一人で背負っていた罪を、イエス様が丸ごと背負ってくださったことに感謝して心が軽やかになったのだろうと思われます。そして、罪は犯さなくなったと信じます。