ローマ5:1-11

神との間に平和を

1.義とされる

 キリスト教では、「義とされる(δικαιόω)」と言う言葉を良く使います。これは、「正義」とか「罪がない」とかを意味する言葉です。かつては、旧約聖書の律法を守ることが義とされていました。ところが、パウロは「イエス様を信じる事」によって義とされる。つまり、人間の罪は無くなるわけではありませんが、イエス様を信じる信仰によって、罪を赦され「無罪」とみなしてくださると教えました。ですから、神様が義であることと、人間が神様の前で義であることは、そもそもが異なるわけです。

 ですから、その義は神様からの贈り物と言えます。神様の義と、イエス様の十字架の犠牲があって、私たちの罪が贖われました。このように、義とは私たちの中にある正しさではなく、神様ご自身の正しさであります。それを何の代価も払っていないのに頂いているのです。そして、義とされるその理由はもっぱら神様からの憐れみであります。神様がその憐れみに満ちた性質から、私たちにただただ良くしてやりたいという思いで、私たちにご自身の義をくださったのです。そして、私たちが義と認められるのは、イエス様への信仰の故です。このイエス様への信仰こそが義とされる唯一の理由であり、それ以上には何も求められません。

2.神との間に平和

 私たちがイエス様への信仰によって義と認められたことによって、神様との和解があります。全てを神様に委ねようと願いますから、神様の御心に逆らう考えなどはありません。事実、すでに神様の前では、罪人ではなくなったのです。ですから、私たちは、神様の御心によって導かれることを祈ります。その恵みによって、すべては「私たちの思うように」はなりませんが、神様の御心によってその栄光が示されます。また、神様の御心の通りになると信じ祈ることによって、私たちには平和が与えられ、そして将来に希望を持つことが出来るのです。

3.聖霊の働き

 パウロは、「神様との間に平和があるために、希望がある」と言いました。それに加えて、たとえ苦難があったとしても、それは希望につながると言っています。ローマの信徒への手紙は、パウロの第三回伝道旅行の目的地であるギリシャのコリントで書かれていますから、パウロはそのころまでに色々の苦難を経験してきています。牢獄に入れられたり、命を狙われたりもしました。また、教会の中でも、派閥のようなものが出来るなど、苦労は多かったのです。しかし、パウロは耐え抜いたんですね。そして耐えるだけではなく、うまく対応できるようになってきました。「つぶされてしまう」と言うような心配ではなく、希望を生んだとパウロは言います。これはパウロの自慢話ではありません。パウロに耐えることが出来、希望が与えられたのは、「聖霊の働き」であると、パウロは証しているのです。

 『神の愛がわたしたちの心に注がれている』。

 この言葉には、苦難にあっても、「私たちは神様に愛されている」とのパウロの思いが現れています。たくさんの励ましと力を神様から頂いていると感じているのですね。パウロは、耐えるだけではなく、神様からの愛に答えようと、誇りをもって行動したと言うことでしょう。「あなたは神様から愛されています」このことを知ってください。それだけで、心が軽くなります。そして、それだけではありません。私たちが生きているよりどころは、「神様から愛されている」ことであります。キリスト教徒は「神様から愛されていること」を誇りにして、喜んでいるのです。

4.神様の愛

 イエス様を信じて聖霊によって神様の義が私たちの中に入るその前に、イエス様は私たちの罪を負って死んでくださいました。それは、全ての者の罪を赦すためであります。イエス様を信じる信仰によって、神様の前に義とされたならば、私たちの中には神様の義が入ってきて強められるのです。 そして、イエス様は、私たちのために死んでくださいました。イエス様は、私たちに愛を示されたのです。イエス様は、義しい方であり、そして私たちを愛する神様でもあるからです。私たちを死ぬほどに愛してくださったのです。

 5:9の日本語訳の意味が分かりにくいので、直訳してみました。

「私たちは今、彼(キリスト)の血によって義とされたので、私たちは彼(キリスト)を通して怒りから救われます。」

 イエス様の命を代価に、私たちは赦されて義とされました。イエス様がとりなしますから、神様の前では罪を赦されたのであります。裁きの時もイエス様が神様にとりなしてくださいますから、神様の怒りから救われるのです。私たちはイエス様のとりなしに委ねています。ですから、まだ裁きの時が来ていないにもかかわらず、すでに救われた!。罪が赦された!。と確信しているのです。

 5:10も同じように直訳してみますと、

「私たちが神様の敵であったとき、私たちが神様の独り子の死を通して神様と和解したなら、和解した私たちは彼(キリスト)の命を通して救われます!」

 神様の敵とは、神様の義に従わない者のことです。パウロは、かつてキリスト教を迫害しました。明らかに神様の敵だったのです。しかし、パウロは、十字架上で死に、復活したイエス様と出会い、イエス様を信じたのです。これは、神様との和解を示します。この救いは、イエス様ご自身が犠牲になってもたらされました。イエス様は義しいお方でありますから、神様に従ったのです。イエス様は神様を愛し、そして私たちのことも同じように愛してくださっています。こうして、私たちが知らないとき、知らないところで、イエス様の愛が働いています。