使徒20:17-38

誰の血についても

  

   第三回伝道旅行を終えようとしているパウロは、コリントからマケドニアを通って船に乗ってミレトスについています。ミレトスは、エフェソに近い港町なので、船待ちの間にエフェソに人をやって、エフェソの長老たちを呼び寄せます。本来であれば、パウロたちがエフェソに行ってもよさそうですが、危険を感じたのでしょう。また、パウロは無事にエルサレムに到着しなければなりませんでした。エルサレムの教会のために募金を集めていたからです。(1コリ16:1-4)そして、パウロにはすでに、投獄と苦難が告げられていました。

参考:『受けるよりは与えるほうが幸いである』 このイエス様の言葉は福音書にはありません。しいて、挙げるとルカによる福音書にこの記載があります。
ルカ「6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

1.投獄と苦難

 霊はパウロに、投獄と苦難があることを告げていました。ですから、エフェソの長老たちとはお別れの挨拶となったのです。今までも伝道をするうえで、ユダヤ人たちの陰謀によって、迫害され続けていたパウロですが、異邦人の伝道で成果を挙げています。これまで石を投げられたり、暴動を起こされたり、投獄されてきた記憶を呼び起こしても、これから先エルサレムで何が起こるかは、パウロ自身も予想がつきません。しかし、パウロは霊に促されながら自らの使命だと考えて、エルサレムに行くことを決めています。そして、パウロはエフェソの長老たちともう二度と会うことがないことを告げました。


2.だれの血についても

 パウロはこういいます。

『わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。20:26 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。』

 パウロは、どんな困難がある時も、このエフェソの地域で福音を宣べ伝えました。神様から与えられた使命を果たすためです。確かに、あちこちで迫害を受け、多くの血が流されました。そして、パウロ自身も回心する前はキリスト教を迫害していたのです。その血でさえもパウロの責任ではないとパウロは弁明しました。つまり、パウロが、キリスト教を迫害したのも、神様の使命を果たすための準備であり、パウロはその使命を果たすために、福音の伝道に命を懸けてきたということです。そして、今、パウロがエルサレムに行くことによって、流されるだろうパウロ自身の血についても、パウロの責任ではなく、神様のご命令だということです。

 そして、パウロがエルサレムに行った後に、エフェソの教会の群れを荒らす者が現れ、中には血を流す者がでることはパウロは知っているのです。それでも、その流される血には、パウロには責任がない。エフェソの監督を任せ、そしてパウロを福音の伝道に用いたのは、神様だからです。


3.受けるよりも与える

 エフェソの長老たちにエフェソの教会の働きを託して、パウロはエルサレムに向かおうとしています。パウロは、全てを託するこの機会に、長老たちに言います。

『20:32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。20:33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。』

 長老たちを神様に託す。それも、恵みの言葉によってです。恵みとは、物、お金、人望などではありません。神のみ言葉だけが恵みなのです。ですから、パウロは誰からも金銀や衣服をもらわないようにしていました。パウロは働きながら、教会から手当をもらわずに、福音を宣べ伝えていたのです。ですから、パウロは、恵みは神様からのみ言葉だけでした。イエス様の言葉のように『受けるよりは与える方が幸いである』。パウロは、これを実践するよう、長老たちに言い残しました。