マタイ16:13-28

十字架への道

2024年 33日 主日礼拝 

十字架への道

 聖書 マタイ16:13-28

今日の聖書は、マタイによる福音書から、イエス様が十字架の死と復活について打ち明ける場面であります。

 さて、フィリポ・カイザリヤ地方、今のゴラン高原に遠出したときに、イエス様は弟子たちに尋ねました。

『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』

 人の子とは、イエス様の事です。イエス様と弟子たちは、旧約に出てくる偶像が置かれた町「ダン」のあたりに来ていました。イエス様の時代、そこは異邦人の町であり、バアルなどの偶像を礼拝していました。そのような異教徒の町への伝道にとりくんいましたが、イエス様はここで、引き返すことになります。そこから、十字架への道が始りました。

イエス様は、「人々は私を何者だと言っているか?」と聞きます。すると。

 『16:14 弟子たちは言った。「『バプテスマのヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」』

 弟子たちが挙げたのは、まず、バプテスマのヨハネです。ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスは、イエス様の事を「バプテスマのヨハネの生まれ変わり」だとして恐れていました。(マタイ14:1,2)そしてエリヤですが、聖書のなかではエリヤは死んでいない事から、今も生きていて、再び来ると言われています。また、伝統的には、救い主の前にエリヤが現れると信じられています。それから、エレミヤですが、続編と呼ばれている書物の一つであるマカバイ記二(2:5)にこの記事があります。「エレミヤがエジプトに契約の箱を隠した」とですね。そして、預言者の一人です。救い主は預言者の一人だと言われていたようです。

 『16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた』

 様々な名前が挙がった中、ペトロは「イエス様がメシアであり、神の子であり、この世に人の子として生きている」と告白しました。メシアは、ヘブライ語で「油を注がれた者」という意味です。また、キリストはそのままギリシャ語への直訳です。古代イスラエルの王様は、頭に油を注がれて王座につきました。ですから、キリストとはすべてを支配する王様を意味します。また、神の子であるならば、神様と同じ性質を持っていることであります。そして、キリストは神様ご自身でもあります(イザヤ43:11)。イエス様は十字架につけられて死にました。その死によって私たちは罪を贖われました。だから、イエス様こそキリストであります。イエス様の十字架は、良き知らせなのであります。

 エルサレムの人々が、キリストを十字架につけたと言う事は、彼ら自身が「神様を否定した事」を意味します。「神様に従うのではなく、自分の考えに従う」。この性質を持っていることは、私たちが、罪人である証拠であります。人間は皆、自分勝手に生きようとする罪人です。それなのに、本来裁かれるべき私たちの代わりに、神の子イエス様が十字架につけられたことは、神様の私たちへの愛に他なりません。神様に従わない私たちの罪を、ご自分の愛する子に負わせたのです。

『16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』

 このイエス様の言葉を原語に忠実に訳しますと「ヨナの子シモンよ、あなたは幸いである。肉と血が、このことをあなたがたに明らかにしたのではなく、天におられるわたしの父が、このことを明らかにしたからである。」となります。血と肉とは、いずれ死んでしまう人間ではなく、「神様」が明らかにしたことを強調しているものです。「神様が明らかにした」と言うことですから、ペトロの信仰告白は、ペトロの言葉ではなかったことになります。神様が働きかけて、ペトロに言わせていたのであります。

 「ペトロが無意識のうちに神様に言わされている」。そんなことに、その場にいた弟子たちは気づいたでしょうか?たぶん、気づいていないと思います。 このように気づきにくいのは、神様の霊の働きは、ごく普通に行われるからです。私たちはとかく、超自然的と自分で思うことだけを霊の働きと考えてしまいますが、いつもごく普通に神様が働かれているのです。

 イエス様は続けます。

『16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』 

 ペトロという名は、ギリシャ語でぺトロス(Πέτρος)です。意味は石一個を指します。岩は元のギリシャ語では、ペトラ(πέτρᾳ)となっています。ペトロスは、道ばたにでも転がっているような石であり、そしてペトラとは大きな岩の塊です。ですから、イエス様が言っているのは、シモン・ペトロの上に教会を建てる事ではありません。大きな岩の塊の上に教会を立てるのです。ここでイエス様の言う大きな岩の塊ペトラとは、ペトロが神様に導かれて告白した先ほどの「信仰告白」のことなのです。ですから、イエス様は神の子キリストであるという告白の上に、教会を建てるのです。そして注目したいのはイエス様が、「わたしは、わたしの教会を建てる。」と言っていることです。教会は私たちのものではなく、キリストのものです。そして、教会は私たちが建てるのではなく、キリストが建てます。教会はキリストの持ち物であり、キリストがその業のために用いるのです。

 そして、イエス様への信仰の上に建てられた教会は、暗闇の勢力にも打ち勝つ力を与えられます。


『わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。』

 たしかに使徒行言行録(2:14~)を読むと、ペトロが最初に福音の説教をしました。初めて福音の扉を天の国の鍵を使って開けました。そして、ペトロに続きステファノ、バルナバ、パウロがその扉を通って行ったとの解釈もできます。しかし、この鍵は複数です。ペトロにだけ特別に天の国の鍵束が授けられたと考えるよりは、信仰を告白したすべての人々に天の国の鍵束が授けられていると考えた方が良いのでしょう。

『あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』

 この地上でその鍵束を使って、人々を教会とつなぎ、そして、人々を罪の縛りから解きます。すると、天の国でも、その人々は天の国とつながり、暗闇から解かれるのです。


 その時から、イエス様は、ご自身の将来を弟子たちに打ち明けます。エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえることを。すると、ペトロはイエス様をいさめ始めました。ペトロは何故、先生をいさめたのでしょうか。その理由は、イエス様が殺されるのは、弟子たちにとって受け入れにくかったからでしょう。ただ、それだけの理由で、たった今信仰を告白したそのメシア本人の言葉を、いさめるのはおかしいですね。だからこれは、言わされているのです。先ほど神様によって「神の子だと」言わされたように、ペトロはサタンに言わされていたのだと私は理解しました。

 

 『イエスは振り向いて、ペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。」』

 

 こうして、神様によって計画された十字架への道が始まりました。十字架への道は、イエス様に従う者にとっては、自分を捨てる道となります。イエス様は弟子たちに言いました。

『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』

 イエス様はペトロに厳しい言い方をしました。ペトロはイエス様に「十字架を背負ってはいけません」と言ったからです。それは「ペトロ自身も十字架を背負いません」と宣言したのと同じです。この言葉は、神様から出たのではないのです。人の思いであり、サタンが入ったのです。

 イエス様は、ペトロだけではなく弟子たちに言いました。

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」

 「私のために命を失う者は、永遠の命を得る」

 十字架への道は、結果として自分を捨てる道です。文字通りに読めば、命を落とす道でありますから、そのまま飲み込むことはとてもできません。ですから、現代に生きる私たちは、「イエス様の働きのために献身する。奉仕する。」と受け止めるとよいでしょう。自分の十字架とは、ただ耐えるとか、犠牲になることではないのです。神様のご計画のために、祈ること。そして、私たちがそのために担える働きを見つけること。全世界の人に福音を宣べ伝えるための働きにつながること。加えて、永遠の命を頂くことに希望をもって、喜んで働くこと。それが、私たちの十字架なのであります。神様は、それぞれが自分の十字架を選べるように、いろいろと担えそうな働きを準備しています。

自分の十字架として何を選べるだろうか? このことを祈って求めてまいりましょう。