1.父の霊が語る
イエス様は 12 使徒を選び、初めて宣教旅行に遣わすために、語っています。イエス様の弟子として、神の国の福音を宣べ伝えることは大いなる恵みです。しかし、行く手には多くの困難が予想されます。迫害があることをイエス様は予告して、弟子たちに準備をさせようとします。
『狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。』
羊は弱い存在、無力な動物として取り上げられています。いつ狼に襲い掛かられるか分かりません。そのような危険な中に弟子たちを送り込みます。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とイエス様は言います。賢く、素直、この二つを併せ持つようにと言っているわけです。賢くあるけれども素直な人。あらゆることをよく考えて注意深く判断する人であると同時に、神様への信頼から来る純粋さ、素直さを持つ人であるようにと。
弟子たちのこれからの生活には、どんな危険が待っているのでしょうか。まず地方法院に引き渡されるとあります。イエス様に従って神の国の福音を伝えていると、そういうところに引っ張って行かれ、裁判にかけられることが予想されます。また会堂でむちで打たれる。さらには総督たちや王たちの前に引き出される。つまり、ユダヤの宗教裁判にかけられるばかりか政治犯として捕らえられ、裁判にかけられるのです。それは、イエス様のために起こることです。イエス様の弟子であることをやめれば、迫害はなくなります。しかしイエス様の弟子として歩む限り、避けられない。イエス様はそのように語っています。
地方法院や、総督、王たちの前に連れて行かれることは怖いことです。しかしそれは「総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」とあります。なぜ、弟子たちは権力者たちの前に引っ張られるのか。それは人々に証しするためである、と。そのために神様がすべてを導いているのです。
イエス様は、そんなときでも弟子たちに 心配する必要がないと語ります。話すことはその時与えられる。あなたがたのうちにおられる神の霊が話してくださる。だから心配する必要はありません。突然、ローマ総督や王たちの前に引き出されて、ゆっくり頭を整理する時間もない。うまく弁明できなければ、それでもうおしまいなのか。いや大丈夫。聖霊が語るべき言葉を教えてくれる。そのことを信じて、神様により頼むように、ということです。
2.迫害は栄光を表す
とらわれるなど その困難の中でも、蛇のように賢くあるべきことが 書かれています。例えば、ある地域で迫害されたならば、そこにとどまることが良いとは必ずしも言えません。無駄に粘って、命を落とすより、他の町へ移って他の人々に向けた宣教に仕える方が良いと言えるでしょう。
また、当然ながら、弟子が先生よりも良い待遇を期待することはできません。先生が迫害されているのに、弟子が座って眺めているだけといった状態にあることはないのです。むしろ、弟子の方がひどい拷問を受け、そして扱いも悪いでしょう。しかし、イスラエル中を回ってしまう前に、イエス様は再び来られると、予告しました。
もう一つ考えるべきことがあります。それはなぜイエス様は人々からの迫害や反対活動を、そのままにしていたのかということです。むしろ罪ある人間どもをさばき、ご自身の正義を力強く高く掲げれば良いのではないかと思ってしまいます。こんな理不尽を放置せず、正しくすることこそイエス様がすべきことでないかと考えるわけです。しかしイエス様がそうしなかったのは、私たちの救いのためです。もしイエス様が悪を滅ぼすなら、罪人である私たちは誰一人救われないことになります。皆さばかれて終わりです。しかしイエス様がこの世に来たのは、私たちの罪を背負って代わりに苦しみを受け、信じる者たちを救い出すためでした。ですからイエス様が人々から受ける迫害は不当なものではありますが、イエス様は甘んじてそれを受けているのです。
そしてその行き着くところが、あの十字架です。ですから私たちはイエス様の弟子となることによって、苦しみを背負わされるわけではないのです。イエス様が受けられた苦しみは本来私たちが受けるべき苦しみです。それをイエス様が担っていてくださいます。私たちを救うためにです。力強く愛に満ちた先生のお姿です。私たちはそのお姿を見つめて礼拝し、地面に額をこすりつけて感謝しながら、この先生に従って行くべきではないでしょうか。
『10:25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。』
師を尊敬している弟子としては、師のようになれたら十分です。
『家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。』
ベルゼブルとは悪霊のかしらのことです。これは当時の社会で、イエス様に対する最もひどい中傷です。もし家長がそう呼ばれるなら、その家族はもっとひどく呼ばれてもおかしくありません。しかし、もしイエス様と同じようにこの世から迫害されているなら、イエス様と同じ家族、神の家族、天の家族に属している証明になります。イエス様に従ってイエス様に似る者とされ、苦しみを受けてもかえって光栄だとして感謝しつつ、歩みたいと願うものです。