1.ガリラヤの山に
弟子たちはイエス様が指示されたとおり、ガリラヤへ行き、山へ登りました。彼らはそこに現れたイエス様を礼拝しました。しかし、ある者は疑いました。この期に及んで何を疑うというのでしょう?――復活された主イエス様は、すでにエルサレムで弟子たちの前に現れたことが、他の三つの福音書に記されています。ガリラヤの山で弟子たちに現れたのは三度目か四度目でした。それでも弟子たちの幾人かは疑いました。
『28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』
弟子たちはイエス様と共に過ごしていましたから、イエス様の持つ権威を見てきました。暴風を静める権威、病気をいやす権威、悪霊を追い出す権威、人の罪を赦す権威、人を生き返らせる権威。そして彼ら自身も悪霊を追い出す権威と病気をいやす権威を与えられ宣教しました。権能とは、権威を持っていて、自分の意思で行使できて、権威を使いこなす能力があることを指します。 しかし、イエス様が十字架で死んで葬られたとき、弟子たちは失望しました。イエス様が権威を用いることなく、終わってしまったことに落胆したのです。ところが三日目の朝、イエス様は復活しました。死んだ者が復活するというしるしは、何者よりも高い権威を示します。ですから、本来は弟子たちの失望と落胆を吹き飛ばしているわけです。十字架の苦しみを耐えたイエス・キリストに、父なる神様はすべての権威を与えたのです。しかし、疑った弟子はイエス様の受けた権威を目の当たりにしながら、まだ何事が起っているのかを理解できていなかったのです。
参考:エフェソ『1:20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、1:21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。』
2.大宣教命令
『28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』
父なる神様から与えられた権威のもとに、イエス様は弟子たちを宣教に遣わしました。その目的と、範囲は、これまでになかったものです。 ここには4つの命令があるように見えますが、原語では、1つの命令しかありません。「弟子にしなさい」だけが命令に使っている動詞です。ほかの、「行って」「バプテスマを授け」「教えなさい」では、動詞ではなく分詞なので、弟子にする方法を説明しています。ですから、この大宣教命令の目的は、すべての民をキリストの弟子にすることだと言えます。
それでは、その方法についてみてみましょう。
①行く
待っているのではなく、人々の所へ行って福音を伝えます。出て行かなければ宣教は始まりません。行って宣教するなら、人々が救われ、救いの喜びで教会が満たされ、活気が与えられます。 教会に集まるのは礼拝のためであり、交わりのためです。ここで神様と交わり、兄弟姉妹と交わりを持ちます。それで私たちは、証しする元気が与えられます。そして、教会での交わりによって、キリストの証人として遣わされるのです。
②バプテスマを授ける
次にすべきことはバプテスマを授けることです。バプテスマはキリストの弟子となる最初の決心です。決して、人を救うものではありません。 バプテスマは神様が命じた大切な礼典です。父なる神、子なるキリスト、聖霊の名によって、バプテスマを授けます。三位一体の神様の権威によって、バプテスマを宣言するのです。 水のバプテスマを授けることは「あなたを今日からキリストの弟子として任命します」という意味です。受ける側から見れば、「私は今日からキリストの弟子として歩んでいきます」という決心と告白です。
③教える
弟子とするために教えなさいと命じています。キリストの弟子が学ぶのは、キリストの言葉であり、聖書です。またキリストにある生き方をも学びます。そして、人々を弟子とするため行くのです。
④対象
弟子とするのは、「すべての民」です。以前は、対象はユダヤ人だけでした。新しい時代における宣教対象は全世界のすべての民です。
⑤期限
世の終わりまでです。
⑥あなた方と共に
大きな支えです。弟子たちはイエス様を見捨てて離れていきました。けれどイエス様は「いつもあなたがたと共にいます」と約束したのです。この言葉に弟子たちはどれほど励ましを受けたでしょう。