ヨナがニネベで「審きの預言」をすると、その言葉を聞いたニネベは悔い改めました。そして、神様はニネベの悔い改めを見て、下そうとしていた災いを思いとどめました。この結果は、ヨナにとって心外でありました。救いはユダヤ人だけでよいと思っていたからです。ヨナは、ニネべを救った神様に、憤り、公然と抗議します。
ヨナはここで、神様の命令に背いてなぜタルシシュに行ったかその理由を言います。
『4:2~だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。』
ヨナは、神様のことを正しく理解していたのです。にもかかわらずヨナは、その恵みと憐みの神様の在り方に、不満があったのです。ある意味、ユダヤ至上主義者であり、神様のような寛容さがなかったと言えるでしょう。そして、
『4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」』と言って、神様に抗議し続けたわけです。そこに神様は問います。
『4:4 ~ 「お前は怒るが、それは正しいことか。」』
しかし、この言葉に対してヨナは答えません。都に何が起こるかを見届けようとしたのです。無言の反抗でしょうか?純粋に、正しい判断かどうかを見届けたかっただけでしょうか? このヨナに対して、神様はとうごまの木で、日陰を作り、憐れんでくださいます。・・・しかし、神様は翌日には、そのとうごまを枯らせてしまいます。また、焼けつくような東風を吹かせヨナを苦しめました。
ヨナは、すべては神様の業と理解していたのでしょう。神様の仕打ちを怒っています。
『4:9 神はヨナに言われた。 「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」
彼は言った。 「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」』
これは、神様の業でありました。ヨナは、それを知っていて、そう言った判断をする神様を怒ったのです。もちろん、神様がなぜそのようなことをするのか?は、ヨナは知りません。しかし、自分の受けた「とうごまの日陰の涼しさ」が奪われ、そして「焼けつくような東風」を浴びせられたのです。この落差に肉体が耐えられなかっただけではなく、ヨナに対する神様の仕打ちに怒っていました。神様のなさる深い計画が、自分の意に沿わないからといって、神様に怒ったのです。「それは正しいことではない」これが神様のヨナへの問いかけです。
ヨナは、「もちろんです」と答えます。
ヨナは、とうごまの木が生えるように祈ったわけでも、それに水をやって世話をしたわけでもありません。とうごまの木の生えること枯れること、そのいずれもヨナの意志で起こったことではないのです。ヨナは何の関与もしていないのです。そして、すべてのことは、神様が計画して、実行したのです。ヨナは、その結果の一部を見たり、受けとめては、喜んだり、怒ったりしました。基準は、ヨナの心にかなうかどうか・・。それだけです。もし、神様の意思で起ったことならば、それを批判したり、怒ったりするのは意味がありません。神様の意思の通りになる。そのことを祈り受け入れていくことが大事です。なぜならば、神様は最善を備える神様だからです。
『4:10 すると、主はこう言われた。 「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」』
ヨナにこの事実を教えるために神様は、とうごまの木を育て、そして枯らしました。ヨナは、自らは何も関与していないとうごまの木を惜しみました。ましてや、神様はニネべの町を救うために、手を尽くしているのです。異邦人の町であっても、誰であっても、神様は失うことを惜しんで、導き、助けるのです。