2025年 8月 3日主日礼
「憐れみ深い神様」
聖書 出エジプト記22:20-26
今日は出エジプト記からのお話します。選んだ箇所は、契約の書と呼ばれている律法集の9番目にあります。
契約の書とは、旧約聖書《出エジプト記》20章20節から23章19節までにあるイスラエル最古の法律集です。モーセが十戒を神様から頂いたときに、続けてこれらの契約の書も頂いたのです。20章では、祭壇について、21~22章では,奴隷の取扱いと、傷害や窃盗などの不法行為に関する律法から成っています。全てを紹介するわけにもいきませんので、9番目の掟、神様の憐みによる掟を中心に、お話ししたいと思います。
まず、契約の書で紹介したいのは、「(6)盗みと財産の保管」という項目です。ここでは、賠償について、規定しています。
出『21:37 人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。
22:2b 彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。22:3 もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない。』
家畜を盗んで売ってしまった場合には、4倍ないし5倍にして返すという掟です。一方で、まだその家畜が生きていたならば、倍返しをしなさい。この掟で 神様は盗みを禁じるだけではなく、盗みの代償を規定することで、被害にあった人を救済しようとしているわけです。もちろん、この代償は倍以上なので、盗みへの抑止効果も期待できます。
次に出てくるのは、泥棒を殺してしまった場合です。
出『22:1 もし、盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけられ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。22:2a しかし、太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある。』
これを今の言葉で言えば、正当防衛が成立する条件と言うべきでしょうか?。夜に誰かが壁に穴をあけて、そこから入ったなら、泥棒か、人殺しと判断されるのは仕方がないと思います。その侵入者の目的は良からぬことであることは間違いないからです。しかし、その目的を確認する余裕もなく、相手がどんな武器を持っているかもわかりません。そんなとき、その侵入者がこちらに向かって来てしまって、身を守ろうとした結果 相手が傷ついても、それを罪に問われることはないでしょう。しかし、明るいところでかつ、こちらに余裕があるときであるならば、「やり過ぎ」は罪に問われなければなりません。
私たちには、自分の身を守る権利があります。だからと言って、そうした侵入者に許される防衛と、過剰な防衛とは、厳格に区別しなければなりません。たとえ泥棒と言えども、怪我をしても構わないと言うことはありませんし、命は守られるべきなのです。
つぎに、畑での盗みです。
出『22:4 人が畑あるいはぶどう畑で家畜に草を食べさせるとき、自分の家畜を放って、他人の畑で草を食べさせたならば、自分の畑とぶどう畑の最上の産物をもって償わねばならない。』
当時のユダヤはおおらかなものでした。人の畑に入ってぶどうや麦を取って食べてよかったのです。(申命記23:25~26)もちろん、重大な損害を与えないことが前提です。その規定の根底にあるのは、貧しい者や旅人への配慮でした。しかし、家畜は、人のように節度をもって食べることができません。ですから、飼い主が きちんと管理する必要があります。そして、「家畜のやったことだから・・・」と逃げることも許されません。このような場合の被害に対して、神様は正当な賠償を 加害者に義務付けたのです。そして、この掟の続きには、火事を出した者の賠償責任、預かり物を失くした場合の賠償責任等もあります。さらに、その預かり物が家畜だった場合についてまでも、言及しています。このような記事を読んでみるほどに、こんな大昔から、財産を盗まれて、泣き寝入りをした人々が多かったのだな と思いました。
ここまでの、掟は 賠償が比較的に大きいことを除けば、現代にも通用するものです。しかし、7番目8番目の戒めは、命と尊厳の価値観が違ってきている現代社会では、受け入れられません。しかし、価値観が変わってきているとしても、「罪を犯したならば、必ず責任を取らなければならない」との 大前提は、今も昔も変わりがありません。責任を取らせる目的は、被害にあった人を救済することであり、また、被害を防ぐための抑止力となるためです。そういった意味で、これらの掟は、「被害者を思う」神様の憐み だと言えるのです。特に今日の聖書は、そういった神様の憐みを感じる箇所だと思います。
さて、今日の聖書の箇所から、9番目の掟である人道的律法です。
『22:20 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。』
旧約聖書の時代、寄留者、寡婦、孤児、これらの人たちは社会の中で、最も弱い立場にありました。この人たちには、彼らを守り、支える保護者がいません。だから、近くにいる人がその人たちを守り、養うしかないのです。
神様は言います。「あなたがたは、かつては寄留者」。ユダヤの民は、エジプト脱出によって、寄留者ではなくなりました。エジプトで虐げられていたところを、神様が保護したので、救われたのです。決して、その事実を忘れてはなりません。自分が寄留者だった時は神様の助けによって救われたのです。だから、今、あなたがたは、助けが必要な寄留者たちを虐げてはいけません。 そのように、神様はユダヤの民を戒めたのです。
『22:21 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。』
寡婦、孤児、彼らをどれだけ大事にできるか。それは、その共同体がどれほど成熟しているかどうかにかかっているのだと思います。神様の言葉は、さらに続きます。戒めても、弱い者にひどいことをする人はなくならないのです。だから、苦しめてはならないとの命令への違反に対して、神様は語ります。
『22:22 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。22:23 そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。』
この神様の言葉は大変厳しいものです。あなた方が、寡婦や孤児を苦しめるならば、あなたの妻や子供に同じ思いをさせるとの 神様の強い意志です。いわゆる、対等な痛み 「目には目を、歯には歯を」といった厳しさを示して、ユダヤの民を戒めたのです。もともと神様は弱い者を養うようにと 命令していました。それなのに、守られていないからです。
申命記『24:19 畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。24:20 オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。24:21 ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。』
この言葉で 思い起こすのは、ルツの物語です。ルツは夫に先立たれて、寡婦になります。しゅうとめのナオミはルツに実家に帰って再婚するよう、何度も勧めるのですが、ルツはナオミを見捨てず、いつまでもナオミに従って行くのです。ナオミが故郷のユダに帰る時も、ルツは住み慣れた土地(モアブ)を離れて、ナオミに従いました。ルツは知り合いもいないユダの地で、寡婦であり、寄留者でした。そのルツに親切にしたのが、ボアズという人です。
ルツ『2:8 ボアズはルツに言った。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。』
そして、ボアズは家の者に指示します。
ルツ『2:15 ~「麦束の間でもあの娘(むすめ)には拾わせるがよい。止めてはならぬ。2:16 それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。」』
やがてボアズは、正式な手続きをとってルツを妻とし、その二人から、エッサイが生まれ、エッサイの子が、後に王となるダビデです(ルツ4:17)。
『22:24 もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。』
イエス様も、同じように教えていました。
ルカ『6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。』
無条件で人に良いことをし、見返りを決して求めない・・・。そんなことをいていて大丈夫でしょうか?。でも、安心して人に良いことをしてください。神様は憐み深いので、あなたのその行いに必ず報いるからです。
『22:25 もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。22:26 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。』
イエス様もこのように命令していました。
ルカ『6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」』
今私たちは、イエス様の名前のもとに教会に集められ、一つの群れとされています。神様の御心、イエス様の御心を知って、このイエス様の命令に応えたい。そう望んでいます。そして、そもそも私たちは神様から養われています。だから、その神様の憐み深さに信頼して、従って参りましょう。