2024年 9月 8日 主日礼拝
『新しい永遠の契約』
聖書 エレミヤ書50:1-5
今日は、旧約聖書のなかでも、大預言者と言われるエレミヤ書からお話します。まず『エレミヤ書』ですが、『イザヤ書』『エゼキエル書』とならんで3大預言書のひとつとされます。またエレミヤは、旧約聖書の『列王記 上下』や、『哀歌』も書いたとされています。エレミヤが神様の言葉を取り次ぐ預言者として、若くして立てられたのは、南ユダ王国のヨシヤ王の治世第13年(紀元前627年)でした。
はじめにエレミヤが預言したのは「北からの災い」(イザヤ1:14)です。ここで言う北とは、新アッシリア帝国(BC934- 609年)の事です。ユダヤの歴史から見ると、3代目のソロモン王の末期から、15代目のヨシヤ王までが新アッシリア帝国の時代です。そして、新アッシリア帝国は、古代オリエントを征服した最初の国であります。ちょうど、ユダのヨシヤ王の時です。新アッシリア帝国は、ペルシャ湾から地中海にかけて、そしてエジプトのナイル川下流域まで及ぶ領土を持つ大帝国となったのです。それは、隣国のユダにとっては、服従することを意味します。ですから、政治的にも宗教的にもアッシリアの影響を受けたわけです。ヨシヤ王の時代には、ユダの民は神様を忘れて、バアル礼拝など、さまざまな偶像礼拝が行われました。そのため、神様は預言者エレミヤにこう言わせてます。
エレミヤ『2:7 わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き/味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入ると/そこを汚し/わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。2:8 祭司たちも尋ねなかった。「主はどこにおられるのか」と。律法を教える人たちはわたしを理解せず/指導者たちはわたしに背き/預言者たちはバアルによって預言し/助けにならぬものの後を追った。』
北の脅威は、新アッシリア帝国が滅亡すると、なくなりました。しかし、今度は、アッシリアを倒した新バビロニア帝国(BC625年- 539年)通称バビロンがユダの脅威となります。バビロン捕囚をしたカルディア人の国ですね。カルディアとは、チグリス川とユーフラティス川の間にある豊かな地域です。この周辺がバビロニア地方です。そのユーフラティス川沿いには、新バビロニア帝国の首都であるバビロンがありました。その町は、エルサレムから捕囚された民が働いた場所です。ここで言う捕囚とは、敗戦国の国民を根こそぎ捕虜として連れて帰って、働かせることです。要らないものを除いて、全てを持ち帰るという、荒っぽくて無慈悲な戦後対策です。捕囚が行われると、その町は産業を支える人がいなくなり、荒廃に任せ、町がなくなってしまうわけです。捕囚する側のバビロンから見れば、ユダの人を根こそぎ連れて来るので、反乱が起きる心配がありません。加えて、捕囚した民を働かせて、利益を得るわけです。ただただ、それは、ユダの民の悲しみと犠牲の上にありました。
ユダに対する神様の裁きを、エレミヤはこのように予言します。
エレミヤ『2:9 それゆえ、わたしはお前たちを/あらためて告発し/また、お前たちの子孫と争うと/主は言われる。』
その裁きの実行は、「バビロン」つまり、新バビロニア帝国が担います。
エレミヤ『27:6 今やわたしは、これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。』
バビロンの王ネブカドネツァルは、エレミヤ書の中で何度も「わたしの僕」と呼ばれます。それほど神様は、悪を行う者であるバビロンの王ネブカドネツァルを 用いたのです。その理由は、ユダの懲らしめです。
この懲らしめは、ユダに向かっただけではありません。
エレミヤ『25:15 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。25:16 彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。」25:17 わたしは、主の御手から杯を取り、主がわたしを遣わされるすべての国々にその酒を飲ませた。』
当時、中東のすべての国は、バビロンに破れ、支配下になりました。特にユダの首都エルサレムは、神様からの懲らしめとして、徹底的に破壊されたのです。
そして今度は、懲らしめる側として大活躍したバビロンを、神様が懲らしめる時となります。
エレミヤ『25:26 北のすべての王で、近くにいる者にも遠くにいる者にもそれぞれ、すなわち、地上のすべての王国に飲ませ、最後にシェシャク(バビロン)の王が飲む。』
これが神様のご計画の不思議です。神様は、各国の悪を懲らしめるために、もっとも邪悪であるバビロンを用いました。その働きで大きな功績を挙げたにも関わらず、神様はこの計画の最後にバビロンをも懲らしめるわけです。バビロンは神様の計画のために働いたにも関わらず、神様はバビロンの悪を帳消しにしなかったのです。・・・私たちの感覚では、善い行いをすれば少しくらいの悪は相殺してくれるだろうと期待します。しかし、神様の前で悪を行った事実は、善い行いで取り消すことができないのです。だから、バビロンの民も、その悪の報いを神様から受けることになりました。
『50:2 告げ知らせよ、諸国民に。布告せよ/旗を掲げて布告せよ。隠すことなく言え。バビロンは陥落し、ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、その像は辱められ/偶像は砕かれた。』
「ベル」とは、バビロンの神です。ベルという言葉は「主(あるじ)」という意味で、その神の名をマルドゥクと言います。古代の戦争は、それぞれの国の戦いであるとともに、その祭られている神々の戦い、と考えられていました。国が攻め滅ぼされるならば、その国の神が弱いからだ、と言うことです。そして、バビロンが陥落する事は、イコール バビロンの神ベルの敗北を意味します。その象徴が、
「ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、その像は辱められ/偶像は砕かれた。」との預言です。
『50:3 一つの国が北からバビロンに向かって攻め上り/バビロンの国を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。人も動物も皆、逃れ去る。』
ここでの「北」から攻めてくるのは、バビロンの北に位置するメディヤと言う国のことです。今のイラクの北部がメディヤでした。メディヤとペルシヤが連合してバビロンを攻めたのが紀元前539年です。そして、ペルシヤのキュロス王がバビロンを陥落させ、ペルシヤ帝国の時代になりました。
実は、キュロス王は、無血入城したので、バビロンの町は破壊されていません。ですから、このエレミヤの歌にある「バビロンの国を荒廃させる」とは、キュロス王の時のことではありません。キュロス王がバビロンを倒した後も、この国もバビロンの町も機能していましたし、ペルシヤはその宮殿を使い続けました。さらに、ギリシヤの時代になってもこの町は破壊されずに、アレキサンダー大王が、バビロンの町を使います。そして、アレキサンダー大王の次の代の戦乱(紀元前3世紀)の時、バビロンは崩壊したのです。 だから、この預言には、単に紀元前539年のバビロン陥落の出来事を描いているだけでなく、その後に起こることも含まれていたのです。加えて、終わりの日に起こることを預言しています。
『50:4 その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る/ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て/彼らの神、主を尋ね求める。
50:5 彼らはシオンへの道を尋ね/顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。彼らは主に結びつき/永遠の契約が忘れられることはない。』
ここには、バビロン捕囚からのイスラエルの回復が書かれています。シオンとは、エルサレムの町の別の呼び名でありますから、エルサレムで新しい永遠の契約が結ばれることが歌われているのです。それはイエス様の十字架による贖い、新しい永遠の契約によるイスラエルの霊的な救いであります。
バビロンが陥落した後、イスラエルとユダの子らは捕囚から帰還しました。その時、ユダの人々は懺悔(ざんげ)して涙を流しました。そして、自分たちの神様を求め、新しい永遠の契約を神様と結ぶために、エルサレムに向けて行進しました。バビロンの陥落をきっかけに、イスラエルの救出が始まったのです。エレミヤは、この4つの手順を歌います。それは、バビロンからの帰還、全部族の結集、神様への回帰、そして、永遠の新しい契約を結ぶ と・・・
「50:40その日、その時」というエレミヤの預言で、バビロンの陥落とイスラエルの解放が始まり、神様の計画、新しい永遠の契約に向け歩み出したのです。
さて、この神様のご計画ですが、パウロは、このように書いています。
ローマ『11:32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。』
ここで、不従順と言っているのは、イスラエルの民が偶像礼拝をして神様に罪を犯し続けたことです。確かに彼らの罪によりイスラエルは滅ぼされ、そしてバビロンに捕囚されました。しかしそれは、再びイスラエルの民を元に戻して、そして祝福しようとの神様の計画なのです。神様の計画は、一つの視点だけで見てはいけません。そして今起きていることだけで見てはいけないのです。なぜなら、神様は不思議で壮大な計画をたてるからです。パウロは続けます。
ローマ『11:34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。11:35 だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」』
神様を知るため、そしてイエス様の十字架の犠牲によって罪を赦されるために!、私たちは罪人でなければならなかったのです。イスラエルが神様に立ち返るために、一度その罪のために滅ぼされ、そして元に戻されました。そして今、私たちは神様の恵みである救いに与ることができます。それは、私たちが罪人であることを悔い、イエス様の十字架による贖いを信じるからであります。この救いの計画は、神様から出たものです。この新しい永遠の契約は、神様が私たちを愛するがゆえに、旧約聖書の時代から計画し、そして約束していたのです。いま、気の遠くなるような神様の計画によって、私たちは救われています。このことを感謝して、イエス様の導きに、委ねてまいりましょう。