2024年 11月 3日 主日礼拝
「すべてを造った神様」
聖書 創世記1:1-5,24-31
今朝のみ言葉は、創世記から「天地創造の物語」です。 この世界の始まりについて、皆さんはどのように説明するでしょうか?そこには、二つの手段があります。
一つは科学的な解明です。例えば、宇宙の始まりについては、研究成果として「地球の誕生は、約48億年前」だと推定されています。ところが、生命については未だ解明できていません。
もう一つの手段が、聖書、創世記に展開されている「創造論」です。どちらを選んでも、わからないことばかりです。例えば、私たちが生活しているこの地上にはいろいろな物があって、いろいろな生き物がいます。
すべての「物や生命」が何十億年の期間をかけて偶然に出来上がったという考えと、「これを造った神様がいる」という考えがあるわけです。どちらが正しいのでしょうか? たぶん、誰もうまく答えられないと思います。どちらの考えを支持するにしても、受け売りであり、確証がないことに限界を感じます。しかし、その一方で、偶然では説明できないことがあります。例えば、私たちが今見ることができる自然はとても美しいです。どんな芸術家でもそれを描くことは、できません。また、その自然を見る私たちの目もすごい傑作だと思います。世界で最も解像度の高いカメラとディスプレイでも、私たちの目ほどに映し出せるでしょうか? そんなことを思うと、これほど繊細で高性能なものが、偶然に出来るのだろうか?と、素朴に思います。なぜならば、偶然と言ってもそこには自然の節理に支配されているからです。一つ、ありえないことをこれからお話しします。このようなことは、偶然でも起こることはありません。ある人がやかんに水を入れ、コンロの火にかけました。すると、やかんの水は見る見る冷えて凍り付き、コンロの火はさらに高温になっていく。・・・こんなことはありません。いくら、偶然を狙って数十億年待っても、このようなことは起こらないのです。これは何故でしょうか? そこには、自然の摂理があります。偶然とは言え、何でも起こるわけではないのです。自然の摂理によれば、高い温度から、低い温度に熱が移動します。逆向きは、偶然であっても、起きないのです。
このやかんのたとえから言って、「偶然が重なると何でもあり得るので、生命ができることもある」との説明は、厳しいものがあると思います。偶然が指す意味は、その現象は起こるだろうが、確率が低いことを指しています。たまたま 起きることで、めったに起きない事を英語ではミラクル(miracle)と呼びます。ミラクルは、日本語では奇跡と訳されます。その日本語の奇跡には、英語のミラクルと、ミステリー(mystery)の住み分けがありません。ミステリーの意味は、「神秘」や、あるいは「不思議(不可思議)」のことです。それは、理解不能なことであり、神秘なのです。ですから、ミラクルがたまたま起こった珍しいこと。そしてミステリーが神秘 と区別することが肝要です。整理すると、ミラクルはミステリーと異なり、確率は低いが科学的に起こりえることです。したがって、生命が偶然が重なったミラクルで出来たというならば、どうやってできたのか?科学的な説明が欲しいですね。でも、その説明は極めて困難です。だから、「ある存在がいて、神秘的な業ですべてのものを造った」との考えと、根拠が示せないと言う意味では、同じレベルであります。
『1:1 初めに、神は天地を創造された。』
ここで、「初めに」という言葉ですが、創世記は神様が天地を創造するところから始まります。神様はその天地創造の前からいました。そして創世記には「創造された」という言葉(ヘブル語で、「バラ」)が使われています。この言葉は、「形造る」 つまり、すでに存在しているものを集めて、形にすることと、「創造する」 つまり、何も無いところから造ることの2つを意味します。聖書が語っているのは、神様は、空と宇宙と天国そしてこの地上を、何もないところから造ったことです。(神、天:男性複数形、地:女性単数形)
『1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』
この箇所に、こんな疑問を持つ人がいます。神様が創造したのなら完璧であるはずなのに、なぜ混沌していて、闇まであるのか?ということです。「混沌」は、カオスと呼ばれ、「形がない状態」を指します。物事に区別がない、秩序が無い無秩序の状態を指します。 もう一つは「闇」です。光は、この時 まだ無かったのです。
『1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。』
「光」があったこの時から、暦が進みだします。闇に始まって光が来て、そして朝になります。その「光」はどこから出ているのか?それは、イエス様からで あります。新約聖書にも、天地創造の箇所がありますので、読んでみます。ここで「言」と呼ばれているのは、イエス様のことです。
ヨハネ『1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』
「光あれ。」の光ですが、物理的な光と、人を照らす光があります。人を照らす光とは、「キリストを通して、あなたの命を明らかにし、あなたに命を与えるための明かり。」です。イエス様は、天地創造の時から、そしてまだ人間がいない時から、私たち人間のために寄り添い始めていたのです。
『1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。』
すべては、6日の間にできたと聖書は語ります。たった6日で、天地を創造し、そして生き物をすべて造り上げた上、子孫が残せるまで生き物が成長した?。そんな短い時間で無茶な・・・と疑いを持つでしょう。しかし、太陽と月ができたのは四日目です。三日目までの一日は、どれだけ長い時間がかったのかは、わかりません。しかし、太陽を造る前の第一日に、神様は光を造って必要に備えたのです。そして、その光に照らされて、命が育まれました。
ところで、科学は、生命の誕生について何を語ってきたでしょうか?たとえば、ラマルクと言う科学者(1744年- 1829年仏)がいました。彼の仮説は「物質さえあれば、生命が生まれる。」ということで、そこには神様の関与はいらないとの見解でした。つまり極言すると、生物の体となる炭水化物や、たんぱく質を瓶の中に入れて培養すると生物ができるということになります。この仮説は、検証されていませんし、そもそも炭水化物やたんぱく質はどうやってできたかを無視するものです。なぜなら、炭水化物とたんぱく質を造れるのは生物だけだからです。・・・いったいどこから生物の体となる炭水化物とタンパク質が地球に来たのでしょうか? これを考えると、鶏が先か卵が先かと同じで答えは出ません。やはり、生命は神様が造った・・・私は、そう思うのです。
ラマルクが主張したように炭水化物とたんぱく質を保管して長い間待っていれば、生命が生まれるのでしょうか?。私は、物質だけでは命が生まれない。そこには、神様の摂理があるのだ と思います。キリスト者として、やはりそこに神様の関与がなければ、命は産まれないのだと信じるわけです。
かつて、キリスト教は科学を迫害しました。そして、今は宗教が、逆に攻撃を受けているようで心配です。その攻撃の一つが、進化論です。聖書とは、真反対のように思える進化論が支持されていることに、私は怖さを感じます。どうして、私が進化論を怖いと思うのか、すこしだけ説明しますので、理解をいただければと思います。
進化論の始まりはギリシャ神話の時代です。古代ギリシアの哲学者アナクシマンドロスは、生命は海の中で発展し、のちに地上に移住したと主張しました。このときすでに、時代とともに種が一本の幹から枝にわかれ、枝から小枝に分岐する樹形図ができています。その樹形図そのものが進化論だと言えます。そして、先ほど紹介したラマルクですが、要不要説と言われる進化論を提唱しました。必要な機能であれば、発達し、不要な機能であれば退化するということです。その後ダーウィンが種の起源という、論文で「環境に適したものが生き残る」ことを提唱しています。これは、進化論そのものではありません。しかし、メンデルが遺伝について研究した結果、偶然に環境に適した種ができると、その環境に適している方の種が、生き残る。このことが、証明されました。しかし、進化する すなわち新しい生物が生まれる とまで言えるほどには、証明されていません。それなのに、なぜ進化論が広く言われるのでしょうか?たぶん、みんなが昔からそう言うから・・・なのかもしれません。しかし、私は進化論を信じたくありません。なぜならば、人間を超える生物が進化によって生まれる ことへの恐れからです。将来、進化した人間が私たち古い人間を淘汰し、私たちの子孫が滅ぼされるのでしょうか?。もしくは、下等な人間は生き残らなくてよい。・・・との過去に大惨事を引き起こしたヒットラーのような発想に、つながってしまいます。このように、進化論は恐ろしい誘惑を孕んでいるわけです。ですから、素朴に人間が進化の頂点にあると喜ぶのは、頂けません。この恐れのない姿、進化論において最上位に進化した人間として、「人間」の栄光を示したがる「罪」がそこに現れているのです。そんな私たちに、なぜか神様はこの地上の管理を任せました。そこに私たちの責任があります。私たちは、神様に似せて造られた者です。私は、それぞれの個性があっても、すべての人が神様に愛されていると信じます。そして、神様が作った世界によって、すべての人が祝福を受けるのです。そのためにイエス様は、この世を造り、そしてこの世に降って、私たちを救いに導いているのです。私たちを造る前から私たちを愛しているのです。このイエス様の恵みに感謝して、イエス様に私たちの人生を委ねてまいりましょう。