2021年 4月18日 主日礼拝
「寄りそわれるイエス様」
聖書 ルカ24:36-43
おはようございます。先週はエマオに向かう二人の弟子の前にイエス様が現れたお話をしました。
今日の聖書の箇所は、イエス様が他の弟子たちの前に現れた記事からです。ルカによる福音書では、急に場面が変わるので、弟子たちの様子がよくわかりません。そこで、ヨハネによる福音書の方から様子をうかがってみましょう。
ヨハネ『20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。』
イエス様が復活した日の夕方、弟子たちは集まっていましたが、家の鍵をかけていました。イエス様の復活を知って集まってきたのでしょう。そしてユダヤ人と出会うのを恐れていました。イエス様の弟子であることだけでも、捕まる恐れがありましたし、またその日の朝の復活の出来事で、「弟子たちがイエス様の遺体を隠した」疑いをかけられているからです。そういうことから、弟子たちはユダヤ人に見つからないように集まって、家の戸に鍵をかけていたのです。そして、エマオで二人の弟子にイエス様の前に現れたことなどを、話していました。
そうしている間に、イエス様は弟子たちの真ん中に立って、「あなた方に平和があるように」と言われました。ギリシャ語で平和を意味する言葉(εἰρήνη:エイレネー)は、復活されたイエス様が使われる挨拶です。
【注)エイレネー:ギリシャ神話に登場する平和を司る女神の名前です。】
元は、ユダヤでは普通に使われる挨拶、シャーロームだそうです。シャーロームは、ヘブライ語で「平和」を意味する言葉。ヘブライ語の挨拶のひとつでもあり、日本語の「こんにちは」に相当します。イエス様は、「シャーローム」と弟子たちの真ん中に立って挨拶されたのです。
【注)שָׁלוֹם (シャロム)こんにちは、さようなら】
さきほど、家の戸には鍵をかけていたとお話しました。イエス様はどうやって家の中に入ってきたのでしょう。どの福音書を見ても、扉をノックするなどの家に入れてもらった様子は書かれていません。突然イエス様は弟子たちの真ん中に立っておられたのです。「シャーローム」と挨拶なさったという事なので、やはりその挨拶の直前に真ん中に現れになったという事だと考えられます。弟子たちは、それを見て、恐れおののきました。イエス様の亡霊を見ていると思ったからです。
先週のエマオでイエス様に出会った二人の弟子と異なって、今度は最初からイエス様であることに気づいています。しかし、亡霊を見ていると思ったという事は、イエス様が復活したことを受け入れていないことがわかります。
最初に「シャーローム」とイエス様はいつものように言いました。これは、弟子たちの心を動揺から和らげるためでした。この言葉は、弟子たちの記憶に働きかけるような効果がありました。イエス様はまたさらに、弟子たちの記憶を思い出させるためにこう話されます。
ルカ『24:38~なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』
そして、イエス様はご自身の手と足を弟子たちに見せます。イエス様は、亡霊を見ていると思った弟子たちに、イエス様であることの「しるし」を見せられたのです。イエス様の腕と足は、鞭で打たれ、そして十字架につけられた釘の傷跡がありますから、それが「しるし」です。そこで、イエス様だとわかった弟子たちは喜びますが、同時に不思議に思います。
イエス様は、それでもまだ信じられないという顔をしている弟子たちに、イエス様がそこにいると言うだけではなく、イエス様が十字架の死を克服して復活した「しるし」を見せようとされました。
弟子たちは、実際にイエス様の傷を見れば、十字架で亡くなられたイエス様自身がそこにおられることがわかるはずです。しかし、その「しるし」では、弟子たちは信じることができなかったのです。これまでも、沢山の「しるし」がありました。
・イエス様が復活したとの「天使」のことばを婦人たちが弟子たちに取り次ぎました。
・そして、墓に行って確認するとそこは空っぽでした。
・エマオで二人の弟子が復活したイエス様と出会いました。
・弟子たちの中心にイエス様が立って「シャーローム」と挨拶されました。
・弟子たちにイエス様は、手と足の傷をお見せになりました。
ここまで、多くのしるしが示されているのに、弟子たちは、まだ疑問と不安が無くなりません。
最初は、恐怖がありました。そして今は驚くべき喜びがあるのですが、弟子たちはまだ、この起きた事実を信じることができませんでした。彼らは喜びましたが、心の平安が伴わない喜びです。イエス様を信じて従って来た、その結果が、十字架の出来事です。そして、その時は従う事が出来ずに逃げ出していました。本当にその時は絶望です。
そして、今復活されたイエス様を目の当たりにしています。喜ぶべきことなのですが、その復活に確信が持てないのです。そして、再びイエス様を信じて従ってよいのか、ただの幻なのか、その判断ができません。ひどく動揺していたのです。そこで、イエス様は少しずつ弟子たちを平安の中に連れ戻そうとされます。弟子たちの記憶を呼び戻すようにしながら、イエス様が復活された「平和と喜び」が実感できるようにされたのです。
ここで、イエス様は、弟子たちと食事をするように提案をしました。いつもの通りに食事をすることで、弟子たちはイエス様が生きて、そして今共にいることを実感することを期待したのだと思われます。
聖書には、その食事の様子は、これしか書いていません。
ルカ『24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。』
しかし、これで十分でした。イエス様は生きておられるからこそ、食事をされるのです。そうでなければ、飲み食いする必要はありません。イエス様がここで魚を食べたことによって、弟子たちはようやくいつものイエス様が、そこにおられることを実感できたのです。そして、その時こそがイエス様を本当に信じて、イエス様に今度こそは最後まで従うと決心させられた時なのです。それは、イエス様にすべてを委ねたことで、今までにない平安が弟子たちにやってきたのです。そうして、弟子たちは本当の意味で喜ぶことができました。
私たちは、イエス様の弟子たちの様に、命をかけるような決心をすることは、あまりないように思いますが、それでも小さな決心はすると思います。そして、しばらく頑張りますが、何かあるとあきらめたり、決心そのものを忘れたりします。典型的なのが、生活習慣の改善なのかなと思います。なかなか継続が難しいですね。例えばダイエットとかトレーニング等です。継続が難しいために、アドバイスがいろいろ言われていて、だいたい7つポイントがあるとのことでした。なかなか決心を継続するための本質をとらえていると思いますので、紹介します。
1.欲張らない
高い目標や多くの目標を設定すると、簡単にやりきれなくなる。
2.第三者に説明する
自分の決意を他の人に話すこと、途中経過を報告するなどで、目標を共有する。つまり、応援を得られると言うわけです。
3.記録する
何ができていて、何ができていないか見えるようにする。
4.習慣化する
目標を達成する努力が、日常の生活の中に組み込まれるようにする。つまり、無意識中に必要な事を終わらせて、継続しやすくする。
5.「メリット」を明確化する
何のために?ということを明らかにしていると、おいしい物等の誘惑に簡単には飛びつかなくなります。また、取り組む意義を忘れにくくなります。
6.行程を楽しむ
目標達成まで「がまん、がまん」の地獄の道や「まっすぐにしか走ってはいけない」道のりでは長続きしません。つまり、完璧な努力を求めるならば、
その段階で、行程を楽しむことを放棄したことになります。余裕のあるスケジュールで、息抜きも考えておいた方が良いでしょう。
7.「少しでも挫折したらもうダメ」とは考えない
たいへんまじめな人は、目標から少しでも外れただけで、「自分はダメだ」と自己否定してしまう事があります。
完璧な形でのゴールインを求めて、くじけるより、多少の失敗を受け入れたほうが気楽です。
今日の聖書の箇所に関係して、お話したいのは、1.欲張らない と 7.「少しでも挫折したらダメ」とは考えないという事です。
弟子たちは、このとき大変な挫折を味わっていました。イエス様に従うと決心していたはずの弟子たちは、イエス様の十字架の出来事の時にどこにいたのでしょうか? 皆は、どこかに消えていたのです。そして、安全な所でその時を迎えました。ペトロなどは、イエス様にこのように言っていました。
ルカ『22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。』
結果から言いますと、ペトロは「できもしないこと」を決断したことになります。ですから、ペトロの心はひどく折れていたのです。さらに、復活したイエス様に出会って、また同じ決断ができるのでしょうか?また、同じように挫折するのかもしれない。そう考えると、心が躍らないのです。イエス様が復活したことを喜んでいるものの、自身の限界を知った今、ペトロを始め弟子たちは、こんな自分をも用いてくださるのか?・・・不安だったのです。
しかし、イエス様は、こうして弟子たちの前に現れ、真ん中に立って「シャーローム」といつものように挨拶をされ、そして、十字架にかかったイエス様であることのしるしとして、手と足をお見せになりました。そして、目の前で食事をされたのです。 イエス様は、弟子たちが失敗したことを責めにやってきたのではありません。イエス様は、高い目標をもって、失敗した弟子たちを、イエス様の働きに導くためにやってきたのでした。その失敗で、すべてが終わったのではなく、その失敗によりこれからの伝道の業が祝福されたのです。イエス様は弟子たちに寄り添ってくださっていたのです。そして、弟子たちは、みなこの時挫折から立ち返って、より強い決意を抱いて、イエス様のことを伝道したのです。イエス様は、こうやって次のチャンスを与えてくださいました。弟子たちは、自分たちの限界を知り、そしてできないことはイエス様に委ねたのだと思います。また、必ずイエス様が寄り添ってくれると信じていれば、少しうまくいかなくても、計画を達成できなくても、そのイエス様と歩んでいることの喜びによって、弟子たちは励まされたのだと思います。
私たちは、この教会で、伝道の業を任されています。決して私たちの教会は力があるわけではありません。それでも、イエス様は伝道の業を任せられているのです。そして、どんなに失敗したとしても、イエス様は、私たちに寄り添い、手伝ってくださいますから、感謝です。イエス様の言われた「平和があるように」。これは、イエス様の私たちへのプレゼントです。「高い目標を持って成功しなければならない」とか、「計画通り進まなければダメだ」とか、私たちは自身の考えで、自分の首を絞めるようなことをしてしまいます。こういった良い結果を目標とするような誇り高い考えは、尊敬に値します。しかし、そこに平和が来るのでしょうか?。
たしかに平和は来ますが、それは目標通りに達成した時だけです。達成までの間や、達成できなくなった時には平和は来ないということになってしまいます。つまり、自らの計画が、平和にたどりつくことを困難にしていると言えます。
イエス様は、そういう私たちに向かって、
「一緒に働こう! そうしていることが楽しいよ」と言われているのですね。このように、私たちに寄り添ってくださるイエス様ですから、一緒に働いている間も後も、ずっと平和を頂くことが出来ます。ですから、皆さん。イエス様に信頼して、イエス様と一緒に教会の成長を祈ってまいりましょう。