コヘレトの言葉3:1-15

神様の定めた『時』

2023年 10 1日 主日礼拝 

神様の定めた「時」

聖書 コヘレトの手紙3:1-15     


今日の聖書はコヘレトの言葉です。口語訳聖書では、伝道の書と呼んでいますが、新共同訳聖書で、名前を変えています。たぶん根拠は、次の記事にあります。

コヘレト『1:1 エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。』


 伝道の書は、ダビデの子だと言う記事を根拠に、ソロモンが書いたと言われてきました。(ソロモンは、他にも雅歌、箴言を書いたとされています。)しかし、新共同訳聖書では、コヘレトの言葉と名前を変えました。つまり、翻訳者の認識として、ソロモンの作との根拠は無いと言うことだと思われます。

 さて、コヘレトの言葉の特徴は、世を厭うと言った厭世感であります。空しいで始まり、この世の知恵を集めて色々考えた事を語ります。たとえ、ソロモンでなかったとしても、コヘレトは王家の一員であり、イスラエルが最も栄えた時代でありますから、富も知識も十分に持っていた人物の作であることは間違いありません。そう言う理由で、コヘレトは、あらゆることを試すことができて、また新たな知恵を探求することができる立場だったと言えます。それに加えて、彼の言葉は金持ちにみられるような道楽ではありません。この時代に生きた人々が、日常の労苦と、生活の不安と、正義が蔑(ないがし)ろにされることへの疲労感を、コヘレトは知っていました。コヘレトが語る空しさは、人生に疲れ、生きる意味に疑問を持った人々が感じる空しさに近いものだったのです。

 コヘレトの言葉には、彼が辿った探求の紆余曲折を、そのまま書かれています。そのために、ああでもない、こうでもないと思考がそのまま残っています。

そんなコヘレトが見出したことの一つが、「すべての出来事には時がある」、ということです。

 『3:1何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。』


時とは、時間のことと、季節のことおよび機会のことを指すわけですが、ここで言っていることを、原語に忠実に訳すと、「何事にも定められた時があり/天の下の出来事にはすべて適切な時期がある」となります。 その時期を決めているのは、神様です。

コヘレトは2節から8節にかけて、14対の対照的な「時」を挙げています。その中には、私たちにとって望ましいことや、避けたいこともあります。それらの「時」は、避けることのできません。その「時」に、コヘレトは一つ一つ向き合いました。


『生まれる時、死ぬ時』 生まれた者は、必ず死にます。自分の意志で生まれることは出来ませんし、死なない事を望んでもそれを成し遂げた人はいません。

全ては、神様の手の中にあるのです。

『植える時、植えたものを抜く時』何かの目的で植物を植えます。この植えることも抜くことも、自分の意志でできます。しかし、植える時の期待とその結果のギャップに支配されています。なぜなら、植えた時の期待がかなわなかった時、植えたものを抜くのです。このように、幸せを期待するほど、それは失望を生む原因となるのです。そして、植え替えが行われます。また、植えた木がおいしい実を結ぶかどうかは、手入れの良さによるだけではありません。すべての植えたものは、神様のご意思によってその実を結ぶのです。

『殺す時、癒す時』正反対のどちらを選ぶかは、人にまかされることではありません。人を裁くのは神様だからです。また、癒しを与えるのも神様であります。ですから、その神様の定めた時がやってきたと感じたら、神様に祈るのみです。

『破壊する時、建てる時』破壊するときは、次に建てたいものに期待します。そして、それを建てたからと言って期待通りとは限りません。それで、また何時かの時点で破壊するわけです。すべては、人の自由意思のように見えますが、この破壊する時も神様が定められているのです。

『泣く時、笑う時』は、人が自由に好きな時に泣くし、笑うわけです。しかし、実は神様が、その時を定めているのです。

『嘆く時、踊る時』 悔しくて嘆くとき、うれしくて踊る時。これも、神様が定めています。私たちは、自由にしているつもりでいますが、神様が嘆く時、踊る時を定めているのです。

昔は、投石器と言う強力な飛び道具が使われました。『石を放つ時、石を集める時』は、戦いの時と戦いの準備をする時にあたりますが、当然準備なしには戦いは出来ません。そして、戦いの準備ができると戦いの時が近くなります。しかし、これも人が定めるのではありません。神様が定めます。

 

 コヘレトが挙げたこの対照的な時のリストは、どちらか一方を私たちの都合によって選べるようで、そうではありません。私たちは、そのときどき、どちらかを選んでいるように思い違いをしているのです。その時は、神様が定めています。私たちは、神様にコントロールされているのです。コヘレトが悟ったことは、人が時をコントロールできるわけではなく、かといって偶然が世界中を支配しているのでもなく、「神様が時を定め、この世界を支えている」ことです。 ですから

『3:9 人が労苦してみたところで何になろう。』とコヘレトは言います。

 多少苦労しても、人は何の時も決められないからです。そこには、神様がすでに定めた時があるのです。だとすると、私たち人間には何が出来るのだろうか?人の役割は何であろうか?と神様が人を造った意図を知りたくなってしまいます。しかしコヘレトによると、それ以上を見極めることは、人には許されていません。

『3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。』

 ここで、永遠と言う言葉ですが、神様の造られた「世界」のことであります。ヘブライ語の世界という意味の言葉は、もともと「永遠」からきているからです。天地創造の時、神様は全てのものを時にかなうように造りました。そして、この世界を思うこと を人にも許したのです。しかし、許されたのは全てではありません。この世界の始めから終わりまで、神様のなさる業を見極めることは人に許されていないのです。


『3:12 わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と』

「喜び楽しんで過ごすのが、人間にとって最も幸福な姿だ」と コヘレトは言っていますが、その理由が次にあります。


『3:13 人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。』

 コヘレトは、飲み食いが出来る事、そして苦労して満足するのが幸せなんだと言うわけです。なぜなら、飲み食いも賜物であり、苦労も賜物、そして満足するのも賜物だからです。すべては、神様からの恵みであります。素直に、その恵みに与るのが幸せなのです。そもそも、善いことなど満足にできない人間であります。だから、出来ないからと言って悩むこともありません。ありのままで神様に受け入れられているのですから、その恵みに感謝していることで、十分なのです。


『3:14わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。』 

 神様は永遠に不変です。私たち人間は、その逆で、あちらからこちらへ、またその反対へと、態度をころころと変えます。「私たち人間を愛する」と決めた神様は、「私たちを愛し続ける」ことでも永遠に不変なのです。だから神様は、揺れ動く私たちをしっかりと支えているのです。私たちは、自分たちの望みや都合にあわせて時を定めているように思い込んでいます。しかし、そうではありません。実態はその逆で、神様はふさわしい時に、神様の意志で時を定めるのです。


  神様は私たちに『永遠を思う心』(3:11)つまり「世界を思う心」を下さいました。そのため、私たちは本能の赴くままに行動するのではなく、先ほどの対照的な時のどちらかを選びます。神様のように時を見て、ふさわしいことを選ぼうとするのです。けれども、コヘレトは『神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない』(3:11)ことを、悟りました。なぜならば、コヘレトは人間だからです。コヘレトがもし、神様の業を見極めるならば、コヘレトが人間以上の存在になるという矛盾を引き起こします。だから、コヘレトは、「神様の業を見極めることは許されていない」と結論付けたのです。


 もし私たちの人生が、分かれ道の無い一本の道ならば、私たちの苦労は少ないでしょう。ところが実際は、毎日が選択を迫られる日々であります。そのことこそが、神様によって定められたのだ、とコヘレトは言います。苦労した結果満足するように、神様は私たち人間を造りました。それが最も幸せなのだと定めたのです。その神様の意志の通りに生き、そしてすべてを賜物として感謝して受け取る。それが神様の定めた私たちの幸せであります。私たちは神様の意志をすべて理解することはできません。けれども神様の意志を祈り求め、それをわずかながらでも知って、よりふさわしいものを選び取っていく。それが人間です。私たちは神様のようになるのではなく、神様の意志を求めて生きるのです。そして、そこには幸せがあります。 


 コヘレトは『神が人の子らにお与えになった務めを見極めた』(3:10)と言いました。その務めとは、苦労することです。それは、人間が神様を求めて生きることでもあります。しかし神様が私たちに与えたものは苦労だけではありません。神様は喜び、幸せを造り出して、私たちに与えてくださいました。その喜びは、食べて飲むという素朴なところにもあります。

 また、私たちには苦労があります。苦労があるからこそ、その結果が良ければ、より満足することになります。 神様は、私たちが喜び、幸せになることを願っておられますから、食べて飲むことや、苦労の中に幸せを見出すことができるように、全ての時を定めてくださいました。この定められた時こそが、神様の賜物であります。この何もかも定めてくださいます神様に感謝して、神様の恵みを受け取り続けてまいりましょう。