マタイ15:1-20

手よりも心を

2021年 5月9日 主日礼拝 

『手よりも心を』

 聖書 マタイ15:1-20

今日は、5月の第二週母の日です。特に教会での行事はありませんが、教会で始まったこの記念日を思い起こしてください。母の日には国ごとにその起源がありますが、日本の母の日は、アメリカが起源になっています。1907年の5月12日にアンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈りました。そのような事を憶えて、礼拝を守って参りましょう。

今日の聖書の箇所は、12月に宣教したマルコ7:1-13の平行記事です。マタイ、マルコ、ルカの共感福音書は、それぞれ書いた人が異なります。ですから、その書いた人によって同じ出来事が、違った視点で書かれているわけです。この平行記事では、マタイ、マルコ、ルカの書いていることはほぼ同じです。違うところは、イエス様のたとえで、マルコでは「すべての食べ物は清められる。」と意味不明な説明があるところです。説明のためにかえって分かりにくくしているので、どうしても今日の聖書の箇所の前半の律法のお話に注目が集まってしまいます。

マタイでは、後半のイエス様のたとえを巡って「心の汚れ」が中心の話題となっていて、むしろ読みやすいと思います。

さて、一般的に平行記事にどのくらいの違いがあるのかと言いますと、微妙な違いでしたり、言っている事が逆転したり、より詳しく書かれていたりです。例えば、今日の箇所を見ると、ルカの平行記事に、こう書かれています。

ルカ『11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。』

 

マタイでは、「弟子たちが手を洗わない」とのファリサイ派の人々からの指摘でしたが、ルカでは、「イエス様が食前に身を清めない」と言う指摘です。そして、マルコでは「弟子たちが手を清めない」というニュアンスであります。これら3つの平行記事から「イエス様が手を清めなかったから、弟子たちも手を清めなかった」のだろうという状況を、読み取って良いと思います。

 

さて、ファリサイ派の人々や律法学者がエルサレムからゲネサレト(ガリラヤ湖畔カファルナウムの西側に位置する隣町)にやって来て、まで言った「昔の人の言い伝え」とは、何なのでしょうか? 少なくとも、「弟子たちに食前に手を洗うように言いなさい」という事を目的にして、ファリサイ派の人々や律法学者がエルサレムからガリラヤまで来るという事は、ちょっと考えられないです。たまたまそこで、偶然出会ったとしても、「食前に手を洗うように言いなさい」と弟子たちに言えば済むことです。やはり、イエス様に言いたいことは、「食前に手を洗いなさい」という細かい事ではなくて、「昔の人の言い伝えを守りなさい」 だと考えて良いでしょう。また、わざわざエルサレムから下ってきたと考えると、最近評判になっている「預言者」だと言われているイエス様のことなので、「律法を守らない」とのうわさを聞いて、確かめに来ていたのかもしれません。ここでファリサイ派の人々や律法学者が言う「昔の人の言い伝え」とは、彼らが昔から作り上げてきた、律法のことです。神様がモーセを通してくださった、十戒やモーセ五書(創世記、出エジプト記、民数記、レビ記、申命記)の事ではありません。イエス様は、律法を完成させに来ましたが、ファリサイ派の人々や律法学者が作った律法については、たびたび守らなかったのです。だから、彼らファリサイ派の人々と律法学者は、「律法を守る」様にイエス様に言いに来たと思われます。

しかも、この問いは、「手を洗う」だけの簡単なことですから、出来ないことではありません。また、『安息日に病人を治す(マタイ12:10)』ときのように、律法より命が大事と言うような場面でもありません。つまり、イエス様が律法を破る理由がないところとも言えるのです。今日の物語は、そのような場面で始まります。

 

「昔の人たちの言い伝え」の中には、神様の教えも、生活のための配慮も一緒になっていました。しかし、神様から頂いたものは十戒とモーセ五書だけで、他はファリサイ派の人々と律法学者たちが、いろいろな場面で律法の運用を考え、日々の生活指導として付け加えたものでしかありません。しかし、彼らファリサイ派の人々と律法学者は、その言い伝え全体を律法だと教育されてきています。

 

一方で、イエス様は、律法と言えば「十戒」とモーセ五書のことという立場です。そして、ファリサイ派の人々と律法学者の権威の元である彼らの律法(言い伝え)については、公の場であってもたびたび守らなかったのです。

 

ファリサイ派の人々と律法学者の「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか」とイエス様に問いました。しかしこの時は、イエス様はそれを答えませんでした。逆にファリサイ派の人々と律法学者に「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」と言い出します。つまり、彼らファリサイ派の人々と律法学者の言い伝えは、「神様の言葉ではない」と言う立場に立って、イエス様はお話になりました。そしてさらに、「神様の言葉を無にする」とイエス様は言われるのです。そしてたいへん唐突なのですが、イエス様は彼らが「父と母を敬え」の掟を破っていると、言い出されます。イエス様が説明するには、彼らファリサイ派の人々と律法学者のしていることは、「父母の生活のために渡さなければならないお金を、「神」に捧げると言って、渡さない子供」と同じだという事です。彼らは「父母を敬っていない子供」の様だと言うのです。

この子供は、たぶん神様にお金を捧げたかったのではなく、自分の懐を温めたかったに違いないのです。この子供は、お金を渡さない理由に、「神様」を使ったわけですから、全く神様を敬っていません。・・・イエス様は、ファリサイ派の人々と律法学者たちのことをこの子供の様に「むさぼっている人だ」と言ったわけです。もう少し直接的に言うと、この様になります。

 

「あなたがたファリサイ派の人々と律法学者は、律法を出汁に使って、やりたい放題をしている。父(神)を敬わないだけではなく、律法ではない自分らの「言い伝え」を使って自らの権威を高め、民を支配し、むさぼっている」


 ここまで言って、イエス様はイザヤ書を使って説明します。

イザヤ15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』

口先だけの信仰、人の作った戒めを教える それがファリサイ派の人々と律法学者の姿だと、イエス様は言うわけです。

 

さらに、イエス様は群衆を呼び寄せて、このように「たとえ」を付け加えます。

『「聞いて悟りなさい。15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」』

 

汚れた手で口に食べ物を入れても、だれにも迷惑をかけない。だから、弟子たちはとがめられるようなことはしていない。しかし、ファリサイ派の人々と律法学者の言葉自体が人を汚す。つまり、弟子たちのやっている事には害がないが、ファリサイ派の人々と律法学者の教えている事は害でしかないと言ったわけです。それも群衆にむけて、イエス様は言われました。ファリサイ派の人々と律法学者はさぞかし怒った事でしょう。弟子たちは、このたとえの意味が解りませんでしたが、ファリサイ派の人々と律法学者は、イザヤ書を引用してきた段階で、「口先だけの信仰、人間の戒めを教え」とイエス様が彼らファリサイ派の人々と律法学者のことを指して言ったことが わかったのだと思われます。

 

すると、

「ファリサイ派の人たちが、イエス様の言葉に躓いていますよ」

 

そのように言って、弟子たちはイエス様に小声で諫言(かんげん)します。そこで、イエス様は、弟子たちに向かって

『神によって植えられたのではない、人の言葉による教えはすべて抜き取られてしまう』と言います。

そして、こんなこともお話になりました。

『そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。』

 

ファリサイ派の人々と律法学者との関係を悪くしないように弟子たちは諫めたのですが、イエス様はそのままにしておくように言われました。「神様の言葉」を理解することが出来ていない彼ら。その、「彼らに妥協して彼らの言う事を聞いてはならない」という事だと思われます。そして、イエス様は断言します。そのままにしておけば、その「人の言い伝え」は全て抜き取られる時が来るのです。

 

そこで、ペトロが『その「たとえ」を説明してください』とイエス様に聞いたので、弟子たちは、ようやくイエス様がファリサイ派の人々と律法学者に話したたとえ『口から出て来るものが人を汚すのである。』の意味を知ります。

『すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。15:19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。15:20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。』

 

これをすこし、読み解いてみたいと思います。

食べ物はお腹を通っていくだけなので、心に影響を与えません。だから、食べ物では、心を汚すことはありません。同じように、手を洗わないために、汚れた食べ物を食べたことによって心を汚すことはありません。ですから、ファリサイ派の人々と律法学者の教えは、心に対しては通用しないのです。心は、単に「手洗いという儀式」をしなかった事によって、汚れるわけではありません。そして、逆に手を洗うことによっては、心は清められないのです。

汚れの原因は、人の内部にあります。 そもそも、汚れの原因は、人の心そのものです。そして、心から出た汚れは、言葉を通して人の口から出てきます。そしてとうとう、他の人までもが汚れ、その人の行動を支配するのです。 


今日の物語で、ファリサイ派の人々と律法学者は、イエス様によって手をきれいにしていても「心が清くない」と言われたのですが、その彼らの姿は、そのまま私たちに当てはまります。「律法を守りなさい」という言葉そのものには汚れはありません。しかし彼らの心の中に、「神様への愛」が、そして「隣人への愛」が無ければ、その心が清いとは言えないのです。ですから、彼らが「清め」を求めるならば、手よりも先に、心を洗わなければなりません。

 

 イエス様が教えられた たとえ は、こんな意味でした。そして、「手を洗わない理由」も答えられたのです。本来、イエス様の言われる通り、神様の前に出るときには、手を洗うよりも心を吟味したいものです。そして、自分で心が汚れていることに気が付くとは限りませんので、神様の前に出て、自身の心の「清くない」ところを取り除いていただくよう祈るしかありません。それが、私たちの出来る最善の事なのです。もちろん、手をきれいに洗ったり、身だしなみを整えたりすることも必要な事です。しかし、それよりもっと大切なことは、聖霊の働きによって心を清めていただくことです。ですから、私たちの心が清められるように、イエス様に祈ってまいりましょう。