ローマ7:1-25

罪の問題


1.結婚の比喩

 パウロは、イエス様を信じてキリスト者になった者に対して、もはや律法に縛られる必要はなくなったと説明します。その理由として、結婚している妻の夫が亡くなったならば、律法はその妻と夫を結びつけることができなくなることを挙げます。律法は、この地上で生きている者同士を縛っているのであって、死んだ者が生きている者を縛るようには、律法はできていません。一方で、私たちはイエス様に出会って、イエス様を信じました。その得られた信仰によって、私たちは律法の支配からイエス様の支配の下に移されました。したがって、私たちは律法という肉に従って生きる世界を対象とした文書とは、決別して、イエス様の教えに従うようになったのです。そういうわけで、私たちは律法の支配する世界にはもう居ませんし、その肉に従う世界に戻り、死に至る罪を積み重ねる事もありません。だから、律法の前では死んだ者と同じなのです。こうして、私たちは律法から解放されました。そして、私たちが与えられたのは、文字(律法)に従う古い生き方ではなく、神様の「霊」に導かれる新しい生き方です。

 「夫」の死       → 「妻としての生き方」を縛る律法に拘束されなくなる

 「肉に従う生き方」の死 → 「肉に従う生き方」を縛る律法に拘束されなくなる

  ※古い生き方から解放された今、「霊に従う生き方」に切り替えていく事が必要です。


2.罪の問題

 律法は、罪に生きる世界で用いられてきました。律法が罪を定めてくれたおかげで、私たちは罪を知ることが出来たのです。「むさぼるな」と律法が教えなければ、「むさぼり」を知らなかったわけです。ところが、掟となることによって私たちは、「むさぼり」を覚えたのです。律法が掟になっていないときは、律法とかかわりなく生きてこられました。しかし、律法が掟となった時、あらゆる「むさぼり」をするようになりました。掟にすれすれででも違反しなければ、律法では罪であっても何の咎めもなく、公に罪を犯すことを認められているのと同じだからです。罪が生き返って、私は死んでしまったのです。律法と掟がなければ、罪は死んでいたはずですが、罪は掟によって生き返ってしまったのです。私たちの生活に命をもたらすはずの掟をも、罪が利用します。そして、結果的に私たちを死に導いたのです。律法、掟は善いことをもたらすものでありますが、邪悪な「罪」の手にかかってしまうと、その善いものであるはずの「掟」を使って、私たちの体は罪に売り渡されてしまうのです。律法は霊的なものです。一方で私は「肉の人」であります。「むさぼるな」との律法を守ろうとしていながら、かえって「むさぼる」。その自分がしていることが、わからなくなってしまいます。

 「むさぼる」ことを行っている自分について・・・

   望まないことをしている → 望むことは「むさぼるな」(自分の望みは律法と同じ)


 パウロは、望んでいることと、行っていることは正反対であることを指して、自分と別人格である罪そのものが自分の肉体の中に住んでいると言いました。そして、自分の中に善は住んでいないと断言します。

その理由を挙げると、『善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。』

          『7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、

           もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。』となります。


心の中に、「神の律法を喜んでいる自分」がいる一方で、もう一つの肉体の中に住んでいるのが、「罪の法則」だというわけです。

『7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている』とパウロは感じているのです。


私たち人間は、なんと惨めなのでしょう。それなのに、罪によって死に定められたこの私たちを、主イエス・キリストが救い出してくださっているのです。このように、わたしたちは、イエス様への信仰をいただいた後であっても、心では神様の律法に仕えていながら、肉では罪の法則に仕えているのです。