マタイ6:22-34

思い悩むな

2023年 7月 2日 主日礼拝

思い悩むな

聖書  マタイによる福音書6:22-34


今日まで日本バプテスト連盟の神学校週間です。そして来週は、井馬佐紀子神学生から宣教を頂くことになっています。どうか、神学校、特に献身者が多く与えられるよう、お祈りとお支えをお願いします。

 さて、今日はマタイによる福音書からの有名な箇所です。そして、今日は22節から34節までを選びました。実は22、23節と24節が対になって前段をなしている事に気がつくと、思い悩むなの記事の出だし。「だから」が何を言っているのかが理解できると思います。「体のともし火は目である」日本語の新共同訳聖書では倒置法で目を強調しています。一方で、口語訳聖書は「目はからだのあかりである」です。この方が素直に入ってくると私は思います。元のギリシャ語はというと、「体のランプは目である」と「目は体のランプである」の両方があるので、訳をした人の好みでの倒置法ではなさそうです。ただ、正しいのは「目は体のランプである」の方だそうです。ランプに火が灯っていれば、ランプは光を出し、物を照らすことができます。一方で、ランプに火が灯っていなければ、ランプは照らすことが出来ません。体を照らすランプの光は、神様の導きを象徴します。ですから、私たちの目が神様を見ていなければ、その導きの光に気づくことができません。そのような状態では、私たちに希望はないのです。そして、その原因です。それは神様と富を比べて、富の方に心があるためです。富に目が向いているのです。イエス様は教えます。

『6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」』

確かに、目には向いている方しか見えないのであります。神様の光が入ってくる。それは神様の方を見るからです。だから、富を見ているならば、神様の光は入ってきません。また、右目は神様を、そして左目は富を見る。そんなことを私たちはしてしまうでしょう。それでもどちらにも仕えることは出来ないとイエス様は教えます。なぜならば、「一方に近づくと他方を軽んじる」からです。いかに軽んじていることをごまかしてみたところで、軽んじる方には、仕えてなどないのです。イエス様は、弟子たちに「神様に仕えるのか? 富に仕えるのか? どちらか一つしかないこと」を教えました。そして、目は仕えている方に向きます。そこに心があるからです。


 イエス様は、「それだから」と言って、思い悩むなと教えました。つまり、当然ながら「富ではなく、神様に仕えなさい」と教えたことを受けているわけです。富に仕えるのでなければ、ほとんど悩む必要はないからです。そして、神様は必要を備えてくださいます。富といえば、人間社会でごく最近できたものです。それ以前は、人間も富がなくて神様から養われていました。だから、元々神様に仕えるならば、なにも悩む理由などないのです。さて、富とはいったい、どうして出来たのでしょうか?旧石器時代の狩猟文化のころまで時代を逆のぼってみましょう。人類が狩猟で生活していた時代は、身分の上下もなければ、食べる物はその日に獲れた物しかありません。蓄えることは困難でした。保存したとしても、多くは長持ちしませんから、獲れたものはみんなで分け合って全部を食べてしまいます。そして、獲れないときは、野菜類、木の実や野菜を採集して飢えをしのぐ。だれでも、明日十分に食べる分、その食料を蓄えることが出来ません。所謂その日暮らしですね。それでも人類は生き延びてきたし、現にすべての野生動物は、明日の保証もないのに、神様から養われています。

 一方で、人間が農作をするようになると、畑を作っては、耕し、種を蒔き、草取りをし、刈り入れ、そして納屋に保管するようになります。また、畑を増やしていって、1年分以上の食料が備蓄できるようになると、食べることに困らなくなります。そうなると、余った分は富として蓄えるようになります。そして、勤勉な人は、次の年の収穫を増やそうと、また畑を作るわけです。中には、人を雇って、小作人に畑を作らせるような人も出てきます。これが、身分の差・富の差を大きくしていきました。この人間特有の貧富の差は、生産性の向上によってますます拡大しました。そして、地上の富がもたらしたのは、富のむさぼりでした。むさぼりとは、富を主人として、富に仕えた証拠であります。むさぼりは、私たちに心配事や争い事ばかりひきおこします。逆に神様に仕えることは、富に仕えない事であります。神様に仕えることで、心配事や争い事から解放されます。良いことばかりなはずです。ところで、このことをイエス様の弟子に教える必要があったのでしょうか? 

 イエス様は、弟子たちを伝道に出すために、この心得を教えたものと思われます。この後で、12人を派遣するとき、イエス様はこんな指示をしています。

『10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。』

お金をもらわない事。お金や身の回りの物を持っていかない事。そして、働いた先で出してもらったものを食べる事。これが、イエス様の弟子たちの基本となりました。イエス様は、弟子たちのためにこのように教えていたのです。


 『6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。』

この言葉から考えると、食べ物、飲物、衣服を選べるだけの富があるということは、悩みのもとであることがよくわかります。また、富の価値は私たちにとってどれだけのものであるか?を考えさせられます。食べ物や衣服は、自分の体を維持するために必要ですから、富よりもはるかに価値があります。そして、食べ物や衣服よりも体(地上の命)に価値があります。しかし、地上の命は、永遠のものではありません。ですから、神様の前での豊かさの方が価値が高いのです。いわゆる天の国に積む宝に一番の価値があると言うことです。

『6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。』

 先ほど、人間が富を得たプロセスをお話ししました。畑を耕して、種を蒔いて、雑草を抜き、刈り入れそして納屋に納める。人は収穫を得るために、その準備を日々続けるのですが、空の鳥はその日暮らし。それでも神様はしっかり鳥を養っています。人間ももともとそうだったのです。そして、何の蓄えも無くなったとしても、神様は私たちを養われるのです。なぜならば、神様は私たちを慈しんでいるからです。そして、食べる物について悩んだ結果、寿命を一時間だけでも長くできる人はいません。(直訳:悩んで寿命が1キュビト(39cm)増える人はいません。新共同訳は1キュビトを極めて短い時間とした訳。多くの聖書は、寿命を背丈の意として訳。)


『6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。』

 衣服についても、悩んだところで、何も得られません。しかし、神様は野の花以上に私たちのために必要を満たしてくださいます。野の花よりも私たちを慈しんでおられるからです。ただ、オーブンの燃料として刈り取られる野の草であっても、神様はきれいな花で装わせます。イスラエルで最も栄えた王様ソロモンでさえ、この野の花ほどの装いは出来ません。この草が美しく装えたのは、この草が働いたからでも、きれいな糸を紡いだわけではありません。この装いは神様が下さったのです。


『6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。』

 イエス様は言いました。神様がすべてを備えてくださるのに、選ぼうとする必要はありません。何処へ行っても、食べ物も飲物もそして衣服も必要な時は誰かを通して与えられるのです。神様を知らない民は「食べる事」「飲む事」そして「着る事」への不安を感じています。神様が、すべてを備えて下さることを知らないからです。

 それと比べて、私たちは「神様が私たちに必要なものを備えてくださる」ことを知っています。そして、神様は、私たちが必要なものを御存知なのです。だから、悩まなくても必要なものは頂けると信じているのです。

イエス様は続けて言われました。

『6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」』


 「食べる事」「飲む事」そして「着る事」に悩まなくても与えられるのですから、まず最初に「神の国」と「神の義」を求めることが出来ますし、それをイエス様は第一にするように命令しました。そうすれば、「食べる事」「飲む事」そして「着る事」については、必要以上に与えられるのです。だから、明日の事まで悩む必要はありません。今日は今日で、苦労があったのです。それに加えて明日の分まで悩むのでは、とても心がおちつきません。明日の事は明日悩めば、今日は、今日の事だけで解放されるのです。それでも、何も問題がありません。神様は、明日も私たちを養ってくださるからです。私たちが神様によって守られ、慈しまれている。そして私たちは、神様に守られていることを信じています。感謝です。ですから、全てを与えて下さる神様に信頼して、何よりもまず、神の国と神の義を求めてまいりましょう。