Ⅰコリント11:23-34 

 ふさわしくないままで

2020年 8月 2日 主日礼拝 

『ふさわしくないままで』

聖書 コリントの信徒への手紙 11:23-34           

 今日は、主の晩餐についてのお話です。主の晩餐を行うとき、今日の聖書「主の晩餐の制定」が良く引用されます。イエス様がこのように行いなさいと命令されたことがわかる箇所だからです。そしてもう一カ所をよく使います。パウロが「主の晩餐に与る前に、良く確かめなさい」と指示した箇所です。

再び読みますので、聞いて下さい。

『11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。』

 

 ところで、このみ言葉の意味について、疑問をもったことがあるのではないでしょうか? 疑問が無い人もいると思いますし、この聖書の箇所でたくさんの悩みを持った人もいると思います。主の晩餐に与るのに「自分はふさわしい」のか?と問われていますから、素直に答えようとしても、何と答えてよいのか悩むのだと思います。また、「ふさわしくない」のであれば、「パンと杯を頂くことは罪を犯すことになる」と言われているのです。『だれでも、自分を良く確かめたうえで』とまで、自分をよく確かめるよう言われているので、なおさらです。そして、自分をよく確かめてみたら、「主の晩餐」に与ることにふさわしくない自分の姿に気づくことでしょう。

さらには、『11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。』などと、私たち不完全な人間にとって、不安を誘うようなみ言葉が続きます。いったい、パウロは誰のどんな態度を見て、このように批判したのでしょうか? その理解のためには、パウロが私たちに何を「よく確かめるよう」に言ったのかを考えてみましょう。


 主の晩餐は、イエス様が最後の晩餐のときに、「このように行いなさい」と命令された礼典です。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書には、その様子が過ぎ越しの祭りの食事として書かれています。また、ヨハネによる福音書では、過ぎ越しの祭りの前の日に最後の晩餐がおこなわれていますので、少なくとも過ぎ越しの祭りと関係があるわけです。

まず、過ぎ越しの祭りから、主の晩餐の意味を考えてみましょう。

 過ぎ越しの祭りは、ユダヤの民がエジプトで奴隷として働いていた大昔、神様がモーセを遣わして、脱出させた事を記念した祭りです。モーセを通して神様がエジプトの長子を打った時、ユダヤの民の上だけはその災いは過ぎ越していきました。エジプトにいた、人間も家畜も最初に生まれた子は、すべて死んでしまったのです。ところが、神がモーセを遣わして起こしたその災いはユダヤの民には災いとならないで、過ぎ越してしまったのでした。その出来事を記念して、その時と同じように家の中に閉じこもって、小羊と種入れぬパンと苦菜を食べて過ごすのが、過ぎ越しの祭りです。最後の晩餐は、この過ぎ越しの食事だったと言えます。


 一方で、最後の晩餐より以前から、イエス様は主の晩餐と似たことをしていたと考えられます。まず第一に、バプテスマのヨハネが所属していたと言われるユダヤ教のエッセネ派では、礼拝の後に食卓を囲んだようです。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けているイエス様は、同じようにその食事をされていたのでしょう。

 次に、イエス様が5000人に給食した物語でも、「パンを裂いて弟子たちに渡しては配らせ」(マルコ6:41)ています。そのような、弟子たちが書き残したイエス様の姿は、主の晩餐と似ているのだと思います。もうひとつ、最後の手がかりは、コリントの信徒への手紙です。これを見ると、パウロの時代にどのように行われていたかを知ることが出来ます。しかも、主の晩餐などについて、問題が起きていたようです。今日読んでいただいた聖書の箇所の少し前に、こんな記事があります。

『11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。

11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。』

 パウロが言うことには、誰がリーダとしてふさわしいかで意見が分かれていたので、コリントの教会では信徒が一緒に主の晩餐に与る事が出来なかったようです。当時の主の晩餐には2つの意味がありました。第一に、イエス様に命じられた主の晩餐を守ること。そして、二番目には、皆が一緒に持参した食べ物で食事をとる愛餐のことでした。つまり、生活に困っている人へ食事の提供です。それが、いくつかのグループに教会が分かれてしまい。ある豊かな人たちのグループは、自分たち用に食物をもってきて、そのまま食べてしまい、酔っぱらっている人までいました。そして貧しい者のグループが仕事のために遅れて来ると、パンがもうなくなっていて、主の晩餐に与れないという状態だったようです。主の晩餐は、教会員みんなが集まって与るものですが、さっさと持参した食べ物を食べてしまっては、一緒に与ることが出来ません。主の晩餐の後の愛餐にしても、仕事のために礼拝に遅れてくるような貧しい人たちを待つべきなのです。しかし、コリントの教会は分裂していて、他の教会員を待たずに食事を始める様な教会になっていました。一つのパンを取り分けて教会員みんなで食べるという主の晩餐が出来ないほど、教会の一致が失われていたのです。今日の聖書の箇所は、そういう記事を前提に読むことが必要でしょう。

 

 さて、今日のみ言葉を読んで見ましょう。

『11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。』

「ふさわしくない」とは、何を指しているかと言うと、「やり方」が悪いと言うことになります。その源語のギリシャ語(ἀναξίως)では、ふさわしくないやり方で(in an unworthy manner)と言う意味の副詞です。「ふさわしくない人」と言った訳ならば形容詞を使うわけですが、ここでは副詞で動詞の「食べる、飲む」を修飾しています。つまり、「ふさわしくない食べ飲みの仕方」を指しています。その食べのみの仕方を指す副詞には単数が使われていますので、パウロは、皆がそろう前に食べ、飲んでしまう「やり方」のことだけを言っているのです。


 と言うことなので、「主の晩餐に与るにふさわしい自分であるかどうか、良く確かめなさい」となど、パウロは言っていなかったと思われます。パウロ言ったのは、「なぜ、一緒に主の晩餐を受けようとしないのか?。なぜ、みなが揃うまで待てないのか?」だったのです。食事をしたいなら、家で食べてくる事もできるのに、豊かな人たちはなぜ待てないのか? 待たなかったことで、教会の食事が本当に必要な人たちが仕事を終えて来る頃にはなくなっている。そんなことをしてしまわないようにしなさい。そうしないと、キリストの体と血に対して罪を犯すことになりますと言うことです。具体的にその罰と言うのは、食べすぎや飲みすぎで体を壊すことを指摘しているようなので、ひどい罰が下されると、重く読まなくてもよいと思います。パウロが言いたかったことは、「イエス様がお命じになった主の晩餐」に全ての教会員が与れるように配慮してくださいと言うことだったのです。教会員みんなが一緒に主の晩餐に与ることで、「教会として一つになれる」。どのリーダーにつくかで混乱している最中のコリント教会へのパウロの忠告だったのです。・・・パウロは、「ふさわしくない私たち」に向けて、「主の晩餐に与ってはいけない」とは言っていない。この理解で、少し安心したでしょうか?。なにしろ、私たちは、よく確かめなくても、「主の晩餐に与る価値がある人間」ではないのですから、「ふさわしい」かどうかを問われることは、心の痛手に触れられるようなところがあります。

しかし、「ふさわしくない やり方 で」ではなく、「ふさわしくないままで」と訳されている聖書も多いのです。ですから、「ふさわしくないままで」主の晩餐に与ってよいかどうかについては、まだ読み解きが必要だと思います。

 

 一般に「バプテスマを受けた人だけに主の晩餐に与らせる」教会では、主の晩餐の時に「ふさわしくないままで・・・」の箇所が読まれます。主の晩餐の時にこの箇所を読まれてしまっては、クリスチャンであっても「ふさわしくない人は、主の晩餐を受けてはいけない」と言われているように感じるのが普通だと思います。実際、「私はふさわしくないので、主の晩餐に与れません。」と言ってパンとぶどうジュースを受け取れないと考えられる方もいます。イエス様もパウロも、そのような信徒の姿を望んではいないと思いますが、真剣に考えた結果ですから、私たちもよく受け止めてみなければなりません。主の晩餐は、イエス様の命令によってパンと杯を頂きながら「信仰を見つめ直す機会」です。だから、「ふさわしくないまま」の自分に気が付くことは自然の事です。私たちは、ふさわしくないまま、主の晩餐に与ってよいのでしょうか?


 イエス様ならどうお考えになるのでしょうか?。私は、イエス様なら「そんな『自分がふさわしくない』と告白する人にこそパンと杯を受け取ってほしい」とお考えだと思います。・・・

私たちは元々、ふさわしいから主の晩餐に招かれているのではないのです。完全でない私たちは、「ふさわしくない」のです。そして、『だれでも、自分を良く確かめた上で、パンを食べその杯から飲むべきです』(11:28)と、パウロは私たちがパンを食べ、杯から飲むことを受け入れているのです。そして、私たちが「ふさわしくなるように」イエス様は主の晩餐に招かれています。ただただ、私たちは「ふさわしくないまま」の「ふさわしくない部分がある」自分に気づきながら、そのままイエス様に招きに与れば祝福されるのです。私たちは、イエス様の力によって、聖霊の働きによって、「ふさわしく」なるにすぎないのです。

 ですから、パウロは、招かれることに「ふさわしくないまま」の私たちに、そのことをわきまえるように言います。『わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。』(11:31) だからこそ、そのままで招かれてよいのです。

そして、「ふさわしくないまま」だからこそ、イエス様からの大きな恵みに与れるのです。