ルカ17:1-19

 信仰をもって謙虚に

 

  この箇所の背景には、ファリサイ派人々と律法学者たちとの論争があります。お金を愛し、無慈悲な人々。そして人の作った掟を大事にし、罪人へ寄り添う等の憐れみを持たない人々。妻を離縁して、新しく妻を迎える人々。そんな反面教師をこれまで取り上げてきました。イエス様は弟子たちに向かって、これからの弟子たちのあり方を教えたのでした。


1.赦し、信仰、奉仕

 「つまずき」とは、文字通り石につまずくことを指します。信仰の道を歩んでいる途中に、石や罠にはまって、転んでしまうことです。ここで、注目しなければならないのは、イエス様は「つまずいてはならない」のではなく、「つまずくのは避けられない」と言ったことです。だれしも、つまずくことはありますし、そのあとの行動で赦してもらうことが出来るからです。しかし、不幸なのは他人をつまずかせる人です。

『首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう』 これは、簀巻きの事だと思われます。確実に殺してしまう方法をとってでも、誰一人として躓かせないようにした方がましだとイエス様は言っています。もちろん、そうならないようにイエス様は、「悔い改め」を勧め、そして「悔い改めた者を赦す」ように勧めたのです。この文脈から言うと、他人を躓かせる人とは「悔い改め」ない人、そして「悔い改めた者を赦す」ことのない人だと言うことになります。

 悔い改めない人は、そもそも自分の罪に気がついていないか、気がついていても「もっと罪な人がいる」と言う論理で、巻き込まれただけのような言い訳をしてしまいます。罪を現実に犯していながら、悔い改めなければ、何事も良い方向にはいきません。むしろその罪は拡大していくでしょう。その姿を見た人の中には、あれで問題ないなら、私もちょっとくらい・・・ となるでしょう。

 悔い改めた者を赦すことのない人は、いつも裁く側の人でしょうか?  自分自身が罪を犯していながら、赦されてきたこと、または見逃されてきたことは、省みなけらばなりません。もちろん罪を犯したことのない人などいませんから、全ての人は、赦されていることに目を向けなければなりません。この神様の赦しに与っていながら、人を裁き 悔い改めている者までも赦さないのならば、それは人の分際を超えた存在であると、自身が宣言したのと同じです。つまり、それは自を神々の一人に数えたことを示します。このような人が人並に生活をしているならば、こんな生き方でも大丈夫なんだ・・・となるでしょう。

 弟子が、「信仰を増してください」と言いました。これは、自分たちには信仰があるとの認識から出ています。イエス様が、弟子たちに言ったことは、「あなたがたには、信仰が無い」との宣言でした。だから、信仰があればできることを引き起こせないということなります。まずは、謙虚に「私に信仰を与えてください」との祈りが必要でしょう。

 僕の役割は、多岐にわたります。一つの仕事を終えたあとも、次の仕事があります。そして、そのすべての仕事は主人から命じられたか、自分の判断で付け加えたことです。だから、一つの命令された仕事を終えたからと言って、主人がねぎらってくれることを期待してはいけません。それは、主人の求めているものの一部でしかないからです。加えて、言われた通りの事だけをする僕に、感謝する主人はいません。「しなければならないことをしただけ」だからです。


2.重い皮膚病を患っている十人の人をいやす

 サマリアとガリラヤの境の村を通ると、重い皮膚病の十人が出迎えました。重い皮膚病の人は、隔離されます。そして、旅行者の通るところに顔を出してはいけませんし、もし人と出会ったら身を隠さなければなりません。しかし、病を癒してほしいとの強い思いからでしょう。重い皮膚病の十人はイエス様一行を出迎えていました。そして、声を張り上げます。

『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』


 イエス様にお願いして癒してもらう。そして、絶対に治るだろうとの確信なのでしょうか? それは、イエス様を神の子として信じたのではなく、力のある癒し手としてだったようです。(一人を除いては)

『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』とイエス様は言いました。


もともと、重い皮膚病の判定は、祭司がするものだからです。祭司が清いと判定したら、普段の生活に戻れます。その村の祭司のところに行くのにほとんど時間はかからなかったと思われますが、もうその祭司に会いに行く途中で、彼らは癒されました。十人とも、祭司に見てもらった結果、清いと判定されたのでしょう。それぞれが、生活を取り戻しました。そのうちの一人だけが神様を賛美しながら戻ってきました。そしてなんとその人はサマリア人だったのです。イスラエルが南北に分かれた時、北の王朝はエルサレムの神殿に対抗して神々を造りました。その関係でサマリアの人は神様を信じている人が少なかったのです。そのサマリアの人だけが、この癒しが神様の業だと信じそして感謝するためにイエス様のところに戻ってきたのです。ほかの9人もサマリア人なのかユダの人なのかわかりません。事実として一人だけが、このイエス様の癒しが神様の業であると信じて、イエス様にお礼を言いたかったのです。そして、ほかの9人はおそらくユダの人です。この人たちは、この癒しを神様の業だとは思わなかったようです。「癒し手」が来たから、癒してもらったと言うことなのでしょう。

『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』とイエス様は言いました。一人のサマリア人の信仰によって、本人とユダの人9人が癒されたのです。