マタイ22:15-22

神のものは神に

2023年 1022日 主日礼拝  

神のものは神に

聖書 マタイ22:15-22

 今日の聖書は、ローマ皇帝を刻んだ銀貨にまつわる有名な箇所です。そのお話をする前に予備知識として、神殿税についてお話したいと思います。新共同訳聖書の後ろの方に用語の解説がありますから、読んでみます。

『◆神殿税(しんでんぜい) 出エジプト記30:11以下に定められた規定に従って,ユダヤ人成人男子が年に一度,神殿に納める税金。額は旧約では半シェケル,新約時代には2ドラクメであった(マタ 17:24以下)。』


ドラクメは、新約聖書ではルカ15:8にしか出てきませんし、その記事も神殿税の話ではありません。またマタイの記事は、神殿税のために魚を獲って口を開けると1シェケル硬貨がありました。それを二人分の神殿税にあてたということですから、一人分が半シェケルとなります。それが2ドラクメだったとの根拠を知るために、Chat GPTで検索してみると、明確に一人2ドラクメと書かれていたんですね。どうしてかな?と思いながら、解説にあったマタイ17:24以下をギリシャ語で呼んでみました。すると、神殿税ではなくて、2ドラクマと書いてあります。(ドラクマは、ドラクメの複数形)ギリシャ語でディ・ドラクマ(δίδραχμα)。ここのディは数字の2の意味ですね。英語の聖書を見ると、2/3ぐらいの聖書で神殿税と訳されていますが、残り1/3は、2ドラクマとの直訳でした。もとのギリシャ語が、2ドラクマなのですから、実際一人当たり2ドラクマを集めていることになります。ドラクマは、ギリシャの通貨でローマの通貨デナリと同じ価値を持ちます。銀4.3gと等価であります。そして、シェケルはなんと古代ペルシャの銀貨なのだそうです。出エジプトのころから、一貫して神殿税としてシェケル銀貨を納めていました。しかし、イエス様の時代には、日常の通貨としてシェケルは使われていません。ですから、神殿税を収めるときは両替をしていました。神殿に納める半シェケルは、銀5.6gですが、2ドラクマの銀は、8.6gです。差額の銀3gが両替商の儲けとなるわけです。このことから、1/3以上の暴利を両替商がむさぼっていたことがわかります。一方でドラクマですが、イエス様が活躍した時期のローマ皇帝は、第二代のテベリウス(在位 紀元14~37年)ですから、この人の肖像が刻まれていたと想定できます。なお、シェケル銀貨はペルシャのお金ですが、エルサレムの神殿で使う分はエルサレムで作っていたようです。

 整理しますと、普段使っているお金はドラクマなので、ローマ皇帝テベリウスかアウグスティヌスの肖像が刻まれています。そして、神殿に納めるお金は神殿専用のシェケルです。(現在のイスラエルの通貨もシェケル)


 さて、それでは、今日のみ言葉に入りましょう。

『22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。』

 この記事を見ると、ファリサイ派の人々は宗教家にもかかわらず、悪を行おうとしています。新共同訳聖書の巻末にある解説にも、ファリサイ派の人々についてこのような記事があります。

「~律法学者は多くファリサイ派に属していたと思われ,しばしば並んで記されている(マタ 23:2など)。律法を守ること,特に安息日や断食,施しを行うことや宗教的な清めを強調した。~福音書ではイエスの論敵として描かれる(マタ 12章,23章)。~」

確かに、福音書の中では、しばしばイエス様とファリサイ派の人々とのやり取りがあります。そして、彼らが悪意を持ってイエス様を罠にかけようとしたとき、必ずそのたくらみは失敗しています。そういう経緯がありながら、あいかわらず罠をしかけようとするファリサイ派の人々をどのように理解したらよいでしょうか? 上席を好み、名誉欲が強く、そして律法を厳格に適用したがる。彼らのこれらの性質は、「権威を認められている自分 を愛する」ことから来ているんだろうと思います。そこには、イエス様が実践していたような「隣人への愛」がないのだと思います。ただ、「隣人への愛」がないのは、ファリサイ派の人々だけではありません。私たち人間は、誰であってもそうなのです。そして、自分にとって都合が悪い人には、向き合おうとしないとか、積極的に邪魔をしてしまう。これは、だれにも覚えのあることではないでしょうか?。決して逃れることのできない悪い性質、人間の罪がそこにはあります。ですから、ファリサイ派の人々の悪さを聖書で読むとき、私たち自身の事が言われているのだと思って向き合いたいものであります。


 さて、イエス様に向けた罠の準備が整ったのでしょう。ファリサイ派の人々は、彼らの弟子たちと、ヘロデ派の人々をイエス様の所に送ります。ヘロデ派の人々とは、ヘロデを支持する人々という意味ですので、当時のガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスのシンパを指すわけです。彼らは、どういう群れかと一言で言いますと、ローマの力で王制を取り戻したい人々なわけです。そんなわけで、ガリラヤから来たイエス様のグループが反乱や暴動を起こしては、国王となるどころか、領主として失格であります。ですから、ヘロデ派は、ファリサイ派の人々と結託して罠をかけようとしました。イエス様が邪魔なことで一致したためであります。もともと、ファリサイ派の人々はローマの支配を嫌い、ヘロデ派はローマを積極的に利用したいのですから、対立する立場です。それでも、ファリサイ派の人々は、自分たちの名誉のために、ヘロデ派の人々は王政を取り戻すために、邪魔なイエス様を罠にはめようと結託したのです。


 ファリサイ派の弟子がこのように言いました。

『「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。』

このファリサイ派の弟子はイエス様の事を『だれをもはばからない人』だと、言いました。この「だれをも」とは、ローマが念頭にあります。このファリサイ派の弟子は、「イエス様はローマにはばかりなく、真理を語る」と言う意味で、「神の道を教える真実の方だ」と言いました。かといって、ローマに遠慮のないことをイエス様が答えたら、ヘロデ派の人は怒り出しそうです。そこを狙っているわけです。「先生、ローマなどはばからずに、本当の事を教えてくださいね。」これが、ファリサイ派の人々の狙いであり、誘いでした。

 そして、準備は万端です。罠となる質問をします。

『22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」』

 税金とありますが、元のギリシャ語は人頭税と書かれています。ローマの主な税金は人頭税が収入の1/10、穀物税が収穫した穀物の1/10です。そして新共同訳はわかりやすく「律法にかなっているでしょうか?」と意訳していますが、元のギリシャ語は、合法ですか、それとも違いますか?との質問です。この答えは明確であります。律法とは、モーセ五書のことなので、「皇帝への納税は律法には書かれていません」。一方で「皇帝への納税はローマ法で合法」なのであります。付け加えると、「神殿税は、律法に書かれています」そして、「神殿税はローマ法にはありません」。神様との約束で、神殿税を神様にお返しするのであります。また、皇帝との約束で、人頭税をローマ皇帝にお返しするわけです。ですから、もともと律法をにおわせて合法かどうか聞くべきことではありません。しかし、ファリサイ派の人々は、「律法に書かれていない人頭税を払うのはどういうことなんだ?」と言った趣旨で質問をしました。そして、その裏にある質問が「律法に従え なのか、ローマの法に従え なのか、どちらなのか教えて!」ということです。律法を選ぶと、イエス様はローマへの反逆者となって、ヘロデ派につかまってしまうでしょう。ファリサイ派の人々は、それで十分だったのです。また、ローマの法律を選んだら、イスラエルの人々への人気は無くなります。何しろ、その当時の民衆は、ローマからの独立を願っていたからです。イエス様がどちらを選んでも、ファリサイ派の人々がイエス様にかけた罠は成功するのです。ここまで、考え抜いた罠であったと言えます。

 イエス様は、この罠を見破っていました。そして言います。

『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。22:19 税金に納めるお金を見せなさい。』

と、シェケル銀貨ではなくドラクマかデナリの銀貨を見せるように言います。そこには、皇帝テベリウスの像が刻まれているはずです。


『22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」』


 ファリサイ派の人々の罠を、イエス様は見破っただけではなく、見事に論破します。そして、彼らはこれ以上罠にはめようとしても勝ち目がないと思ったのでしょう。その場を去りました。

 この世の支配者である皇帝は、この世を治めていますから、経済・軍事・政治の仕組みを構築して、人々に恩恵をもたらしています。恩恵とは、生存することを保証されていることですね。例えば職業につけること、安全であること、そして法的な権利があることなどです。ですから、イスラエルの民はローマ皇帝から受けている恩恵の、その一部をローマ皇帝に返すのが義務だと言えるでしょう。もし、ユダに王様がいた場合は、人々が受ける恩恵はユダの王様から受けていますから、ユダの王様にその一部を返すべきです。もともと、これは支配者に対する義務ですから、支配者が皇帝だろうと王様であろうと、払うべきものです。ローマに払いたくないとの感情論ではないのです。ファリサイ派の人々の罠は、人々が感じているローマへの不満を利用した巧みなものであったと言えます。一方で、神様から同じように恩恵を受けている私たちです。全てが神様のものでありますが、その恩恵の一部を神様にお返ししなければなりません。今日の物語では、税金の譬えでした。しかし、神様の恩恵はお金だけではありません。私たちは神様から愛されており、そして平安等の恩恵が与えられています。ですから、神様に感謝の祈りをもって、その一部をお返ししましょう。ですから、イエス様がしたように、周りの人々を愛するように努め、そして皆の平安のために祈りましょう。それが、神様の御用のために役立つ、お返しなのです。

『神のものは神に返しなさい。』

このイエス様のご命令に、祈りをもって従ってまいりましょう。