イザヤ書61:1-3 

良い知らせを伝えるため

2024年 414日 主日礼拝

良い知らせを伝えるために

聖書 イザヤ61:1-3 

今日はイザヤ書から御言葉を取り次ぎます。

イザヤ書には66章あります。1-39章までを第一イザヤ、40章以下を第二イザヤ、56章以下を第三イザヤと呼ばれています。それはイザヤ書に書かれている出来事からみると、約200年と長い期間だからです。歴史書なら過去にさかのぼって書くことは出来ます。しかし、預言書ですから、未来のことが書かれています。とても一人の預言者が200年間も預言を書き続けたとは思えないのです。それで、3人のイザヤがいると分析するわけです。もちろん、過去の預言を編集して、一人で書いたとの説もあります。それは、死海文書を根拠にしています。ほぼ現在と一致するイザヤ書がクムラン遺跡から見つかりました。ですから、最初から一つだったとするものです。どちらにしても、決定的な証拠ではありません。

 イスラエル王国は、初代の王サウルによって建国されました。第2代の王ダビデ、第3代の王ソロモンの時、国は発展しましたが、第4代の時、北王国のイスラエルと南王国のユダに分裂しました。この王国の歩みは、サムエル記(上・下)、列王記(上・下)、歴代誌(上・下)に記されています。北イスラエルは紀元前722年アッシリアによって滅ぼされ、南ユダは紀元前586年に新バビロニアによって滅ぼされます。南ユダでは、多くの人がバビロニアに連れて行かれる「バビロン捕囚」と呼ばれる悲劇もありました。

 神様は北王国イスラエルが滅びる30年ぐらい前から、イザヤやアモス、ホセアなどの預言者を立て、イスラエルに悔い改めを求めました。しかし、国の指導者たちは預言者の言葉を聞くことなく、イスラエルは滅びました。

 第一イザヤの最後あたりの36-38章では、アッシリアの王センナケリブによるユダへの侵略が描かれています。結果的にアッシリアが撤退したので、ユダは辛うじて残ります。そこまでの約100年が第一イザヤの活躍範囲です。

 第二イザヤ第三イザヤは、その後100年間。つまり、バビロン捕囚までの間の預言です。実際に帰還できるまで70年かかりましたから、その預言した範囲は270年にも及ぶわけです。特に、第二イザヤの最初である40章は、救い主が来るとの預言であります。また、「エッサイの根より」の預言は第一イザヤの記事であります。つまり、イザヤ書は、800年もの先のことまでを預言しているのです。

 聖書のなかで、イザヤ書の位置づけですが、預言書ではいちばん最初にあたります。重要な預言書であることは間違いありません。また、イエス様の預言が多いのです。なかでも、主のしもべの歌は、4つありまして、その第四の歌の後半は、「苦難のしもべ」(イザヤ53章、交読文35)と呼ばれる、イエス様の受難の預言であります。 

 今日の箇所は、第三イザヤと呼ばれている部分に当たります。バビロン捕囚が終わり、人々がエルサレムへと帰還する時代を預言したものです。その続きの4節を見ますと、紀元前520年に始まったエルサレム神殿の再建について(紀元前515年完成)語られていますので、今日の聖書箇所は、国の建て直しに関わる預言だと言えます。

 『61:1主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。』

 預言者は頭に油を注がれて、その務めに立てられました。また、王様や祭司など神様に仕える者として任職するときに、油を注がれた者となります。油を注がれた者という言葉は、メシアというヘブライ語の直訳であります。メシアは、後に救い主を表すようになります。そしてヘブライ語のメシアをギリシャ語に直訳したのがキリストという言葉です。

 預言者は油を注がれると、神様の霊に捉えられます。すると、神様の霊は「民に伝えるべき事」を預言者に示し始めるのです。

『61:1 ~主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。』

 「貧しい人」という言葉が出てきますが、これは困難な時代、苦しみの中で心が弱った人のことです。ですから、ここでは経済的な貧しさを表しているのではなく、災難を嘆いて悲しむことを指します。 預言者の務めは、この嘆いて、悲しんでいる人に「良い知らせを伝える」ことだとイザヤは語りました。良い知らせ、それは福音です。福音を伝えることを、二つの行動で表現しています。「心を包み」と「自由と解放を告知させる」です。同じように2,3節で「告知する」、「慰め」、「賛美の衣をまとわせる」と述べています。

『61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。』

『主が恵みをお与えになる年』が来ることを伝える。そして『わたしたちの神が報復される日』を伝える。この福音、良い知らせによって、嘆いていた人々は生きて働く神様を知り、神様の真実を知って、幸いへと導かれるのです。

 神様は預言者を用いて『打ち砕かれた心を包み』『嘆いている人々を慰め』『嘆きに代えて喜びの香油をまとわせて』『暗い心に代えて賛美の衣をまとわせて』くださいます。

『灰に代えて冠をかぶせ』も同様な意味です。旧約聖書にはたびたび灰をかぶる場面が出てきますが、大きな悲しみにあったときの嘆く姿を表しています。 灰を頭にかぶる、塵の中に座る、地面の塵の上を転がる、という行為が、その嘆きの強さを表しています。また、これと合わせて、着ている服を引き裂く、髪の毛や髭をそり落とす、粗布をまとう、嘆きの声を上げる、祈る、断食する、等の行為がともなうことがあります。

 既に起こったか、これから起ころうとしている災難・悲惨な出来事を前にして、「灰や塵をかぶる」「灰や塵の上に座る」などの行為が、行われます。

 こうして嘆いている中、良い知らせを受け取った人々は、神様の栄光を現すために、神様を証しします。

『彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。』

樫の木は、聖なる木と考えられていました。別名はテレビンの木で、この聖なる木の傍に祭壇を築く習慣があったようです(創世記 13:18)。

 ここの彼らとは、バビロン捕囚という裁きの中で、故郷を離れ、そして異国にあって建築に動員されていた人たちです。この民は、故郷に帰るめどが立ちません。遠くエルサレムの神殿を懐かしんでみても、すでに心の支えであった神殿は破壊されています。悲しいばかりです。心打ちくだかれ、嘆き、心は暗いままでした。この人たちに、良い知らせを伝えるため、神様は預言者イザヤを立てたのです。神様は、バビロン捕囚と言う裁きの中にある人たちに、喜びの香油と賛美の衣を与えます。

 きょうのイザヤの預言は、イエス・キリストに重なります。

 神様のひとり子でありますイエス様は、油を注がれた者であるメシアつまりキリストとなって、この世に来ました。イエス キリストは、徴税人や娼婦、律法を守れず罪人と蔑まれていた貧しい人たちに良い知らせを伝えます。イエス様は、打ち砕かれた人の心を包み、慰めを与え、罪に捕らわれていた人々に自由を与えてくださいました。ですから、この箇所はイエス様が天から遣わされるとの預言でもあります。イエス様は、今日のイザヤ書の箇所について、会堂でお話しをしています。

 ルカによる福音書によると(4:16~)、イエス様は 安息日の会堂で、イザヤ 61章を朗読しました。そして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4:21)と言います。イザヤのこの「神様が救い主を降す」預言は、イエス ・キリストによって成就し、宣言されたのです。

 こうして、イエス様ご自身が油注がれた者であるメシア、つまりキリストとして、遣わされました。この預言が成就したのです。そしてイエス様の御言葉がもたらされました。これこそが、良い知らせであり、福音であります。

 マルコは、神の子イエス キリストの福音を伝えるために、最初の福音書を書きました。マタイもルカもヨハネも、それぞれがイエス・キリストを伝えたいがために、福音書を書きました。これらは、全てギリシャ語で書かれています。エウアンゲリオン(εὐαγγέλιον)が福音の元の言葉です。意味はThe good newsです。正しくは、「神様の良い知らせ」との意味なので、「良い知らせ」と直訳した方が良かったようにも思います。

 さて、祝福をもって世界を創造した神様は、わたしたちに良い知らせを送り続けてくださいます。神様は、預言者を遣わし、独り子を降し、その独り子によって新しい契約を備えて下さいました。その良い知らせが世界中に伝わるように、神様はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネを通してイエス様の教えや生き方を書き残しました。私たちは、その働きの結果として神様の良い知らせを受け取ることが出来るのです。神様は、私たちを祝福してくださっています。そして神様の良い知らせを世界中に広めるために、この私たちをも、用いてくださいます。信仰を告白し、バプテスマを受けた私たちは、この祝福への応答として、この良い知らせを隣人に伝えるために働くことを約束しています。そのことを、ぜひ覚えてください。

 世の終わりまでに、神様の良い知らせを世界中に伝えるために、イエス様は教会を建てました。神様の輝きを現す「樫の木」としてです。神様の祝福を受け取った私たち一人一人も、神様を証しする「樫の木」として育み、用いてくださいます。わたしたちの思いを超えて、神様は私たちを用いて救いの御業を進めているのです。

 イエス様は、「イザヤの預言が実現した」と宣言しました。ですから、61章1節は、このように読み替えることが出来ます。

『61:1 ヤハウェはイエス様に油を注ぎ/ヤハウェの霊がイエス様をとらえた。イエス様を遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。』

 イザヤの預言は、イエス様の良い知らせであります。私たちは、このイエス様の言葉や行い、そして十字架と復活について、隣人に伝える務めがあります。救われたから もう大丈夫ということではありません。イエス様の良い知らせと共にあるように務めたいですね。そのことを求めて祈って、より多くの祝福を頂きましょう。