マタイ5:38-48

敵のために祈りなさい

2023年 1119日 主日礼拝  

敵のために祈りなさい

聖書 マタイ5:38-48

 今日の聖書は、マタイによる福音書からです。聖書の表題にもあるとおりに「復讐してはならない」と「敵を愛しなさい」とイエス様が教えているところです。ここでイエス様は、モーセの律法から踏み込んで教えています。そのもとのモーセの教えは、

レビ『24:19 人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。

24:20 骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。』


 これは、損害を与えた者は、同等の不利益を受けるべきだという考えに基づいています。傷つけた者も、傷つけられた者と同じ痛みを受けることで、これ以上に傷つけ合うことをしない。そういった考えは、合理的でありますが、残念なことがあります。それは、痛みが倍になることです。決して手を出した方を擁護するわけではありませんが、もし、悪意ではなく過ちであったならば、そこまでする必要はないと私は思います。イエス様も、そのことについて、『だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』と教えました。たとえ、「悪人が相手だとしても、殴り返すのはやめなさい。」という意味だと思います。殴られっぱなしで無抵抗でいなさいと言うのではなく、仕返しをして負の連鎖を起こさないことだと考えたいですね。ここでの「頬を打つ」とは、平手打ちのことです。当時平手打ちで、人を打ったら、罰金1シケルとされていたようです。れっきとした犯罪なのですが、それでも、往復ビンタぐらいは受け入れなさい。とイエス様は教えたのでしょうか?。そんなことではないと思います。それから、右手で平手打ちをしたら食らうのは左の頬だよね・・という疑問もあります。この記事から、イエス様は左利きだったのではないか?と言った人もいましたが、たぶんそんなことではないと思います。右の頬は、人の尊厳を象徴します。ですから、右の頬を打たれるということは、自尊心を傷つけられたことを表します。自尊心を傷つけられたとしても、「別の向きになりなさい」・・・。実はイエス様は、「左の頬をも向けなさい」とは言っていません。自尊心の象徴である右の頬を打たれたら、それ以外を向けなさいと言いました。それで、右以外だから左との解釈での訳と思います。しかし、右の頬が人の尊厳を象徴していて、しかも普通打たれるならば左の頬が先だと考えると、読み方を変えなければなりません。「わたしは、傷つけられた」と訴えたとします。それは傷つけられた者の当然の権利です。しかし、その訴えが攻撃性をもってはいけないのです。自分が正しくて何も悪いことはしていなくても、たとえ相手が悪くても攻撃的に訴えたのでは、相手がますます攻撃する可能性があるからです。


『5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。』

 この下着と上着ですが、下着は普通の服、そして上着は防寒用のマントです。当然ながら上着の方が値が張ります。「あなたから受けた損害を、賠償するようにと訴える人」がいます。本当に、あなたが損害を与えているならば、当然その賠償は必要です。相手の言い分では、下着ほどの金額です。しかし、イエス様は上着の分までお金を払って、相手の損害以上に賠償しなさいと教えているわけです。

そして、『5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。』


 当時は、ローマ帝国公用の郵便システムがありました。駅伝方式で常時公の手紙などを届けていたわけです。その仕事にたずさわる人には、担当する地域の人を駆り出す権限が与えられていました。もし、重い荷物を運ぶ場合は、その担当している1ミリオン(1480m)程度の運搬に住民を駆り出すわけです。これも、国のシステムですから、義務であります。イエス様は、義務以上に協力するように勧めたわけです。

『5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」』

ここまでの、イエス様の教えは、争いを避け、そして協力する事でした。ここで、「求める者には与えなさい」です。ここまでと、異質であります。神様でさえ、私たちが求めるものすべてを与えて下さるわけではないのに、私たちがなんで与えないといけないのでしょうか? と疑問を抱いてしまいます。また、何でも求めに応じて与えれば良いとも思えません。しかし、イエス様はあえて言います。お金を借りようとしている人に渋い顔をしないようにと・・・難しいですね。できるだけ助けてあげたい。それは誰でも持つ気持ちであります。しかし、繰り返してお金を借りに来ることもありえるでしょうし、お金が戻って来るとは限りません。そういったことが正直に顔に出てしまうと思います。イエス様は、持っているものすべてを困っている人のために使うことに躊躇しなかった。しかし、私たちには、それは出来ませんから、祈るしかありません。そして、自分で出来ることを考えたうえで、選びとりたいですね。

 当時のイスラエルでは、ユダヤ人同士でお金を貸して利子を取ることが禁止されていました。そう言う意味からも、お金を貸すメリットは何もありません。そうであるにもかかわらず、イエス様はお金を求める者には、与えるように、そしてお金を借りたい者には向き合うように教えます。このように、イエス様は、人と人が対等の関係であるにもかかわらず、あらゆる面で相手を思いやり、仕える者になりなさいと 教えているのです。

 そして、「敵を愛しなさい」 です。『隣人を愛し、敵を憎め』とは、旧約聖書にあったでしょうか?隣人を愛しなさいは、明確に書かれています。

レビ『19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。』

一方で、「敵を憎め」は、旧約聖書にはありません。しかし、「神を憎む者や私を憎む者は敵である」との考えで一貫しています。それなのにです。イエス様は、隣人を愛しなさいに加えて、敵までを愛しなさいと言うわけです。そして、こうまで言います。

『自分を迫害する者のために祈りなさい。』


 自分が悪いわけではない。しかし、迫害は起こってしまった。こんなとき、仕返しをするのではなくて、また、向き合わずに無視するのでもなくて、この自分を迫害する者のために祈る。そんなことが出来るのでしょうか?私だったら、すぐに倍返しを考えたり、迫害する者を軽蔑し、無視するでしょう。でも、そんなことをしても、誰も得をしないのです。むしろ、自分も含めてみんなが得られるべき平和や平安を損なってしまいます。そうならないように、相手に感情をぶつける代わりに、イエス様に愚痴をたくさん言う。そして、相手が頑なにならないようにイエス様に祈る。そんなことが大事なのかな?と 思います。決して自分の思いのままにしない事です。イエス様を頼りにしましょう。私たちは、イエス様のようには、出来ません。でも、イエス様に祈って、そして聖霊の働きを待てば、出来てしまうのです。イエス様を頼りにすれば、「天の父の子」となるからです。私たちは、イエス様を信じ、そしてバプテスマを受けました。こうして救われたのですが、この地上でイエス様に倣って、善いことをする。それは、まさに福音を語る事です。言葉だけではなく、イエス様の生きたように、生きる。それが、「天の国での永遠の命」のために、必要なのです。ですから、永遠の命を頂くために、敵のためにも祈りましょう。なにしろ、神様は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」のですから、私たちを 「愛する者」も「迫害する者」も愛するべきなのです。 だれでも「愛する者」を愛し、そして「愛してくれる者」を愛します。だから、それは悪人でもしていることであります。神様が悪人をも愛し、正しくない者も愛しているように、私たちも「敵」を愛しなさいとの教えです。「敵を愛しなさい」本当に難しいですね。相手から、憎まれていると思った時から冷静になれなくて、エスカレートしがちではないでしょうか?私たちは、完全な者ではありません。だから、イエス様の言うようには出来ないのです。しかし、イエス様は完全な者になりなさいと教えます。では、完全でない私たちには何が出来るでしょうか?

 目標ははっきりしています。天の国で永遠の命を頂くことです。その手段が完全な者になる事です。そして、判定基準は「敵を愛する」事。まず最初に、この確認が必要なのです。なぜならば、「敵を愛する」事が目標ではなく、手段だからです。ですから、天の国で永遠の命を頂くことを目標にしたいですね。この目標に向けて、なれるわけがない完全な人になろうとする。このことをスタート地点にしたいと思います。

 さて、スタート地点に立ったとして、その後どのようにしていけばよいのでしょうか? わざわざ敵を作ってまで、「敵を愛する」ということはないですから、まず敵を作らない事だと思います。もちろん相手があることですから、こちらの思うようにいくとは限りません。できるだけ、隣人に寄り添って、そして協力的にしていくことでしょうか? もちろん、頑張りすぎると精神的にも追いつめられてしまいますから、出来る範囲で少しづつということでしょう。そして、良い人だと思われることは、目標ではない事に注意をしなければなりません。もし、「良い人と思われたくて」善いことをするならば、そこで、報いは「良い人だなぁ」との言葉で終わりになります。天の国で報われる前に、地上で報いを受けてしまうからです。

 さて、仮に敵がいたとしましょう。まずお聞きしたいのは、なぜ敵なのでしょうか? 相手が利害関係者ならば、交渉の対象ではあります。これは、敵ではありませんね。やはり、敵であるからには、相手から憎まれているし、こちらも相手を憎んでいるわけです。どちらも憎んでいなければ、敵同士とは言えません。ですから極端な話、迫害を受けても相手を憎まなければ、少なくともあなたは、相手の敵とはならないのです。敵同士とならない限り、争いは起こりません。問題は、そのままでは、相手があなたを迫害し続けることです。しっかりと向き合って、交渉する。それで解決できれば良いのですが、相手によるので、交渉はうまくいくとは限りません。かえってこじれる時もあります。そんな時にどうしたらよいか? イエス様に祈りましょう。まず、たくさん愚痴を言ってください。何で?何も悪いことをしていないのにこんな目に合うのですか! このようなイエス様とのおしゃべりが大事です。 本当に思っていることをイエス様に打ち明けて、そして神様のみ旨の通りに導いてくださいと祈るのです。

 私たちは、神様のように完全にはなれません。しかし、小さな努力は出来ます。そして、私たちが少しでも完全な者になろうとの小さな願いが、隣人にイエス様の福音を伝える働きとなります。そして、それは隣人を愛する事でもあるのです。敵も、隣人の一人です。隣人を愛する私たちの小さな努力が、天の国での永遠の命につながるのです。すべては、神様のみ旨の通りになります。そして、祈りは聞かれています。ですから、神様のみ旨に聞きながら、祈ってまいりましょう。