創世記1:1-5,26-31

福音を宣べ伝える者に

2024 3月 31日 主日礼拝(イースター)

福音を宣べ伝える者に

 聖書 創世記1:1-5,26-31

 イースターおめでとうございます。今日は、福音書からではなく、創世記からイースターのお話をします。神様は、天地を創造しました。天地創造の前には、何もなかったのであります。何もないとは、物が無い、光が無い、時間もないと考えますと、そこにもともといた神様は、どう言った存在なのでしょう?少なくとも、物が無いなら、物質でないわけです。そして、光が無ければ姿を現すことがありません。神様は空間も時間も創れる、空間と時間を支配する存在と言うことでしょう。そして、神様は天と地を造りました。そして、人を創造して、その天と地の境界におきます。

神様は、このように言います。

『「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』

 神様は、創造したばかりの人を信頼したのでしょうか?。人が地上を支配すれば、全てがうまくいくとの前提の言葉に聞こえます。しかし実際は、戦争や犯罪が止まず、自然破壊が進んで「生き物の絶滅」、CO2をたくさん排出した結果「地球温暖化」も招いています。この事実を見ると、本当に神様は人間にこの地上を任せて良いと思っていたのか?疑問を持つ人もいました。全能の神様は、天地創造、特に人間の創造に失敗してしまったのでしょうか?もし、そうならば、神様は全能ではないことになってしまいます。ですから、今の時点だけを見て、この物語を読むべきではありません。なぜなら、今の時点では秘密にされていて、明かされていないからです。遠い将来どうなっていくのか、長い時間軸で見る必要があると思います。

 それでは、少し天地創造の記事を確認して見ましょう。

 最初に神様の言葉です。これらは言った時点で成就しています。

『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。』

一方で、

『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』

 これは、単なる命令であります。そして、成就したとは書かれていません。 つまり、現在の我々から見ても、まだ将来のことだと考えて良さそうです。それが、いつ成就するのかと言うと、イエス様の再臨の時なのだと思います。つまり、創世記の世界では、天と地は出来ましたが、神様が目指す世界はまだ完成していないということです。その証拠に、神様のこの感想です。

『1:4 神は光を見て、良しとされた。』

『1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。』

このように、6日目までの仕事を、神様は良しとています。つまり、神様は予定通りに天地創造を完璧に終えたのであります。だから、神様に似せて造った人間が不完全なのも、予定通りだったと思われます。


 次にイエス様です。イエス・キリストというギリシャ語の名前は、人の名前であるイエスと、救い主の役割を担うキリストを組み合わせたものです。ですから「救い主のイエス」を指します。そして、もう一つ。イエスという名前は、ヘブライ語ではヨシュヤといって、もともとよくある名前です。その意味は「ヤハウェ 助けたもう」です。(ヤハウェは神様の名前)ですから、受胎告知のときを思い出してください。天使は、こう告げたのです。

マタイ『1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」』

 この天使の言葉は、イエス様が救い主としてこの世に降ってきた証拠であります。そしてその名を「ヤハウェ 助けたもう」と、ふさわしい名前を与えたのでした。イエス様は神の子であるにもかかわらず、父なる神様は、罪にある人々を救うためにこの独り子をこの世に降したのです。そして、神の子であるイエス様は神様でもあるわけです。これも不思議の一つです。三位一体を説明するのはなかなか難しいです。新約聖書が書かれた時期にはまだ三位一体は確立していませんでした。少なくとも、イエス様もパウロも三位一体を教えてはいません。その後の学者たちや教会が、研究してまとめたニカイヤ信条(AD325)で採択されるまで、300年近く時間がかかります。ある意味、神の国の秘密の一つがようやく、300年たって解き明かされたのだと思います。実際、イエス様が神様であるとのメッセージを、聖書から読み取ってみましょう。

イザヤ『43:11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。

』 ここでの「主」は、原文では、ヤハウェ。神様の名前です。キリスト(救い主)は、神様に他ならないとの神様の言葉です。一方、新約聖書からは、

ヨハネ『1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』

 天地創造の時から、イエス様は神様と共にいましたし、イエス様はもともと神様であったわけです。イエス様は、地上に降ってきて、人々を教え、そしてしるし(奇跡を起こすこと)を示しました。また、神様のご計画によって、イエス様は人々を罪から救うために、いけにえとなったのです。イエス様の十字架の出来事によって、私たちの罪は贖われました。また、十字架の出来事は、神様の計画でした。その後3日目に、イエス様は復活します。イエス様は復活後、この地上に40日間いて、その後天に昇ります。今、イエス様は天にいて、次の計画を進めているのです。それは多くの聖書の記事から、読み取れますが、代表して1つだけ見てみましょう。

 マタイ『26:63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」26:64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」』

 この箇所に、明確にイエス様の再臨が示されています。イエス様の十字架と復活は、神様の計画の一部でしかないのです。十字架が、復活のために必要だったように、復活は、再臨のために必要なのです。


 さて、イエス様が復活した事で、二つの成果があったと思われます。まず、イエス様の復活によって、イエス様を信じる者に希望を届けたことです。そして、神様は何でもできる。そのしるしが示されたのです。それは、全能の神のしるしであります。神様は、天地創造の時に、失敗して欠陥のある人間を創ってしまったのではないのです。神様は、全能の神です。そもそも、現時点で人間が不完全なのは、予定どおりだと考えてください。人間が完全になるには、時間が必要なのです。神様に似た人間を創る。そのためには、人間が神様への罪を悔い改め、そしてイエス様への信仰を表し、聖霊によってバプテスマを受けなければなりません。それは救いまでのことであります。その次があるのです。神様に似たものとなることが目標です。罪深い私たちにそのようなことをする力はありません。だから、イエス様が再び来られる日まで、信仰を守って、イエス様のようになる必要があります。それには、祈りが必要です。復活したイエス様は、その祈りに答えて、聖霊を降しているのです。

そのイエス様への信仰は、神様に似た者となるために、必要です。神学者のカール・バルトは、信仰について3つの事を言っております。(教義学要綱)

・信仰とは信頼すること

・信仰とは認識すること

・信仰とは告白すること

 信頼するとは、イエス様の内に共にいることであります。私たちが、神様に近づいて共にいようとしたのではなく、イエス様の愛によって私たちは導かれたのであります。そのイエス様の導きに身を委ねることで、イエス様の内にあるのです。認識するとは、父・御子・御霊を認識することです。人間の能力である五感では、それは感じることが出来ません。しかし、父・御子・御霊の神様が、私たちに感じさせ、認識させようとしたとき、私たちは初めて認識できるのです。だから、神様のことを知ろうとの努力に加え、聖霊からの働きかけが大事なのです。また、告白する事とは、そこに教会が生まれることを指します。信仰告白は、言葉でだけではない魂の戦いであります。しかも、ただ戦うならば相手を打ち倒せばよいのですが、そうではありません。相手に対してイエス様のように、愛をもって向き合うのです。それは、もはや私たちの業ではありません。イエス様の愛は、私たちは持たないからです。イエス様がいて、私たちを導くからこそ、私たちは信仰を告白する機会が与えられるのです。

ですから、イエス様を信仰するとは、イエス様に委ねることであります。その前段には、神様が私たちを導こうとした事実があります。そして、イエス様への信仰を告白して、クリスチャンになりました。クリスチャンになった今も、イエス様に委ねて信仰生活を歩んでいます。その歩みの中にイエス様は、信仰告白の場を用意しているのです。イエス様は、私たちがイエス様のように福音伝道に加わることを期待しているからです。もちろん、私たちにはそのような能力が備わっているわけではありません。しかし、不完全な者が完全な者になることを、創造主なる神様は計画され、そして今その理想の世界へと立ち上げているさ中なのであります。その立ち上げるのは、神様だけでしょうか?実は、その働きの多くが私たちに任されていると思います。

 私たちは、イエス様の復活を信じます。死んだ人が復活するとは、大きな奇跡であります。普通は、考えられないことが起きたのです。神様は何でもできる。そして、イエス様の十字架の犠牲によって、私たちの罪は贖われた。また、永遠の命を約束された。感謝です。・・・と、私たちの信仰は、そこで立ち止まってしまっていないでしょうか? 以前もお話しましたが、その信仰は「救い」であって、「福音」(good news)の一部でしかないのです。私たちに求められているのは、イエス様のようになって、終わりの日を迎えることです。そして、終わりの日までに、すべての人がイエス様を信じるために、私たちには、信仰を告白し続けることが求められています。それが、福音なのであります。旧約聖書、新約聖書を通じて神様が私たちを導いています。そしてイエス様の生きざまは、人々を愛し、そして私たちの罪のためにご自身を犠牲にするものでした。しかし、ただ犠牲になって私たちを救うだけが目的ではありません。救われた私たちは、イエス様の事を証ししながら、世界中の人に福音を宣べ伝えることが求められています。イエス様が再臨するときを考えてください。今、イエス様が来られても多くの人が、裁きを受けることになります。だから、私たちは、私たちの救いのために十字架にかかって、死に、墓に葬られて、3日目に復活したイエス様を信じていることを証しし続けるのです。イエス様がすべての人を救おうとしたように、私たちも微力ではありますが、働いてまいりましょう。