ヤコブ5:13-16

 互いのために祈りなさい

2023年 2月 26日 主日礼拝

互いのために祈りなさい

聖書 ヤコブの手紙 5:13-16           

受難節になりました。今日はヤコブの手紙からお話をします。新約聖書の登場人物としてのヤコブさんは、3人います。ゼベダイの子ヤコブとアルファイの子ヤコブの二人は、イエス様の弟子です。そして、主の兄弟ヤコブは、イエス様の弟になります。この3人のだれかがこの手紙を書いたことになりますが、ゼべダイの子ヤコブは、殉教が紀元40年代と早いので、この手紙が書かれる前に、亡くなっていると思われます。また、アルファイの子ヤコブについては、ほとんど何の記録も残っていないのです。そうすると、主の兄弟ヤコブと言うことになりますが、他のヤコブさんなのかもしれないですね。ただ、言えることはパウロの教えた内容をしっかり把握している人であることは確かです。ですから、パウロの晩年と強くかかわった人であるはずですし、紀元60年代以降に書かれた記事であると言うことも推測できます。


 このヤコブの手紙の第5章の13節にこういう言葉があります。

『5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。』 

 ヤコブは指導者ですから、神様から委ねられている教会のメンバーを良く知っていました。「この人はまだ苦しみから抜け出せないでいる。この人は喜びを与えられた」等と、一人一人の信徒を思い浮かべながら、苦しみの中にいてもみ言葉が届くように、また賛美へと導かれるように祈ったと思います。 

 この祈りのことで、私たちの周りでも確かめたいことがあります。 苦しんでいる人って誰だろうか?。  喜んでいる人って誰だろうか?。 周りを見回して、あの人この人と 心に留めます。しかし、特別な苦しみの中にいるかどうか? 特別な喜びの中にあるかどうかは、良くは分かりません。見た目ではっきり表れない限り、他人の心の中にある苦しみや喜びは伺い知れないのです。また、逆に、どんな特別な苦しみや特別な喜びであっても、この地上での喜びは、永遠のものではありません。時と共に、移り変わるのです。ところで一体、ヤコブは、どんな人に向かって「苦しんでいる人」「喜んでいる人」と呼びかけているのでしょうか?「苦しんでいる人」と訳されている元の言葉を調べてみます。すると、もともと自分自身の課題のために、苦しんでいる人を指してはいないのです。

元のギリシア語(κακοπαθέω:カコパセオー)は、「悪に苦しむ」とか、「悪に耐える」と言う意味であります。喜んでいる人についても調べてみると、元の言葉(εὐθυμέω:ユーソメオー)の意味は、「元気を出そう」です。ですから、喜んでいる人のことではなくて、今苦しみに耐えている人を励ますために、「元気になろう」との呼びかけだったと言えます。ですから、この箇所は、「迫害に苦しんでいても、祈って、そして元気を出して詩篇を賛美しよう」。という励ましだと思われます。今、苦しんでいることを祈りによって、イエス様に取り除いていただく。そして、元気が出るように詩篇を歌って、励ましあおうとヤコブは呼びかけたのであります。このように13節を読みますと、イエス様のこの言葉のことだと理解できます。


マタイ『5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。』


 このように、イエス様のために苦しんでいる者を元気づけてくださいます。だから、「すべての苦しみは、イエス様のみ業のためにある」と受け止めるならば、私たちの苦しみも幸いとなりうるのです。その苦しみに対する報いとして、イエス様のみ業の成就が約束されているからです。ですから、迫害の中にあっても、神様を賛美して、元気を取り戻すようヤコブは元気づけるのです。

  

『5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。』

 プロテスタント教会では行いませんが、カトリックには体に油を塗る、塗る油と書いて「塗油」という礼典(正しくは秘跡)があります。死者を送るときに行う儀式ですが、もとは癒しを象徴する油注ぎでした。イエス様の時代では、礼拝の中ではなくても、日ごろ油注ぎは行われていました。例えば、来客の顔にオリーブオイルを塗ることです。当時は接客として、足にもオリーブオイルを塗って、肌を滑らかにし、敬意を表す習慣もありました。この油注ぎの習慣は、お客様を癒す目的で行われたものです。今は、すたれてしまいましたが、当時は教会で病人に油を塗って、癒しを祈っていたのです。

 塗油は、教会の長老にしか許されていなかったと思われます。その長老を招いて、塗油と祈りをお願いするように、ヤコブは指示しています。私たちが普通に考えるならば、家族や友人が手配して良いはずなのですが、ヤコブは、病人本人が長老を招くようにと教えます。それは、病人本人の意思で行われることが、必要だからです。なぜならば、油を塗る事自体に癒しの力があるのではなく、本人の信仰と長老のとりなしの祈りによって、イエス様の癒しの力、そして「救いと赦し」がもたらされるからです。


『5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。』


 ここにも「病人は、信仰に基づく祈りによってこそ、癒される」とのヤコブの信仰を感じます。病気の時に効果的なのは、冷静な祈りや格式高い祈りではありません。神様にすがるように祈る、信仰から来る祈りであってほしいです。そして、祈りは、病気の時にでもできる、私たちにとって素晴らしい神様とのコミュニケーションです。罪の赦しを祈る。自分自身の罪のために、そして他人(ひと)の罪を赦して頂くように神様に祈るならば、必ず赦されます。そして、神様の前に罪を告白し、赦しを願う祈りは形式にとらわれなくてよいのです。例えば、カトリックには、懺悔があります。罪を司祭に告白して、司祭が赦しを宣言するわけです。ここで、罪が赦されるのは、懺悔と言う儀式によるのではなく、信仰による祈りによるものです。ですから、神様に赦しを願う祈りのためには、形にこだわる必要はありません。いつでも、どこでもよいのです。その代わりに心から神様に捧げる祈りでが必要です。もちろん懺悔などの告白によって、兄弟姉妹がお互いに自分の過ちを認めあうことも、良好な人間関係に貢献します。それは、人と人との和解をもたらすからです。そしてそこに、信仰による祈りがあってこそ、私たちはイエス様によって義とされるのです。神様との和解が出来るのです。イエス様の名によって、救い主キリストの贖いを神様に熱心に祈るならば、 病人は救われ、寝たきりの人であれば立ち上がるようになるのです。また、犯した罪は、赦されるのです。結果として、祈りが聞かれる時が来ますが、それは祈った人の手柄ではありません。祈りの言葉で、私たちが癒され、罪が赦されるわけではないからです。癒しは、神様が与えてくれた恵みでありますから、神様に目を向けましょう。癒してくださるのは神様。そして、罪を赦してくださるのも神様です。ですから、祈りの言葉が神様に伝わるように熱心に祈り、そして神様が恵みを下さる事を信じて、祈ることが必要です。

 ところで、罪とは、「神様に背くこと」を指します。神様を知らないがために、神様に従うことが出来なくても、それは罪であります。また、神様を知っていても、人は罪を犯します。偉大な伝道者であったパウロはローマの信徒への手紙の中で、人間はすべて「罪人」であると、断言しました。「罪人」ですから人間は皆、神様の命令である「律法」を守ることができません。しかし、ただイエス様を信じる信仰によってのみ、罪から解放され、「命をもたらす霊」を受けて歩むことができると、パウロは説いています。(ロマ 3:5-20)

 つまり、イエス様を信じる信仰によってのみ、私たちは罪から解放された正しい人とされ、義とされるのです。ですから、私たちが義とされるためには、私たちの罪を振り返って、神様の赦しを頂けるように、イエス様を通して祈る必要があります。


『5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。』


 この16節を読むと、いよいよこれは、「人の罪」が病の元であるかのようなヤコブの思いを感じます。その思いについては、この時代の常識だと言うことでしょう。それでも、この思いは間違っているとは言えません。なぜならば、罪の告白と罪の赦しで心に平安がやってきて、病が癒されることもあるからです。現代では、高度に発達した医学が「神様の癒し」や「病人のための祈り」よりも認められているように見えます。たしかに、医学の進歩も、神様が人間に与えてくださった賜物のひとつです。しかしその一方で、最先端の医学でもすべての病を治すことはできません。私たち人間には出来ることが限られているのです。ところが、神様には、その限界はありません。その限界の無い神様は、「人の罪を赦すこと」も出来る方であります。また、「罪が赦されていること」は、私たちに生きる喜びを与えてくださいます。 

 先ほど懺悔のことを話しましたが、カトリックなどで行われている懺悔は、司祭への罪の告白と司祭が宣言する「罪の赦し」のことを指すそうです。ところがヤコブはこの手紙で、「指導者に罪を告白しなさい」と懺悔するようにとは言っていません。指導者にではなく、「罪が赦されるように互いに祈る」ように指導しています。

 さて、ヤコブの教える、この教会員同士が互いに罪を告白しあい、祈りあうということは、大変手間のかかります。例えば、50人いる教会であれば、一人が代表して告白を聞けば、49回で済みますが、互いに告白しあうと1000回以上(49回/人×50人÷2で、1225回)もの告白と祈りが必要になります。現実的に考えると、ヤコブは、10人未満といった少人数のグループで祈ることを想定していると思われます。ちょうどこのくらいの人数までならば、時間さえかければ可能なことだと思われます。そして、イエス様を通しての信頼関係があることが、告白し祈りあうためには必要です。

 私たちは、クリスチャン同士であっても、自分の弱さを語ることの躊躇するものです。今、こういった悩みがある、こういった苦しみがある、しかし重たいことほど祈ってほしいと言いにくいのです。また、いつもクリスチャンとしてきちんとしていなければいけない、いつも模範的でなければいけない、との思いがあれば、「模範的でない自分を告白」することが心配になります。けれども、教会はそういうところでは無いのです。自分の弱さを告白し合い、互いのために祈り合い、その結果、神様からの癒しを頂く場所なのです。肉体的な病でも同じように、私たちは教会で祈ってもらい、そして神様の癒しを受けます。いずれにしても、互いに分かち合い、互いに祈り合い、神様の癒しを受ける場なのです。それだけ、義とされた人の祈りには大きな力があるのです。

 この「義とされた人」とは、特別な人という意味ではありません。イエス様を信じて神様に義とされた人、イエス・キリストという義しい方にしっかりと拠り頼んで、すべてを委ねている人、という意味です。自分自身に頼らず、イエス・キリストのみを 自分の頼みとして、生きる人のことなのです。私たちは、すでにイエス様に導かれています。互いに祈り合って、そしてイエス様に信頼して、歩んでまいりましょう。