ローマ12:1-21

徒の規範

  

1.キリストにおける新しい生活

 クリスチャンになったのは、賢いからではありません。神様の計画によって、神様とともに、神様の栄光のために歩む者となっただけなのです。このように、神様から憐れみをすでに頂いているのです。「ですから、神様に喜ばれるように、自分の体を生贄として献げなさい。」とパウロは勧めます。もちろん、「生涯を神様の働きのために献げなさい」とのお勧めですが、そのためには、自己中心的なこの世の人々と同じことをしていてはいけません。献身するならば、私の心に聞くのではなく、神様に聞かなければならないからです。そういう意味で、私の心は、神様に取り換えてもらうことが必要です。そうすれば、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」が、わかるようになるでしょう。

 パウロは「自分を過大に評価してはなりません。」と言いました。やはり、人間は傲慢ですから、自分の事を高く評価して、ほかの人を評価しません。すべてが自分の都合の良いように解釈してしまいます。そして、だれでも、自分が優秀なので、この群れが維持出来ていると思ってしまいます。神様は、いろんな特性を一人一人に与えています。信仰もそうです。信仰こそが、最も重要な神様からの賜物です。その信仰の深さで評価するようにとパウロは言います。もちろん、信仰の深さを比較するのは、至難の業ですから、慎重でなければなりません。そして、他人の信仰を「浅い」などと評価することは、とても傲慢なことだと思います。

 パウロは、教会全体を体に譬えました。体には色々な部分があります。その部分に信徒一人一人があたります。教会全体は、それぞれの部位を支える人々がそれぞれ異なる特性と異なる役割を持っています。つまり、異なる特性と、異なる役割を比較して「こちらが重要な部分だ」と思うこと自体がナンセンスなのです。どの部位も必要であり、一部が無いだけで教会全体がうまく回らなくなるのです。だから、各人が神様から頂いた賜物に従って、「預言の賜物を受けていれば、預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。」とパウロは教えました。また、教える人、勧める人、施しをする人、指導する人、慈善を行う人、それぞれ、賜物を頂いている者が担当します。だから、他の人の働きと自分の働きを比較する意味はありません。それより、自分の働きに専念し、精を出し、惜しまず、熱心に、そして快く行いたいです。


2.キリスト教的生活規範

2.アガペー(αγάπη):神の⼈間に対する愛(12:9,12:19) フィリア (φιλíα )  :友愛(12:10)  

(他:ストルゲー⇒家族愛、エロース⇒男女の愛)   フィリアストルゴス(フィリア+ストルゲー12:10の動詞)

  神様の人間に対する愛には、偽りはありません。だから、私たちが神様の愛を実践しようとしたなら、その行いは完全に善である必要があります。ですから、肉の思いなどの入り込まないように、徹底して悪を排除するのです。具体的には、信徒同士 互に友達として愛し、尊敬をもって優れた者と思う。この「愛し」はフィリアストルゴス。パウロは、ここでアガペーを使いませんでした。アガペーは神様の愛だからです。

 パウロは、ここでキリスト教的な生活規範を列挙します。「神様の愛」を実践する事と、「このような規範」を守ることは、両立するのでしょうか? 得てして規範は形骸化して、その時々で都合よく解釈されます。規範はあくまで手段です。目的は「神様の愛を実践する事」であります。ですから、規範を守るために「神様の愛」を実践できないとか、これは「神様の愛」の実践だから、規範は守らなくて良いとはなりません。規範は、「神様の愛」を実践するために、私たちを育てる役割を持つことを忘れてはいけません。

 パウロは、出来るだけ平和を保つように教えます。誰かが、悪を行ってあなたが被害を被ったとしても、直接復讐しては、つぎには、やり返されて、そしてその報復と、いつまでも平和がやってこなくなります。パウロは、聖書2か所から「自分で復讐せずに、報復は神様に任せなさい」と教えます。

レビ『19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。』

申命記『32:35 わたしが報復し、報いをする/彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る。』

 また、善をもって悪に勝ちなさいとパウロは教えますが、ここで、「炭火を彼の頭に積む」と言うところが、何を言っているのか解りません。調べてみると、古代エジプトにあった習慣に基づいて書かれた表現のようです。「何か罪を犯した人が、その罪を悔いるとき、(あるいはその赦しを受けたとき)その改心、悔い改めの気持ちを表すために、燃えた石炭を入れた鉢を頭に乗せた」のだそうです。そのもととなる言葉も聖書からの引用です。

箴言『25:21 あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。25:22 こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。』

 あなたを憎んでいる人がいたら、その人に関わりたくないのが普通の心境です。どうかすると、飢えているところを見て「罰が降った」と喜ぶかもしれません。しかし、もしそのように罵ったならば平和は来ません。逆に、その人が飢えていたらパンを与え、渇いているなら水を飲ませたら、「私があなたを憎んでいたのに、なぜ良くしてくれるのですか?」と聞きたくなるでしょう。そして、その人があなたを憎んだのは愛がそこにないから。憎まれても良くしてくれる愛。この神様の愛にであうと、その人は変えられるのです。