イザヤ書53:1-8

受難と救い

 参考:◆主の僕の苦難と死

52:13 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。52:15 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。


53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 

     第四の「主のしもべの歌」(52:13~53:12) 歌い手は52章13~15節は「主」、

                             53章1~12節は「預言者イザヤ」。

1.苦難の僕とは?その1

 イザヤ書53章は、神様に仕える者が苦難を受ける内容が連綿と記されているため、「苦難の僕(の詩)」とも呼ばれています。第二イザヤには、正しい信仰者が苦難を受ける意味の預言がこの他にも多々収められています。このため、この箇所は、「捕囚期にイスラエル全体が苦しみを受けた出来事」であるか、「第二イザヤ自身が人々から排斥された経験」を背景に、捕囚後の時期に記されたと考えられています。

 古代のユダヤ教において、人間の苦しみや悩みは、神様がその人を裁いたのだと理解されていました。しかし、イスラエルが国家として歩み始めたころには、正しい者が苦難を受けることを、「裁き」として理解することが難しくなりました。このため、ヨブ記には、「義人ヨブが理由のない苦しみを受ける」ことの原因を求めるのではなく、苦難や悩みに直面している時にも、神に信頼して歩むことの大切さが強調されました。

 神様に仕える者が苦難を受けることについて。イスラエルの人々が経験した最も大きな苦難は、国全体が南北に分かれた後に北王国もユダ王国も滅び、多くの人々が捕虜とされたバビロン捕囚でした。捕虜としてこの時代を歩んでいた人々は、自分たちの苦しみを、「神の裁き」としてだけ理解することは耐え難かったことでしょう。

 このテーマは、イザヤ書全体に示されています。なぜならイザヤ書には、神様の裁きから慰め、そして救いへと導く御言葉が収められているからです。このイザヤの預言を受け入れた人々は、苦しみから希望に至る道へと導かれたのです。私たちはこのテーマをおぼえて、苦難や悩みに直面する中でも、神様への信頼を保ち続けることに心を留めたいと思います。

2.苦難の僕とは?その2

 この章に記されている「苦難から救いへ」という内容は、詩編30編「一例30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」や54編「一例54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように」に通じると考えられます。これらの詩編は、捕囚から解放された後に再建されたエルサレムの(第二)神殿で歌われたため、苦難の中で神様の救いへの希望を持って歩むことは、当時の一般人も知っていたと考えられます。

 また、ローマ帝国の支配が強くなった紀元前2~1世紀に、ユダヤ教では、苦難の僕の姿が政治的な救い主への待望と結びつきました。ローマに対する、民族解放運動のリーダーが殉教した際、そのリーダーのことを指し示す言葉として「苦難の僕」が理解されることもありました。

 このような理解とは異なり、「エッセネ派」と呼ばれる、集団生活で信仰を守っていたユダヤ教のグループでは、この章を、「救い主が苦しみを受ける預言」として理解していたと伝えられています。例えば、クムラン遺跡では、修道院のような生活が営まれていたため、現実から離れた救い主の理解が育まれたと考えられています。

 以上の歴史的な背景があるため、捕囚から解放されてから紀元前後までのユダヤ教において、53章の預言の理解については、大きな幅があったと考えられています。

 イエス様はこのような状況の中で、地上に遣わされ、苦難の道を歩みました。そして、十字架で死んで葬られ、復活しました。こうして、イエス様は死を克服したため、初代教会の人々は、53章の預言が、救い主イエスによって成就したと理解するようになったのです。この理解は、二千年に渡って受け継がれています。

 私たちはこの意味を心に刻み、神様の御子であるイエス様が十字架にかかって死んで、復活したことによって、最大の苦しみである死に勝利されたと信じます。神様の御業を心から信じ、受け入れるものであります。