コリントの信徒への手紙一11:1-16

女のかぶり物



1.パウロに倣う

 『11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。』

 これは、10章までに書かれている、パウロの選んだ行動についての言葉です。11章では色々と指示を出していますが、そのベースになる考えであります。パウロは、自分の思いや価値観を脇に置き、神様の愛を伝えるためにはどんなことでもしました。それが、神様の愛を実践することにつながるからです。その愛の実践が世界中に広がるためには、パウロの働きだけでは不十分です。それでパウロは、「あなたがたも私に倣う者でありなさい」と教えるわけです。

2.女のかぶり物

 当時はユダヤ人もギリシア人も、女性はかぶり物をする慣習があったようです。ところが、このころのコリントの教会では、礼拝の時にかぶりものをしない女性が増えていたと言うことです。どこで、そのようなことが決められたかと、律法を調べてもそのような記載はありません。そして、律法から派生した解釈でもありません。とは言っても、私たちは女性がかぶり物をするような社会で生きていないので、その意味するところから、始めましょう。

 まず、かぶり物をするのは、服従を宣言するとの意思表示だということです。ユダヤ人は、まず頭にベールをかぶらなければ祈らない習慣でありました。それは、このかぶり物によって、神様の前で敬虔になり、恥じ、顔を開いて神様を見るにふさわしくない者となるためです。ユダヤ人のかぶり物はタリスと呼ばれていました。一方で、異教徒もまた、ローマ人とギリシア人の両方において、頭を覆って神聖な事柄に仕えるのが常であったようです。つまり、かぶり物をして祈ることは、男女とも普通のことだとわかります。そして、かぶり物をしないことは、コリントにおいて権威の象徴であったと思われます。コリントの信徒に関しては、ユダヤ人や異教徒が用いる習慣(や姿勢)を避けるために、頭を覆い隠さずに神聖な事柄に仕えることを要求しました。また、女性に対する男性の尊厳と優越性を示すため、女性は頭を覆い隠さなければならない。このように、男性が教会のかしらであるキリストを代表していて、頭を覆い隠さず、女性は、その男性への服従のしるしとして頭を覆う。それが、パウロの教える教義であるわけですから、かぶり物をする男性がけしからんと言うことになっています。また、かぶり物をしない男性が普通にいるわけですから、女性もそれを見習ったのだと思われます。パウロは、そのように秩序が乱れないよう、整理していきます。

3.頭は男?

 パウロがここで求めているのは、キリストの体が秩序を持って機能していくことだと思われます。パウロが守ろうとする秩序の中でも、特に大切なものが「男性が女性のかしら」とされているということです。

『11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。』

 現代では、男女平等の社会なので、疑問視されやすい箇所です。しかし、言っていることは、上下関係や、優劣ではありません。 コリントの女性は、キリストにおける男女の区別の廃止を理由に、男性との平等を主張し、礼儀の限界を超えて、女性の慣習である頭を覆うことなく、祈りと説教をするために進み出ました。福音書は、疑いなく、女性の地位向上を助けました。恵みを捧げ、恵みの中に立っているという点では男性と同じレベルにありながらも、秩序、謙遜、見栄えの点でのみ男性への服従は維持されるべきとのパウロの考えです。パウロはここで、彼女らの服装の見苦しさや、公の場での慎みのなさを指摘します。彼はここで、創造の時からの秩序を守ることを求めたのです。そもそも、長い髪で頭を覆われている女性が、ベールをするのが恥ずかしいということはないはずです。

 必要なことは、私たちが男女を問わず、常に、神様に対して従順であるということです。コリントへの手紙の中に記された「かぶり物」についての議論は、私たちが秩序を守って神さまに従うことの大切さを再確認させてくれるものに他なりません。現代の日本にいる私たちの間で、「かぶり物」を被るか被らないかは、それぞれが判断すればよいのですが、その姿ではなくて、本当に大切なのはその神様への従順であります。

4.神様の造った秩序

 キリスト教が定めた大まかな原則は、「男も女もないが、あなたがたはみなキリスト・イエスにあって一つである」という人間の平等でした。私たちは皆、平等の教えがいつの時代も騒動の原因となってきたことを知っていますが、コリントでは、この教義が多くの混乱をもたらす恐れがありました。男性がすべきこと、つまり説教と祈りを女性が行う権利が主張されます。公の場でベールを脱いで、男性の役割を担う者が現れることをパウロは禁止します。(パウロが問題にしているのは、神様に服従する姿勢のことです)

 その理由は、確立された礼儀作法の規則に対する反抗であるからです。ベールに包まれた頭は、謙遜の象徴です。ベールを脱いで祈ることは、ユダヤ人と異邦人の慣習的な感情をすべて侮辱することだったからです。そして、普通の礼儀作法の限界を超えることは、精神的な攻撃なのであります。

 また、神様の創造した従属の関係は、宇宙全体の広大なシステムなのであります。それぞれの性は一定の秩序で存在し、一方が他方よりも優れているのではなく、神様が意図したものです。

 それぞれの国、性別、個人を、それぞれの性質に従って発展させるならば、男性をより男らしく、女性をより女性らしくします。しかし、ここでも例外があることを忘れてはいけません。道徳、礼儀正しさ、品位の問題で、私たちの個人的な判断が人々の一般的な経験、習慣、信念と矛盾していることに気づいたとき、「私たちが間違っている」として改めるようにパウロは命令しているのです。