異邦人の庭:神殿の外庭で誰でも入れる
婦人の庭:ユダヤ人のみ
イスラエル人の庭:ユダヤ男性のみ
聖所:祭司のみ
至聖所:大祭司のみ
1.今や近い者に
パウロは、エフェソの人々に向かって、かつてキリストを知らなかった時、神の民に属さず、歴史の支配者である神の約束とも関係なく、この世での希望を持たず、神の慰めや平安、約束、希望などと遠く離れて生きていた「異邦人」であったと言います。ここでいう「異邦人」とは、ユダヤ人以外の人を指し、「割礼のない者」「律法を持たない者」とも呼ばれ、ユダヤ人からは救いの対象とは見られていませんでした。この背景には、ユダヤ人の選民意識と特権意識があります。「ユダヤ人は神から選ばれた民」との意識です。それが彼らに自分たち以外の民族を異邦人として、差別、偏見を生み出しました。それは、民族間だけでなく、ユダヤ人同士の中にも「隔ての壁」を作りました。それは、神殿の作りからも見て取れます。
その壁を打ち破ったのがイエス・キリストでした。それは「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(13節)、「肉において」(14節)、「十字架」(16節)のことです。
そのように神様から遠かった異邦人(私たち)が、今や、キリストの十字架の出来事によって、神様に近い者、神様を知り、神様と共にある者、キリストによって生きる者、希望を持って生きる者とされたと、言うのです。この十字架の出来事、救いの恵みに、すべての人々を神様は招いています。
2.すべては一つに
『2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。』
「一つ」とは、和解の意味です。「二つのもの」とは、ここではユダヤ人と異邦人との二つのグループをさしています。「二つのものを一つにし」、そこにこのイエス様の言葉を思い出させます。
ヨハネ『10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。』
次に「隔ての壁」ですが、異邦人をユダヤ人から隔離し、差別していたエルサレムの神殿の壁のことです。当然、その壁は2つに分けることの象徴でした。異邦人を締め出す壁、女性を締め出す壁、そしてユダヤ人男性しかニカルノ門をくぐることはできません。そのように、そこが神殿ではない教会であっても、心の壁があって、異邦人とは一つにならなかったのです。
さらに、パウロは、人々の和解と平和と一致について、キリストによって新たに造られた教会を通して具体的に語ります。キリストによって新たに造られた教会。その教会での人々の和解と平和と一致という交わりを、外国人、寄留者、聖なる民に属する者、神様の家族の区別がないことをたとえで語っています。家族や国籍を示す言葉を使って、民族主義や血縁的なものを乗り越えることをも含めて、「キリストの血」によって乗り越えることが強調されています。そのキリストの血によって、新たに造られる共同体を「神の家族」というわけです。
また、体にたとえられる教会は、聖なる神殿にたとえられています。当時の建築方法では、「隅のかしら石」(原語的には「角石」)を置き、次にへりに石を組んで、そのへりの中に土台を作りました。土台ができてから、上に石とか木で建物に組み上げていくわけです。当然ながら、土台が動いたり、崩れたりしたら建物は損傷してしまいますから、土台は大事です。特にへり、そしてその角がしっかりしていて、かつ丈夫でなければなりませんから、良い石が使われるのです。(なお「かなめ石」(20節)とは、訳者の意訳であり、世界中の聖書でそんな訳は使われていません。英語でcornerstoneギリシャ語の「角」ἀκρογωνιαῖος)
つまり、教会の基礎としてのキリストの上に、わたしたちは教会を建設するわけです。そして、パウロはその土台の上で成長する教会を表現しています。もちろん、建物を大きくしようとか、上に伸ばそうとするならば、普通は土台をやり直します。これはたとえの限界であるから仕方がありません。土台がキリストでしっかりしているから、上にどんどん建て増ししても大丈夫だと読み取っていきましょう。
私たちは、神様との和解を受け、キリストによって一つとされた神様の家族です。すべての人々は神様の家族となれるように壁は取り払われており、分け隔てはありません。神様の家族の教会に、すべての人々をイエス様は招かれています。この神様の家族である教会につながることで、「キリストは私たちの平和である」ことを宣べ伝えたいと願うものです。