2025年 3月 2日 主日礼拝
『痛みの先に』
聖書 ヨハネによる福音書 9:13-41
今日は、ヨハネの福音書からイエス様の福音をお伝えします。今日の物語は、生まれつきの盲人の癒しとして、知られています。こここでは、生まれつきの盲人がイエス様に出会って、光を得て見えるようになったことと、ファリサイ派の人々のことが対比されています。イエス様は、生まれつきの盲人の目が、見えなかったのを見えるようにしました。そして彼は、イエス様に癒されたことで、信仰という光を頂いたのです。
一方で、ファリサイ派の人々は、神様のことがわかっているようで、実は何も見えていない。イエス様はそのように指摘したのです。ファリサイ派の人々は、知恵と知識を持ちながら、罪を犯していました。それも、自覚なしにです。彼らは、自分の目は「見えている」と思っているので、その罪に気が付くことがありません。そのようにイエス様は宣言しました。「光であるイエス様を受け入れない人は、霊的には目が見えていない」ということです。そして私たちは、「世の光であるイエス様に聞き従った盲人のようになるように」と イエス様から招かれているのです。
さて、生まれつきの盲人に焦点を当ててみましょう。彼は、どのように世間から見られていたか、を表している箇所があります。
ヨハネ『9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」』
目が見えないだけでも不自由なのに、こんなことまで言われていては、いたたまれないですね。本人も両親も悪いことをしたわけではないのに、目が見えない。目が見えないこと自体は、肉体的な痛みです。そしてこんな「誹謗中傷」を受けている。これは、精神的な痛みです。だれしも痛みはあるものですが、この盲人は、生まれた時から壮絶な痛みのなかにいたのです。もし、そのような痛みが自分や自分に親しい人に振りかかったならば、とても悲しくて、受け入れられません。誰しも、自分の身への災いに切なくて、「どうして?」と神様に聞きたくなると思います。
弟子たちは、生まれつきの盲人を見て、「罪を犯したからですか?」とイエス様に聞きました。当時は、そう考えるのが普通だったのです。「人が負う痛み、苦しみは、その本人または両親、および先祖が過去に犯した罪に対する罰だ」と決めつけるのです。この考えは、不幸を背負っている人をさらに不幸にします。そんなおかしな事は無いと、イエス様は、その言葉を否定します。
ヨハネ『9:3 ~本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』
イエス様は、因果応報的な考えを否定したうえで、「神の業がこの人に現れるためである」と説明しました。元々の弟子たちの質問は、こんな罰を受けるほどの罪とはどんなものなのか?でした。しかし、イエス様は、原因は罪にあるのではないと答えたうえで、「今の彼の痛みが何のためにあるのか」について答えます。そもそも、取り返す事が出来ない過去に原因を求めても、過去を変えることはできません。一方で、何のためにこの今の痛みがあるのか? を理解して、受け入れられたなら、将来に向けての生きる元気が出てくるのだと、私は思います。イエス様は、神様の業がこの生まれつきの盲人に現れるために・・・と これからの盲人の生き甲斐を答えたのです。
イエス様のこの言葉は、将来に対して希望を与えるものです。「神の業」とは、神様に祝福されることです。イエス様は、あなたが悪いことをしたからとか、両親が悪いことをしたから、ではないと言いました。「神様が、罰を与えた」のではないからです。罰などではなくて、今の痛みは、今から受ける神様の祝福のためにあるのです。そして、この盲人に与えられる祝福は、イエス様への信仰、そして永遠のいのちです。
ところで、この盲人は生まれてから一度も光を見たことがなく、闇の世界しか知りませんでした。イエス様という光と出会うことがなく、霊的にも目が見えないままで生きてきたのです。イエス様は、この盲人の肉体的な目を癒しただけではなく、霊的にも彼の目を癒します。私たちも同じです。イエス様と出会うまで、霊的に目が見えていませんでした。
盲人は目が見えるようになってから、イエス様に会う機会がありませんでした。再会できたのは、彼が会堂から追放されたからです。もともとファリサイ派の人々は、イエス様の人気を羨ましく思って、イエス様を排除したがっていました。そこで彼らは、イエス様をメシアだと言う人がいたら、会堂から追い出すと申し合わせをしていたのです。そこに、盲人だった彼が、「あの方が神のもとから来られた」と言ったのです。すると、ファリサイ派の人々は、ためらいもなく彼を会堂から追い出します。イエス様は、彼が会堂を追い出されたことを知って、探します。その元盲人が、信仰を告白しているからです。イエス様は、元盲人に直接、「信仰によって救われた」ことを宣言しに行きました。元盲人の彼は、イエス様と再会すると、「主よ、信じます」と改めて信仰告白をしました。そして、イエス様の前に跪きます。イエス様を礼拝したのです。彼は、これまでの全ての人生にわたって、暗闇のなかで過ごしてきました。そして、目が癒されて見えるようになりました。そして、霊的には暗闇の中にいたのです。そんな彼が、イエス様の光によって、霊の目が開かれたのです。それは、まさに神様の業の現われでした。元盲人の彼は、キリストを知る喜びに与ったのです。そして、光の子とされました。
それと比べると、目が見えていると勘違いしているファリサイ派の人々が、かわいそうにも見えてきます。生まれつきの盲人の目が癒されるという「しるし」が示されました。そして盲人だった彼が、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と 証しをします。しかし、ファリサイ派の人々は、全く受け入れなかったのです。そういう意味で、ファリサイ派の人々は、イエス様の光を全く見ようとしない、霊的な盲人なのだと言えます。 一方で、一度イエス様を受け入れた私たちは、この物語をどう受け止めたら良いでしょうか? この物語を、だれしも抱えている、今の痛みに置き換えて見てください。「痛みは、神様の業が現れるためにある」ということです。それは、まだ信仰を持っていない人にも向けたメッセージであります。パウロはこう言いました。
Ⅰコリ『10:13 ~神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。』
神様は、病、その他の試練や痛みを通じて、私たちを成長させてくださいます。私たちは、まだ未完成なのです。だからこそ、神様は時間をかけて、私たちを変えている。それが神様の業なのだと私は信じます。
ところで、「神の業が現れるため」との言葉について、少し考えてみたいと思います。「何々のため」 とは、誰それのため、物のため、私の都合のため、 といった目的を示しています。ここでイエス様が言っている目的は、「神の業が現れるため」です。もし、その目的が「人の欲望が満たされるため」であったとしたら、どうなるでしょうか? たぶん、欲望を優先するあまり手段を選ばなかったり、都合よくいかないと不平不満を言い出したりするでしょう。ところが、「神の業が現れるため」であるならば、私たちは神様の業にふさわしい手段を選びますし、うまくいかなくても祈り続けます。そもそも、神の業は、自分の命のある間に完成しなくても、将来、現れてくれればいいのです。そして、私たちは、そのように願う信仰を持ちたいと思います。
生まれつきの盲人は信仰を持って、そして信仰を告白しました。神様の業を現したのです。決して、盲人であるがための痛みが、不幸せではないのです。そして、この元盲人のように、イエス様を信じ賛美する姿が、神様の業を現す証しとなります。ですから、今日の物語は、思いがけなく癒された喜び以上に、イエス様に出会った喜びを著した記事だと言えます。
最後に、痛んでいる人々にイエス様が寄り添ったことを思い起こして下さい。イエス様は、会堂を追い出された元盲人だった彼を 探しました。彼は、肉体の目だけで光が見えるようになったのではありません。霊的にも光であるイエス様が見えるようになって、イエス様を信じています。しかし、救われたことをまだ理解していません。イエス様は、その事を気にかけていたのです。
元盲人の彼は、両親から見捨てられました。それは、ファリサイ派の人々から目が見えるようになった経緯を聞かれた時です。
『9:20~これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。』
両親は、イエス様をメシアだと言えば、会堂から追い出されるので、自分らを守るために、答えなかったのです。ユダヤ人の前で、本当のことを言えなかったからです。ユダヤ人 と福音記者ヨハネが書いているのは、イエス様のことを受け入れないユダヤの人々のことです。元盲人の両親は、ユダヤ人の前でイエス様のことを言うのを、避けたわけです。
そして、元盲人の彼は、会堂を追い出されるわけですが、その時にファリサイ派の人々から、このように言われます。
『9:34 ~「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と~』
イエス様を信じて救われたはずの彼は、「罪びと」呼ばわりされて、ユダヤ教の信仰生活の場から追い出されたのです。これは、会堂と言う礼拝する場所に出入りできなくなったと言うよりは、「神の国には、お前の居場所はない」と宣言されたと言うことです。それは、信仰を表した彼にとって、新たにできた痛みでした。イエス様は、家族さえも見捨て、ユダヤ人から追放された彼を探しました。そして、ご自分が「人の子」であることを明かして、元盲人の彼を信仰告白に導きました。永遠の命という、祝福を与えるためです。この元盲人が生まれつき目が見えなかったのは、この祝福のためだったのです。決して、痛みそのものは、嬉しいことではありませんし、感謝して受け入れるものでもありません。しかし、「全ては神様の業を現すため」にあるのです。そのことを信じて、私たちも 神様の業を現してまいりましょう。