2025年 3月 23日 主日礼拝
『人間の知恵ではなく』
聖書 コロサイの信徒への手紙 2:8-15
今日から、受難節に入りました。 今日のみ言葉は、コロサイの信徒への手紙です。この書簡は、パウロがローマの牢獄の中で書いたとされていて、「獄中書簡」とも呼ばれます。コロサイとは、今のトルコの東側で、エフェソの町とアンテオキヤの町の間くらいにあります。パウロは伝道旅行で、コロサイを通ったかもしれませんが、コロサイで伝道したという聖書の記事は無いようです。ですから、パウロが問題を抱えているコロサイの教会のことを知って、筆を執ったのでしょう。この手紙の記事を読んでみると、イエス様の教えと異なる教えをする者がいたり、伝統的なユダヤ教の習慣を異邦人に勧める者がいたりと、コロサイの教会は混乱していたようです。
『2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。』
「哲学」のことをパウロは、「むなしいだまし事」と評価しました。哲学には内容がなく、空虚な議論でしかないと言うのです。実は、「哲学(フィロソフィア): φιλοσοφία」とは、英語のフィロソフィーの語源でありますが、新約聖書では特に、神様の啓示から離れて人間の知恵で無駄な追及をすることを指します。だから「むなしいだまし事」なのです。そこで、そもそも哲学とは何なのか?とwikipediaで調べてみました。
『哲学(てつがく、古代ギリシア語:フィロソフィア φιλοσοφία、英: philosophy)とは、存在や理性、知識、価値、意識、言語などに関する総合的で基本的な問題についての体系的な研究であり、それ自体の方法と前提を疑い反省する、理性的かつ批判的な探求である。』
このように全てを理性的にかつ、批判的に探求することを哲学と呼ぶならば、哲学は「人間の理性を礼賛する」ことだと言えます。パウロが哲学に否定的な理由は、ここにあるのでしょう。「人間の理性」は、この世を支配する霊によって簡単に騙されます。だから、神様の啓示ではなく、この世を支配する霊に騙されるのです。すると、哲学を必要以上に重く視てしまうわけです。さらに言うとそもそも、この哲学(フィロソフィア)という言葉も、意図して作った造語でした。 フィロス(φίλος:「愛情深い」)とソフィア(σοφία:「知恵」)をくっつけたのです。語源的に、このフィロソフィアの意味は、「知恵によって示される愛」です。その知恵、つまり人間の知恵とは何かといえば、理性すなわち学問としての哲学、または、ユダヤ教やキリスト教の禁欲主義者の神学を指します。と言うことから、パウロは知恵や学問としての哲学の成果を否定したのではなく、「人間の理性」に偏ることに警告しているのだと思います。
パウロは、どうして「むなしいだまし事」という言葉を使ったのでしょうか? たぶん、人間の知恵による言葉は美しく、正しく聞こえるけれども、何をもたらしたのか?と問うならば むなしいからです。聖書の教えと比べて、「人間の知恵」は、あまりにも無力です。なぜなら、聖書は、キリストのことを教えているのであって、「人間の知恵」や「人間の愛」について教えているのではないのです。ですから、私たちの信仰も、「人間の知恵」や「人間の愛」によるものではありません。神様の愛が最初にあって、私たちはキリストの中に導かれました。イエス様を信じる信仰によって、クリスチャンとされた私たちは、イエス様の教えに従おうとしています。つまり、私たちが目指しているもの、倣うものは、「人間の知恵」ではなくて、イエス様なのです。イエス様は真実の方ですから、私たちはイエス様に向き合っていれば、「むなしいこと」も「だまされること」もありません。しかし、「人間の知恵」は不完全でありますし、悪い霊によって惑わされます。だから惑わされないように、私たちクリスチャンは、自分の「知恵」に頼る前に、イエス様に聞きます。この方こそが、神様の愛をもたらすからです。そして、私たちに最も良い道をイエス様は準備してくださいます。
パウロは、この手紙の中でこのようなことを言っています。
コロサイ『1:15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。』 そして、
『1:19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、~』 と言いました。
御子イエス・キリストが神様ご自身であり、また私たちの内に宿ってくださっています。キリストが私たちの内に住んでくださっているのです。ですから、私たちは、人の知恵である哲学や言い伝えを求めるのではなく、イエス様への信仰を求めるべきなのです。それを、パウロが言いたかったのだ と思います。
『2:10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。~』
ここに、実はすごいことが書かれています。「満たされている」というギリシャ語(プレ-ロー: πληρόω)の語源は、「完全」です。ですからここには、「満たされて完全となった」とのニュアンスがあります。つまり、私たちはキリストにあって、完全になっていると、パウロは言っているのです。
イエス様は完全な方であり、正義の方であります。一方で、私たちは、イエス様を信じてから、もっと正しくなろう、これから変わろうと努力します。しかし、パウロの言葉によると、すでに、私たちは完全に義しい とされているのです。・・・そうであるならば、私たちは正しくなるように努力しなくてよいのか? 今の私たちの努力は無駄なのか?と疑問を持ってしまいます。しかし、決して無駄と言うわけではありません。パウロは、「人間の知恵」の限界を教えているのだと思います。その大前提には、「人間の知恵で義とされる」のではなく、「信仰によってのみ、義とされる」ことがあげられます。
ローマ『4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。』
パウロはそもそも、人の努力では神様から「義」である、つまり「正しい」とは認められることがないと主張しています。義と認めるのは、神様です。神様は、不信心な私たちを「義」と認めるのです。そこには、不信心である私たちであるにもかかわらず、「義」であると宣言するイエス様の仲介があります。ですから、私たちの働きや行いが認められて「義」とされるのではありません。「義」と認められる理由は、イエス様への信仰だけであります。ですから、私たちのすべきことは決まっています。イエス様を知り、イエス様に倣うことだけなのです。そして、イエス様を信じることで、不信心な者であるにもかかわらず、完全に「義」であると認められて、神の国に迎え入れられています。だから、その迎え入れられたままで、イエス様の内にとどまっていることが私たちのやるべきことなのです。そして、イエス様の内にとどまっていることで、人間の知恵ではない、すべての知恵と知識、そして力が与えられます。このように、神様はイエス様を信じる私たちを通してのみ み業を現します。そして、神様はその栄光を示すのです。
『2:10~キリストはすべての支配や権威の頭です。』
パウロは、キリストが頭であることを 何回も言います。イエス・キリストが万物の創造のとき、人々との和解のとき、そして十字架の死と復活したとき、すべてにおいて、ただ一人のお方でありました。そして、すべての知恵と知識の源であり、最善の結果をもたらすお方です。ですから、ここで支配と権威の頭だとパウロは言っているのです。
『2:11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、2:12 洗礼(バプテスマ)によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。』
パウロはここで、ユダヤ人が生まれた8日目に受ける割礼のことについて触れます。この儀式は、ユダヤ人つまりアブラハムの子孫として、神様との契約のしるしです。それが、イエス様の十字架での死と、復活が成就した今。契約のしるしは、割礼ではなくなりました。契約のしるしは、イエス様の十字架と復活なのであります。私たちは、その十字架と復活を信じて告白し、バプテスマを受けました。それが、神様との新しい契約のしるしなのです。このしるしによってはじめて、私たちは、罪に打ち勝つのです。
キリストの割礼とは、バプテスマによるしるしを指しています。キリストとともに死ぬことと、キリストとともによみがえったことです。バプテスマを受けるとき、水の中に全身を沈めると、罪に支配されていた古い人が死にます。そして、水から出るときに、キリストと共に甦る。そして、罪に仕えていた私たちが、神様に仕える者として生まれ変わるのです。これが、唯一の契約のしるしであり、そして、完全に「義」となるための唯一の方法なのです。
『2:13~神は、わたしたちの一切の罪を赦し、2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。』
ここには、罪の赦しについて書かれています。私たちは罪によって死んだ者であったのに、神様は、そのような私たちを、イエス様の犠牲によって迎え入れ、生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、その罪のために負っている負債をも取り消したからです。神様はこの負債の証書を取りあげ、イエス様と共に十字架に釘づけにしました。私たちの負い目はイエス様と共に十字架に釘づけにされたままです。ですから、私たちはすべての罪から解放されているのです。
この「罪が赦された」こと。そう信じている私たちですが、時々その信仰に不安を覚えます。だから、自分の罪を意識するたびに、自分で自分の罪を償ってしまおうと考えてしまうのです。そして、罪を償うために、たくさん祈ったり、聖書を読んだり、善い行いをしようとします。・・・それは、悪魔の罠かもしれません。イエス様を信じて、その信仰を告白し、バプテスマを受けた私たちは、罪がなくなったのではありません。しかし、罪が赦され、そのすべてが神様の前で完全に帳消しになっているのです。この恵みは、人の行いで得られるのではないのです。イエス様の恵みでしかないのであります。この救い主キリストを送ってくださった神様の愛に感謝し、イエス様に祈って、イエス様にすべてを託してまいりましょう。