クァドランス=1/64デナリ=1/4アス アサリオン=1/16デナリ(アサリオンの実際の通貨名はアス:元々のデナリは10アスだった)
なお、神殿税は2デナリ/年(16000円くらい)
1.ダビデの子
律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言っていました。その根拠は、
イザヤ『11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。』
有名なメシアの預言に始まる、救いの預言です。ダビデは、エッサイの子ですから、ダビデの子孫からメシアが生まれるというのは、この預言に従っていると言えます。それに対し、イエス様はダビデの詩編を引用しました。
詩編『110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」』
「わが主メシアに賜ったヤハウェの言葉」との訳が正確です。ダビデは、神様をヤハウェと呼び、メシアをラドニ(主)と呼んでいます。
2.律法学者を非難する
イエス様は、律法学者たちの自己顕示欲や貪欲に焦点をあてます。そして、彼らに警戒するように注意を促しています。(12:38-39)。彼らの自己顕示欲の強さを示す一つ目は、「長い衣をまとって歩き回ること」です。「長い衣」は、彼らの宗教指導者としての地位を誇示するものです。二つ目は「広場で挨拶されること」です。三つ目は「会堂の上席に座ること」です。おそらく巻物の聖書が収められている箱の前、説教者を指名する人が座る正面の席のことでしょう。四つ目は「宴会の上座に座ること」です。五つ目は、「見せかけの長い祈り」です。祈りの長さを批判しているのではなく、敬虔さを装うことが批判されているのです。彼らは神からではなく、人からの栄誉を求めていたのです。
3.やもめの献金
彼ら律法学者たちの貪欲さについては、「やもめの家を食い物にし」(12:40)と批判しています。具体的にどのようなかたちでやもめたちを搾取したのかはわかりませんが、「見せかけの長い祈り」によって、得た献金を指しているのだと思われます。一方で、律法学者はもともとは神殿の書記官です。遺産相続の手続きを不正に行い、私腹を肥やしていたことを指しているのだとも言われています。
イエス様は、律法学者たちへのさばきを宣言した後、今度は彼らに搾取されていた側の「やもめ」の献金について、弟子たちに模範とすべき信仰だと言っています。
イエス様は「さい銭箱」の向かい側に座って、献金する人たちの様子を見ていました。イエス様の目にとまったのは、大金を投げ入れていたお金持ちたちではなく、「レプタ銅貨」(パレスチナで流通していた最小の額の銅貨1/2クァドランス:レプタの意味は、「ダニ」です。)を二枚投げ入れた 貧しいやもめ でした。イエス様は献げた額より「献げたものの重み」に焦点を当てているようです。そして彼女は「だれよりも多く投げ入れた」と賞賛しました。
『12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」』と説明しています。
礼拝に来た人々の献げ物を受け取るためにさい銭箱が置かれているのは、「婦人の庭」でした。ニカルノ門を通ってイスラエルに庭に入れるのは、ユダヤ人男性だけです。ですから、イエス様は婦人の庭で人々が献げる様子を見ていました。これらのさい銭箱の数は 13 個で、それぞれに碑文が刻まれており、そこに入れたお金がどのような用途に使われるかを示していました。これらの自発的な寄付から、祭壇用の木材、塩、その他の必需品を購入していたのです。
この箱の中の2個は、神殿税用です。神殿税は2ドラクメ(2デナリと同じ)ですから、このやもめは1/128しか献金できなかったことを示します。また、それが生活用に持っていた全財産です。(125円くらい?)
金額だけを比較するなら彼女の献金はわずかなものであったでしょう。しかし、そこには神様への信頼をもって、明日の生活をも顧みずに、惜しみなく献げる信仰があったのです。神様は私たちの献げものの量だけではなく、献げる動機をも正しく評価されるお方です。