1.信仰による救いを確信する
パウロの歩んだ「行いによる救いから信仰による救いへ」という道を逆戻りしてしまったら、キリストを捨てることとなります。もし、救いの根拠を自らの行いに結びつけて考えるならば、私たちのほうから天国を拒絶してしまうことだからです。パウロは、確信をもって、「信仰による救い」を訴えます。
2.目標を目指して
パウロは他の手紙でも、キリスト信仰者としての歩みを競争にたとえています。(Ⅰコリ9:24-27)キリストの信仰者の歩みにおいても、これと同じ原則があてはまります。
『3:14 ~目標を目指してひたすら走ることです。』
言いたいことは、目標以外に目移りしたり、歩み続けることをやめたりしたのでは、その神様の賞は得られないことです。
パウロはキリストの信仰者として「ふさわしい聖なる生き方をすること」の重要性を認めていました。ですから、「どのように競い合うのか」ということは大事な問題です。普通の競走では、全力で走り抜くことが要求されるでしょう。ですから、趣味として走る程度では、真剣な競争で勝つことはありません。キリストの信仰者として歩む時にもそれと同じです。全力で取り組み、目標に集中することが要求されるのです。
『3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。』
異邦人であるフィリピの信徒たちにとって、この教えは重要だと思われます。後ろのものとは、過去のことです。そして、過去に引きずられるよりは未来を見るべきなのです。嫌な思い出を嘆いてばかりいると、せっかく神様がすでに用意してくださっている現在や未来に対して向き合うことができなくなってしまいます。特に、キリスト教に改宗する前の宗教や習慣とは、決別して、わき目を振らずに神様の賞を受け取るために、走り続けたいのです。
『3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。』
だから、キリストの信仰者として成長していくために大切なのは、ひたすらに走ることであります。だれでもその結論に至るでしょう。しかし、神様は別の考えも示しています。シャカリキに走るだけではなく、『到達したところに基づいて進むべき』だと パウロは教えています。走り続ける事には、同意をするけれども、体力が伴わないのに体力以上のことをやろうとして、結果として走ることを続けられなくなっては意味がありません。できることを、淡々と続けることの大事さをパウロは教えているのです。
『3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。』
倣うべきお方は当然ながらパウロではなくキリストです。パウロはキリストに従う人々のうちの一人にすぎません。パウロが「わたしに倣う者となりなさい」と言い切ることは、パウロがキリストに従い、キリストに倣っているからこそ言っているのです。
『3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。』
パウロは偽教師たちを容認しませんでしたし、信徒たちに警告しました。それでもパウロは偽教師たちに対して個人的に敵意を持ったり無視する態度を取ったりはしませんでした。むしろパウロは彼らの霊的に惨めな状態を深く悲しんだのです。
『3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。』
ローマ帝国の植民都市のひとつであったフィリピは「ギリシアにおけるローマ」と呼べるような都市でした。それにならうと、キリストの信仰者の体は「フィリピにおける天国」であると言ってもよいでしょう。