2025年 8月 31日 主日礼拝 (当日は、柏師の宣教なのでボツとなった原稿)
「へりくだる者は高められる」
聖書 ルカ44:7-14
今日は、ルカによる福音書から引き続きみ言葉を取り次ぎます。
ルカ『14:1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。』
今日の記事は、この食事への招きが発端となりました。当時は、礼拝の後には会堂で各自が持ち寄った食事がふるまわれました。みんなで、分け合って食べるわけです。この食事の最初には、後に主の晩餐式となる「パン裂き」が行われました。このパン裂きに始まる食事が、礼拝出席者の貴重な昼食となりました。
参考 【7月13日の礼拝でも似た場面の記事(ルカ7:36-50)を使って宣教をしました。その記事ではイエス様を招いたのは、あるファリサイ派の人でしたが、今日の箇所はファリサイ派の議員(言葉の意味的には議員ではなく「長」)です。】
当時の裕福な家では朝は食べません。朝は、庶民に朝食を提供しながら、陳情や相談に応じる時間です。そして、昼には、かなり質素な食事をしたようです。それで、お判りだろうと思いますが、夕食が主体の食生活であり、その内容も贅沢なものだったようです。ということで、当時の裕福な人は、毎晩夕食に招きあうのが習慣でした・・・そんな場所にイエス様が招待されたのです。ですから、招いたファリサイ派の議員は、イエス様を友人として招いたことがわかります。
ユダヤの人の習慣は、上下関係を基本としています。ですから、席に着くにしても、その席には上下があります。宴会の部屋の一番奥は、その家の主人の席。そして、部屋の入り口から見て主人の左隣が「主賓」の席です。主人から見ると右側になります。当然ながら、その家の主人は招いた人をどこの席についてもらうかについては、気を使います。一方、招かれるほうは、参加者全員を把握していなければ、勝手に席に着くわけにはいきません。だから普通は、日本人がよくやるように席に着くこともなくもぞもぞとしながら、主人の案内を待つわけです。
さて、今日の場面ですが、この家の主人は、おそらく自分の友人・兄弟・親類・近所の金持ちを、この夕食に招いています(14:12)。安息日の礼拝の後には、近い者同士招きあう習慣があるからです。イエス様は、同じ会堂で礼拝する者として招かれたのか? もしくは、このファリサイ派の人の家に滞在していたのでしょう。 聖書にはそのような事は書かれていないので、イエス様が良い席にいたかどうかかは、判りません。しかし、イエス様は自ら一番末席についていたのではないか? と想像できます。この記事では、来客同志が争って上席を狙っていたようです。イエス様は、その様子を冷静に見ていたわけですから、大変高価な油をイエス様に注いだ婦人の記事(ルカ7:36-50)と同様に、イエス様は一番末席にいたのだろうと思います。
「上席を好む」という言葉は、最上の席(プロトクリシア:πρωτοκλισία)を意図的に選ぶ(エクレゴー:ἐκλέγω)というギリシャ語からの、翻訳です。特に、最上の席とは、「宴会で一番最初に(プロト)席に横になる(クリシア)人」から来ている言葉です。当時は、特に夕食の時は横になって食べました。そして、最上の席とは明らかに主賓の席を指しています。と言うことは、ここに招かれた人々は、「主賓」の席を争った・・・。その様子をイエス様は末席から見ていました。イエス様はさっそく指摘します。
『14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。』
最上の席とは、先ほど説明した通り、主賓が最初に席について横になることから来ています。ということで、席が決まるまでは、そして主賓が横になるまでは、だれも席で横にならないで、待つ事になります。その主賓から順番に席が決まって、末席の人まで横になります。結果的に、最上の席を争ったところで、主人が決める席順となるわけです。場合によっては、末席になるかもしれません。そうなってしまうと、最上の席を望んだ本人が恥をかくことになります。実は、このギリシャ語の「恥」と言う言葉には、不正な要求を行うというニュアンスがありまして、「身の程知らずで傲慢だ」ということを皆さんにさらしてしまう事を恥と言っているわけです。そこで、イエス様は続けます。
『14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」』
イエス様自身は、率先して末席についていたのだと思います。そして、主賓の座を取り合おうとする人々を見て、へりくだる事を教えたのだと思います。ちょっとした驚きですね。末席にいる者が主賓席をとろうとしている人を諭したわけです。そういう光景を浮かべると、この夕食の本当の主賓は、イエス様だった・・・そう私は思うのです。そこでさらに、イエス様は、昼食会を催したファリサイ派の議員に対してもこんなことを言います。
『14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。』
一般に、一介の招待客でしかないイエス様のこの言動は、家の主人にも、招待客にも失礼です。ここにいるのは、明らかに友人、兄弟、親類、近所の金持ちですが、彼ら招待客は、イエス様の言動を問題にしていないようです。それには、二つの理由がありそうです。記事の文脈から、ファリサイ派の人々がイエス様の教えに興味を持っている そういったイエス様への尊敬が見受けられる。これが一つ目の理由です。二つ目の理由は、この記事を採用したルカの意図です。他の福音書には使われていないこの記事を、ルカは採用しました。ルカは、「主の晩餐について」教えるために、この記事を採用したと言われています。ルカの所属していた教会の事情が、背景にありました。だから、イエス様のこの言葉を残すことに大きな意義がありました。それでは少しだけ、この二つ目の理由について掘り下げて見ましょう。
ルカは、パウロの伝道旅行の同行者です(使徒16:10)。ルカは、パウロ書簡にも名前が出てきますから(コロ4:14、Ⅱテモ:4:11、フィレ1:24)、その記事からもローマまで、同行していたことがわかります。そしてその後、おそらくシリア地方の教会で、礼拝を守り、その中で主の晩餐を行いました。そう言う時期に、ルカは福音書を執筆したのですが、その時すでに、マルコによる福音書はありました。ですから、ルカの手元には、マルコによる福音書と、ルカ自身が収集したさまざまなイエス様の伝承がありました。そして、パウロの書簡があります。ルカは、イエス様の教えの伝承と、パウロの教会形成を統合しようとの考えで、福音書を書いたのだと思います。なにしろ、パウロの書簡がたくさん残っているのは、一重にルカがパウロの傍で管理したからです。パウロの教えを最もよく理解していたルカが、イエス様のみ言葉に立ち返って、新しい主の晩餐・礼拝・教会のありかた等を、示した。それが、ルカによる福音書なのだと言うことです。そういったルカの意図が現れている証拠の一つが、ルカだけがこの記事を採用したことです。また、ルカが福音書の読者として想定しているのは、ローマのクリスチャンです。ですから、ローマの公用語であるギリシャ語で書かれ、そしてローマの高官に献呈されたのです。
今日の箇所にもあるように、教会では、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と教えます。その真理が明らかになるのが、礼拝、しかも主の晩餐式です。ルカによる福音書では、イエス様はこのように教えています。
『22:25 ~「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。』
ここで言う「異邦人」はローマ人、「守護者」とはローマ皇帝です。この言葉は当時の教会で行われていた主の晩餐の精神を伝えています。その精神をルカは教会で共有したのです。
さて、ルカ14章12節の「夕食の会」とは「晩餐」のことで、主の晩餐という名の神の国の宴会です。その宴会では、自分の栄光を表すために主賓席に着こうとする者が恥をかきます。そして、逆に末席に着く者がかえって、上座に引き上げられます。ルカは、その教えを福音書の1章にも書いています。
ルカ『1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。』
(マリアの賛歌 参考(箴言25章6-7節))
これを 私たちの主の晩餐式に重ねてみましょう。パンを食べること、ぶどう酒を飲むことは、信徒の特権なのでしょうか?。主の晩餐には上座や下座があって、席順があるのでしょうか?。例えば、この教会の教会員、連盟加盟の教会員、他教派のクリスチャン、バプテスマ志願者、その他の人・・・。
「どなたでもお越しください」と招いておきながら、主の晩餐になると「自分こそ上座に座るべきだ。」と思ってしまう。もし、そうであれば、主賓の席を狙う人々と何ら変わりがありません。教会では、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」のです。そして、むしろ自分を深く吟味して、「自分こそふさわしくない者の代表です」「神様、罪人のわたしをお赦しください」と告白し、赦しを求めている人が、最も神の国にふさわしいのです。
さて、イエス様は「足の不自由な人」と「目の見えない人」を、ここで挙げています。ルカが伝承しているのは、「イエス様は、社会で排除されがちな人を優先して礼拝に招いて」いることです。教会ではユダヤ人もギリシャ人もなく、しょうがい者も健常者もないのです。医者であったとされるルカは、あとまわしにされる者の痛みをよく知っていました。イエス様の食卓、主の晩餐式でそのようなことがあってはいけません。そのために、この世界で後回しにされがちな人々を先に招く必要があります。そして、その招きにこたえて、その人が信仰を告白する時が来る。その希望を、イエス様に委ねていきましょう。私たちは高ぶっていますから、我さきとなってしまわないように、イエス様の権威の元にへりくだって、イエス様が人々を導く様子に立ち会っていきたいものです。