1.アモス書について
この記事を見ると、アモス自らが牧者だと言っています。「ユダの王様がウジヤ王(在位BC783-BC742)、北イスラエルの王様がヤロブアム2世(在位BC782-BC753)のころ活躍した」と言う事ならば、北イスラエルとユダ王国が最も栄えた時代です。この時代は、北イスラエルとユダ王国は同盟を結んで、領土をダビデ王のころほどに戻していたようです。その後、新アッシリア帝国(BC911-BC609)の台頭によって、北イスラエルは滅び、ユダ王国もエルサレムの町を包囲されるほど、衰えてしまいます。そんな、悲劇を前にして、テコアというユダにある町(エルサレムの南側18km)に住む羊飼いアモスが、北イスラエルの将来を預言したのです。そして地震ですが、BC780年頃に大地震があったらしく、イスラエル周辺の遺跡にその痕跡があるそうです。神様の裁きだと言われるような大地震の2年前に、この預言が示されていたのです。アモスは、預言者として教育されたわけではなく、本当に、ただの羊飼いでした(アモス7:14)。そのアモスが、神様からの裁きの言葉を預かったのです。・・・
2.イスラエルに対する審判
イスラエルに向けて語られた神様の審判は、諸国に対する審判と全く同じ形式が取られています。しかし、他の七つの宣告に比べると、その罪状も他のものと異なり、イスラエル社会の不正(2:6-8)、過去の救いに基づいた叱責(2:9-12)、が中心となっています。
イスラエルの民は、異邦人の国々が罰を受けるのは当然と思っていました。しかし、アモスは、神様の慈しみと恵みを経験していたイスラエルであるのに、異邦の民と同じ運命にあることを語ります。しかし、イスラエルはヤーウェにとって特別な恵みの対象だから、それ以上の罰を受けると告げたのです。
イスラエルでは、先祖から受け継いだ土地を所有する男子のみが、法的にも力を持ち、祭儀に参加し、武装し、「民」として認められました。一方で、奴隷となった者は、除外されました。そして、貧しい者から搾取したもので、生活しまた礼拝を整えるということをしていました。そこには、とり返しのつかない悪がありました。
アモスにとって大事なことは、その結果と背景でありました。律法を隠れみのにして、神様の思いが蹂躪されていることに対して、アモスはイスラエルの神様への冒涜と見ました。人間に救いを下さる神様との結びつきは、自己の財産を増やすための手段となっていきました。また、その搾取した物で礼拝をととのえていたのです。
2:7後半は、当時行われていた祭儀的習慣について語っています。その習慣とは、神殿の聖娼との交わりによる多産の儀式に由来するものです。これは、明らかにほかの宗教の影響です。しかし、アモスが問題とするのは、その起源のことではありません。この慣習が、悪なのです。神様の神聖差に対するの冒涜以外の何ものでもありませんでした。イスラエルの民は、宗教祭儀の名のもとに、家族の倫理的基盤を破壊し、神様の名を汚していることさえ気づいていなかったのです。
アモスはイスラエルの民に、「彼らの神」が如何なる神であるかを明らかにします。救済史に触れることは、神様の審判への準備としての意味を持ちます。過去における救いの業こそ、民に対する審きを必然としていることを明らかにします。これまであらゆる危険からイスラエルを救ったのが神様であれば、それと同様に、彼らを捨てることができるということを、イスラエルは真剣に考えようとはしませんでした。イスラエルは神様の恵みの保証を求め、その恵みのみを受けようとするだけでした。
2:9-12は、諸国民に対する審判を預言したものです。イスラエルの敵を根絶やしにし、自らの民を助けた力ある神様は、イスラエルに向けてもまた、ご自身の秩序を示されるのであります。それゆえ、神様を侮るこの民を敵同様根絶やしすることを、アモスは告げます。ナジル人とは、神様に特別な請願を立て、禁欲的な生活を送っている人々のことです。当然ナジル人に酒を飲ますなどとはとんでもないことですし、預言者に預言をさせないなども神様への冒涜と言えます。
2:13-16は、アモスのイスラエルへの審きの預言です。「そのときは」そして「その日には」という言葉に、この預言が終末のときであることを表しています。アモスは、その審きが大惨事であり、恐らくそのころ起こった大地震を思わせるものです。アモスが伝えようとしていることは、神様の審きから逃れることは不可能であるという伝えることです。しかし、これを聞いたイスラエルは、「預言者に預言するな」といって退けるだけでありました。
神様により頼まない、神様の言葉を真剣に受け止めないイスラエルを、神様は審きます。その罪を審くことによって、神様がイスラエルの神であることを明らかにするのです。しかし、神様はその罪を自らのこととして引き受けます。神様の赦しが、愛する独り子イエス・キリストを通して表されました。そのことを新約聖書は語ります。しかし、アモスの語る、神様の審きを避けえない。そのことを私たちが認識することなく、その赦しに与ることはできません。