減っていく『教える側』の責任、増えていく『教わる側』の自己責任


昨今の考える教育や応援する、

支援する教育を、批判するつもりは

ありませんが、今の教育は、

ある意味、教える側の責任が減り、

教わる側の自己責任が増えている

ように思われます。



かつての怒鳴り散らしたり、

体罰するかのような、

(実際に体罰する)

詰め込み型教育を

肯定するわけではありませんが、

一定の学力を身につけさせようと、

叩き込むという表現に近い教育は、

教わる側の自己責任が少なかったと

言えます。



ただ覚えれば、出来れば、

それで結果が出れば、

怒られずに済みましたし、

怒られながらも、その場その場で

失敗を直していけば、

それはそれで評価されることが

あったことでしょう。



それに反発・反抗した、

もはや死語かもしれませんが、

不良、非行少年少女が、

社会から、世間から疎外され、

排除されるかのような扱いを

受けながらもその反発心、反抗心を

反骨心に変え、社会に出てから

大成したり、自分の過去を見つめ直し、

更生したりして、今はそれなりに

生きている、あるいは今からでも何かを

やろうと、勉強しようと、する気概を

持てたりしたと思います。



しかし、今は、失敗しても

怒れることもなく、ただただ数字で、

結果で、記録で審査・評価され、

やろうが、やらまいが、自己責任、

それどころか、やれない、出来ないも、

自己責任で、教える側に

問題があるんじゃないかと

言われれば、教える側は

『データ』と『記録』を持って、

こう言い放つことでしょう。



全体の何十%の方は、この教育で、

こういう結果を出しており、

さらにそれでも出来なかった方には、

こういう補習をして、そこから

残りの十数%の方が、出来るようになり、

それでも出来なかった方には個別で、

様々な教育を試しましたが、それでも

結果が出せなかったということは、

もうこれは『教わる側』の

問題、気質、素質、ですね。



そして、その『教わる側』、

つまり生徒が出来ないのは、

『教える側』の問題だとは

言えないですよねと、

極端に言ってしまえば、

こうなります。



いやいや、●●先生の授業はつまらない、

説明が下手、わかりにくいと、

多くの生徒から声が上がれば、

該当する先生はすぐに変更される、

あるいは、生徒が自由に各先生の授業を

選べるようにするとなれば、どうでしょう。



多くの生徒の『言い訳』を見てきましたが、

昨今はそれが一つ一つ解決・改善されて

きていると思います。



かつて、多かったのが板書が早すぎる、

字が汚い、すぐに消されるから、

ノートに書けなかったなども、

プリント配布やプロジェクタースクリーン、

さらにはICT化で、タブレットで、動画で

『後から』確認することも出来るようになった

という話まで、出てきています。



こうなると、もう板書でのうんぬんは

関係なくなります。



先ほどの、●●先生の授業は

つまらないというのも、

クラス分けや、さらには今後、

有名予備校講師の方や、

人気ユーチューバーの方を招いたり、

その動画を授業中に配信したりする

ようになったら、どうでしょう。



もう、先生の授業はつまらないとは

言えなくなります。



さらには教科書は文字が多すぎる、

眠くなってくるというのも

イラストや図、さらには動画などを多用し、

出来る人、好きな人にとっては、

楽しくわかりやすい教科書に

なっていったら、もう、言えなくなります。



すでに最近の教科書は昔に比べて、

見やすく、図なども多用されていて、

今後はスマホをかざしたら、音声で

教科書を読み上げてくれるなんてことにも

なっていくと思います。



そうやって、一つ一つが『教わる側』に

歩み寄っていった場合、そこから先は、

『自分の好みじゃない』『好き嫌い』の

問題となってきますので、『教える側』は

最大限の歩み寄りをしたとも言えるでしょう。



何が言いたいかというと、

今後こうした、生徒、子供達の要望、

希望通りになっていき、

大人達が、子供達に『勉強して頂こう』

『学んで頂こう』と、丁寧にへりくだり、

様々なことを、様々な対応をすればするほど、

生徒の皆さんは、『勉強出来ない』“言い訳”が

出来なくなります。



そこまで『与えられている』

『やってもらっている』にも関わらず、

やらないのはもちろんのこと、

やれない、出来ないのは、『おかしい』と

審査・評価されても、仕方ないですね。



そうなった時、というより、

今まさにそうなろうと

進んでいるかのように思えますが、

『それでも』勉強しないは論外ですが、

出来ない・やれないという方に対して、

社会は、世間は、何より、同年代の

皆さん自身は、“どう”思われますか。



それは個人の自由、

そうした生き方、考え方を

する人もいるでしょうで、

割り切れる方もいると思いますので、

さらに言い方を変えましょう。



その個人の自由、生き方、考え方をする人が、

皆さんと平等の、同等の権利を主張して、

皆さんと同じ扱いをしろと言ってきた時、

それを認められますか。



これと根本的なところで似たものを感じた

最近のニュースの記事に、最近の方の、

物事の考え方に、得をしている方を

許せない、平等に扱えという学生が

出てきているという記事がありました。



それは真面目な方が、努力している傍らで、

不真面目でも結果を出している方が、

真面目な方よりも良い評価、あるいは

同等の評価を得ているのが、平等性、

公平性に欠けるという訴えをする内容でしたが、

これを『一段下げて』見てみると、

上記したように、やらない、やれない、

出来ない人が、同じことを言っている

ことになります。



さて、圧倒的大多数の方は

中位に位置すると思います。



その中位の方の多くは、

上位に位置づく人に対して、

平等性、公平性を求めるのは、

妬みや嫉妬と思える人が、

『今は』まだ多いと信じたいですが、

その方々に再度お聞きします。



下位に位置づく人が平等性、公平性を

求めることに対して、“どう”思われますか。



上位、中位、下位と、まるで

人の上に人を作り、人の下に人を作る、

カースト制のような書き方は、

人間性を疑われるものかもしれませんが、

スクールカーストなどの言葉がある通り、

学校の勉強、成績、偏差値の順位などよりも、

実社会においては、社会的地位、経済面、

心理面などにおいて、カースト制に近い、

住み分けをしている方もいる、

というよりも、悲しいことではありますが、

そこに幸福や満足、不満などを見出して

しまう方もいると思います。



今後、その根底になっていくのが、

教育の現場からとなった場合、

冒頭の『教わる側』の自己責任は、

今まで以上に、その後の人生までも

大きく影響する可能性があると思います。



大げさに、壮大に、妄想的に

書いているつもりですが、

そうなった時、学生の皆さんは、

『どちら側』に責任が

あると思われますか。



いかがでしょうか、

学生の皆さんこそ、

一度、考える教育を、

よく『考えて』みて下さい。