既存の枠組み、条件、常識にとらわれていない?


とんちめいたことを書かせて頂きますが、昨今の、

『既存の枠組み、条件、常識にとらわれない』

自由な発想、教育、生き方、ものの考え方という、

『枠組み、条件、常識にとらわれて』いませんか?



特にこの言葉を使いたがる、あるいは、

実践したがる方ほど、“そういう”傾向に

なっていると思います。



自由をうたう、個人主義の某国のように、

自由な発想、教育、生き方、ものの考え方で、

革命を、革新を、改革を、行うことを、

この全体・集団主義的な、団体行動を重視する

日本において、声高に騒がれていますが、

そう『騒ぎ立てること』で、さらには、

『ソレ』がこの日本において、

必要だと『思い込むこと』が、

今は、『既存の枠組み、条件、常識』に

なりつつある、あるいは、そうしようと

している節が感じられます。



私立校・中高一貫校では、わかりやすいですが、

その結果が、来月の内部進学の合否で出ます。



『既存の枠組み、条件、常識にとらわれない』

自由な発想、教育、生き方、ものの考え方を行うことで、

『得られた結果』は、どうだったか、どうなるか、

よく確認しておいて下さい。



私立校・中高一貫校では、

『進級・進学要綱』という、

『枠組み、条件、常識』があります。



その『枠組み、条件、常識』から

逸脱していれば、当然、進級・進学

できなくなります。



そもそもの話になりますが、

私立校・中高一貫校に限らず、

高校・大学に進学するという

『枠組み、条件、常識』には、

昨今ではさも当たり前、

当然のことのように思われていますが、

元をたどれば、むしろ高校・大学に

進学することは、

『既存の枠組み、条件、

 常識にとらわれない』

ことだったと言えます。



中学を卒業してから、

働くことも出来ますし、

起業することだってできます。



『何でもできる』選択肢の中で、

わざわざ、さらに『勉強』する

という選択を取ったと言えます。



しかし、いつの間にか、

高校・大学と『ただ』進学することが、

社会の枠組み、条件、常識のように

なってきたからこそ、

“その”『枠組み、条件、常識』に

とらわれないことが、

『既存の枠組み、条件、

 常識にとらわれない』ことと、

勘違いされてきているように思えます。



当然ですが、高校・大学と

『ただ』進学することが、

『既存の、社会の枠組み、

 条件、常識』だと

勘違いしているならば、

『ソレラ』にとらわれない

自由な発想、教育、生き方、

ものの考え方をするということは、

進学しない・できないということに

なってもおかしくないことになります。



学校で勉強したくない、学びたくないと、

もっと別のことをしたいと、自分勝手な

『既存の、社会の枠組み、

 条件、常識にとらわれない』

生き方、考え方をして、

高校・大学に進学できないという、

『既存の枠組み、条件、常識』通りの

結果になっただけです。



『既存の枠組み、条件、

 常識にとらわれない』ことを、

自分勝手に、自分の都合の良い

ようにとらえて、わがままをする、

与えられること・許されることを

当然の権利とすることだと思っているなら、

止めておいたほうがいいでしょう。



少なくともこの日本社会においては、

まだまだあと十数年、数十年、あるいは、

百年近く、そうしたことになることは

ないでしょう。



有名な歌舞伎役者の方が

言っていたような、

『型を知らなければ、

 型破りなどできない』や

有名なお笑い芸人の方が言っていた、

『常識を知らなければ、

 非常識なことをできない』など、

日本においては、むしろ、

『既存の枠組み、条件、常識』を

熟知した上で

『既存の枠組み、条件、

 常識にとらわれない』

ことをしない限りは、

『既存の枠組み、条件、常識』通りに

なっていくことになります。



もしそうした

『既存の枠組み、条件、

 常識にとらわれない』ことを

とにかくしたいというのであれば、

早々に海外にでも行って、

挑戦されたほうが宜しいかと思います。



日本においては、昔からの制度・規則、

学校などで言えば、校則の問題などがそうですが、

そういった古臭いものに対して、

“ただ”『既存の枠組み、条件、

常識にとらわれない』という

考えだけで、問題点があることを

騒ぎ立てたりしていることが

多いです。



時代に合っていない面があることも確かですが、

そもそもの、その制度・規則がなぜできたのか、

何で必要なのか、そして、仮にそれを変えたら、

あるいは廃止したらどうなるか、そこまで考えた上で、

『既存の枠組み、条件、常識にとらわれない』

自由な発想、教育、生き方、ものの考え方を

しているように思えません。



今でも、茶髪など、髪を染めることを

禁止している学校は多いと思いますが、

なぜ、そうなっているのかを

考えられたことはありますでしょうか。



装いの乱れが、精神の乱れを生み、

風紀が乱れるなどの、『精神的な』理由から、

大人達が抑圧的に決めたものと

思われがちですが、

茶髪を『ファッション』として、

『例外的に』認めれば、当然ですが、

では次は『ピアス』はなぜダメなんだ、

同じファッションじゃないか、

『タトゥー』はなぜダメなんだ、

世界的に見れば、ファッションとして

報道されているじゃないかと、

次々と、『例外』を認めろ

ということになっていきます。



こう書くと、いやいやさすがに

タトゥーはダメでしょう、

そんなの、普通に、一般的に、

常識的に、考えれば、

わかるでしょうという方も

いると思います。



茶髪が許されて、ピアスが許されて、

なぜタトゥーは許されないのでしょうか。


タトゥーは犯罪なんでしょうか?


では、タトゥーを入れている方は

犯罪者なのでしょうか。



こう言われて、うざいな、

面倒な奴だなと思われると思いますが、

何十人、何百人、何千人といる中で、

誰一人こういったことを言い始めないとは、

言い切れないと思いますが、いかがでしょう。



じゃあ、多数決で決めればいいじゃないかと、

言われる方もいるでしょう。



そうして、多数決で決めたとして、

隣の学校では認められたことが、

自分の学校で認められないと

なった場合、いかがでしょうか。



当然、“また”不満や文句が

出てくることになるでしょう。



今ある全ての制度・規則が、

こうした議論をしてきたかは、

わかりませんが、少なくとも、

考えられてきたであろう結果、

定められた制度・規則には、

なぜそうなったのかということと、

なぜそれが必要なのか、そして

仮にそれを変えたら、廃止したら、

どうなるのか、までを考え、議論した

『枠組み、条件、常識』を

理解し、熟知した上で、

『既存の枠組み、条件、

 常識にとらわれない』

自由な発想、教育、生き方、

ものの考え方をしてきているかどうか、

『考えた』ことがありますでしょうか。



表面上の問題点だけ、

デメリットだけを見て、

時代に合わないから、不便だから、

『自分にとっての都合に合わない』から、

『既存の枠組み、条件、常識』を悪としてみることが、

『既存の枠組み、条件、常識にとらわれない』ことに

していませんでしょうか。



茶髪禁止と同じようなことに、

学校の校則といいますか、

慣習に近いものに、小学校までは

『鉛筆』を必ず使うという規則めいたものが、

今だ根強く残っています。



なぜ、そうなったのか、

なぜ、鉛筆である必要があったのか、

そして、仮に鉛筆以外の筆記具を

使うことを許した時、どうなるのか。



個人的には、答えを持っていますが、もし、

『既存の枠組み、条件、常識にとらわれない』ことを

考えたいというのであれば、

こんな身近なところから、

『既存の枠組み、条件、常識』をよく考えてみて、

『既存の枠組み、条件、常識にとらわれない』

自由な発想、教育、生き方、ものの考え方を

してみてはいかがでしょうか。