精神的正論と物理的正論


この日記でも、正論を振りかざし、

偉そうに説教をしておりますが、

正論には、精神的なものと

物理的なものがあると思います。



精神的な正論は、極端に言えば、

正論を振りかざす人の言い分、正義によって、

相手を言い負かすかのようなもので、

その人にとっての正義、主張、意見は、

『その人』にとって、もっと言えば、

その時、その時代に、たまたま、

合っているかのように聞こえるだけで、

有名な哲学者の方が言っているように、

こんな説教、正論(大抵は非難、批判)は

聞き流しても問題ないとは思います。



ですからこの日記で書いてあるような

大げさな説教、余計なお世話のほとんどが

精神的な正論にすぎず、今を生きている、

今学校に通っている学生が、耳を貸す必要はない、

といいますか、親御さんも含めて、

聞き入れている方は少ないと思っております。



聖人君主のようになれというくらいの正論を

振りかざしたつもりはないですが、

そう感じられるほどのうるさいことを

書いていることは私自身もわかっています。



ですので、批判、非難、無視、静観、あるいは、

空想の馬鹿げた小論文のように見て頂いて結構だと

思っています。



しかし、これから書く、『物理的正論』に関しましては、

私の口うるさいだけのものと異なり、事実として、

現実として、皆さんを苦しめるものとなると思います。



物理的正論で、わかりやすいのが、この日記でも

よく書いておりますが、宿題などの締め切りの

『残り時間』だと思います。



これは、精神的なものでなく、実際に、事実として、

全人類・世界共通で、『決まってしまう』ものだと

思います。



あと、何日何時間で締め切り、それどころか、

何分、何十秒までと、細かい指定までされる

こともあるでしょう。



この、あと何日何時間、何分、何十秒で

となってきたのは情報化が進んできた

ためだと思われます。



今の大学生なら、このことを

よく感じ取れると思います。



大学でのレポートは、今やメールで

提出するようになってきているために、

締め切りは何分何秒までの

指定になってきていると思います。



さらには就職活動でのエントリーなども、

そうなっていることでしょう。



この、『あと何日何時何分何秒まで』

という締め切りは物理的な『正論』となり、

これは精神的なものと異なり、

絶対に覆せないものとなっていると思います。



まぁ、何らかの障害が起きて、

その締め切りを変更するなどの

対処、対応が行われることもある

かと思いますが、基本的に、

この締め切り時間を設定した時点で、

これは『絶対の正論』となると思います。



親御さん世代、さらにはその上の世代では、

こんな感覚はなかったと思います。



我々世代では、“まだ”固定電話やFAX、

さらには手紙などでの連絡・郵送手段に

よるものが多く、相手がその場に居なければ、

あるいは、郵送する人の時間帯によっては、

何時何分何秒までなど締め切りを

決められなかったです。



ですから、締め切りに対して寛容で、

多少前後しても、そこまで気にも

留めなかったことでしょう。



しかし、今や情報化が進み、

多くの方が“忙しく”なった中、

便利なことに、いつでもどこでも

連絡が出来るどころか、書類を送ることも

出来るようになったために、

締め切り時間という『物理的な正論』が

成り立つことになったように思えます。



設定された締め切りに対し、

提出期限・時間、さらには

残り時間も、誰でも、どんな人でも

『わかる』わけですから、

わからなかった、知らなかった、

出来なかったということに対して、

『そんなことは知りません、

 設定された締め切り時間に

 出すのが約束です』と、

絶対的な正論を言うことが

出来ます。



これに対しては、親御さんの

世代以上の方よりも、これからの

今の世代の方のほうが、より厳しく、

シビアになっていくことが予想されます。



といっても、我々世代のように、

声を荒げて、何でもっと早くに

出さなかったんだ、締め切りを守れ

などと言われることはなく、

淡々と、出せなかったんだ、

仕方ないですねで終わり、

それ以降、手助けも温情もなく、

『終り』になると思われます。



絶対的な、物理的な正論なわけですから、

何らかの理由があって“出せなかった”方も

含めて、『出さなかった』という事実だけが

審査・評価が下され、一緒くたに公平、平等に

審判が下されることになります。



そして、その『記録』、さらに

『記録され続けていくもの』もまた、

今後は、『物理的な正論』と

なっていくと思われます。



データとして記録されるのは、

出したか出してないか、あるいは

それ以上のデータが付随される

かもしれませんが、基本的には、

0か1で表示される二進法で、

『処理』され、それが絶対的な評価、

つまり『正論』となっていくことが

予想されます。



回りくどい書き方をしましたが、

これを実に簡単に出来る状況にあるのが、

学問の世界となります。



学問の世界は、できたかできなかったかを

採点するのが実に簡単です。



テストを行い、点数化し、覚えたかどうか、

知っているかどうか、解けるかどうか、

『答え』との整合性を取ることによって

行えます。



そうは言っても、今は人的な判断が

必要なのもそうですが、

その『答え』に対しての『問い』の作成も、

人が行っているわけですから、まだまだ曖昧、

あやふやな部分はあります。



しかし、それをもしAI(人工知能)が

行うようになれば、一気に加速するように、

そのシステムが使われるようになると

思います。



実社会におけるAIの活用は、

各人種や文化、宗教や考え方、生き方と、

複雑な問題に汎用するには、まだまだ

時間がかかることでしょう。



しかし、学問の世界であれば、

世界共通のもの(答え)が多く、

また、『違い』も『違い』として

確立していることになっているために、

審査・判定するだけでならば、

データ化するのは容易くなると思います。



長々と何を言いたいか、

わかりづらかったかもしれませんが、

そうした世界、世代を迎えるにあたって、

『物理的正論』から逃げる方は、

差別に近い区別をされていくことが

懸念されるということです。



これを、今の学校教育、学生生活に当てはめると、

『与えられた宿題・課題』に対する結果、

『審査されるテスト・成績』の結果、そして、

それが『積み重なった過程』の結果が、

当てはまることになると思います。



要は、今の学校での、自分の状況・状態が、

さらには将来・未来が、『物理的正論』=

記録されたデータ、点数、成績によって、

決められていくことを示唆しています。



今でも、宿題を出したかどうかだけでなく、

実際にやったかどうかまで審査・評価され、

テストにおいて点数が記録され、

平常点などを含む成績が記録され、

進級・内部進学、あるいは、受験時における

合否が決められています。



これが、より簡易にデータ化される

ようになっていった場合、

今現状で出来ていない方は、

データ化によって、より『区別』

されるようになることでしょう。



空想科学のように書かせて頂きましたが、

こうした思想、考え方の土台が今まさに

作られているのではないか、少なくとも、

『環境』は整いつつある状況を考えると、

そうした結果に、結論、結末に

行きつくのではないかと懸念しております。



この日記で、大げさに書いている予言、

私立校・中高一貫校での悲劇、不幸=

進級・進学出来なかったことが、

その前兆とならないことを祈ります。



また、こうしたうるさい『精神的正論』などは

無視して構いませんが、記録されていく点数、

成績、テストまで、進級進学が決まるまでの

テスト・成績の残り回数、残り時間など、

『物理的正論』によって、追い込まれることに

ならないようにしておくことをオススメします。