やらない、やれないことが断罪、制裁される社会


今の世の中は、特に子供達に対しては、

一見すると、多くの機会と期待を

与えられた、素晴らしい環境下に

あると言えます。



本当に、社会、自治体、学校、親御さんと、

子供達の無限の可能性と未来・将来のため、

環境を整え、多くの機会を用意し、

その上で、強制、詰め込みではなく、

自由に、自主的に、何でもやれる、

出来るように整備されてきてはいると

思います。



と、同時に、その『何でも与えられる

状況・環境』のような社会において、

『与えられている』『自由にできる』

“にも関わらず”、やらない・出来ない

ということは、自己責任だという

押し付けができるようになっています。



言い方が悪いですが、

こうした一面だけを注視すれば、

社会、自治体、学校、先生、親御さんは、

『自分たちの責任回避』のために、

子供達に異常に甘く、そして、

自分たちが言い訳しやすいように、

あるいは、(他の人に)非難されない

ようにしているとも言えると思います。



今は身近な存在で、

それも決定権がある方が、

うるさく説教すれば、

ハラスメント、精神的虐待、

トラウマを植え付けたことになる

可能性がありますし、ゲームや遊びなどの

行動を制限することが虐待と

言われるようになってくると、

子供達が無法状態、暴徒化していくのを

止めることは出来なくなっていくでしょう。



それを何とかするのが

『教育だろう』と言われる人も

多いかと思いますが、教育には

色々な面があることを

無視されているように思われます。



教育には指導と洗脳の

二つの大きな側面があると言えます。



どちらも、子供達の思考、思想を狭める、

あるいは、拡げることが出来ますが、

どちらにおいても、行き過ぎれば、

子供達の人生に大きく影響することに

なると思います。



某国の反日教育などは、

指導というよりも

行き過ぎた洗脳と言えますし、

かつての日本の詰め込み型教育は

洗脳に近い行き過ぎた指導だったと

言えるとは思います。



そういった指導や洗脳を止め、

自由に伸び伸びと

子供達の能力を伸ばす教育を

となりますと、今度は教育水準の

画一化、審査・評価が難しくなり、

教育課程、システムなどを

抜本的に見直すことが

必要となってきます。



現状において、この教育課程やシステム、

審査・評価は、昔と変わらず、むしろ、

昔よりも厳しく複雑になってきていると

言えます。



しかし、教育思想や理想の教育環境は、

その逆に、自由に、個性を認め、

例外を生み出そう生み出そうと

しているように思われます。



それでも出る杭は打たれる

となっていた社会、世界よりは、

良くなっているように思われますが、

その反面、やれる・出来ることを

前提にされていることによって、

救いようがない人は救われない

社会、世界になりつつあると思います。



今の『合理的』な考え方で言えば、

これほどまでの機会、環境が揃ってきた、

用意されてきた、与えられてきたのだから、

『やらない』方は、自業自得、自己責任だと

いうことには納得できる、される方も

多いでしょう。



ですが、やれない・出来ない方に対しても、

一定の基準、水準に当てはめて、

切り捨てられることになれば、

それは違う、それは社会が、制度が、

学校が、審査・評価が『間違っている』と

声を荒げられる方もいることでしょう。



今は、この両立を、うまくしようとしている

実験段階だと思いたいのですが、

おそらくこれは問題の矛盾となり、

両立することは不可能だと思われます。



やらない、やれない・出来ないも

『個性』の一つとするのであれば、

今の画一的な教育課程やシステム、

審査・評価の仕方は、

『適用』することが出来ません。



では、今の画一的な教育課程やシステム、

審査・評価の仕方を廃止して、

個性に合わせて、個人に合わせて、

教育を行うとなった時、元々ある

各個人の個性、特性の格差が、

審査・評価の対象となりますので、

やらない方はもちろんのこと、

やれない・出来ない方も、

救われないことになります。



例えば、全ての子供達が

スポーツをすることが義務だとすれば、

運動神経が良い方は、プロになるまでの

成功を修められたり、それなりに努力した方は、

学生時代の良い思い出として、

県大会、地区大会などで何位という

評価を受けられることでしょう。



では、努力しても出来ない、

なかなか成果が出ない方は

どうでしょう。



その方は予選敗退どころか、

出場すらさせてもらえないことになったり、

一体何のためにやっていたのか、

学生時代の貴重な時間を

無駄に費やしたとまで

思う方もいることでしょう。



やらない、やろうともしない方は、

その傾向が見られた時点で、

諦めるように、他の道、

他のスポーツを選ぶように

言われるでしょう。



これを『学校の勉強』に

置き換えるとどうでしょう。



この置き換えが、各個人の

個性、特性に合わせた教育だとは

言えないと思いますが、

同じようなことが起きることは

容易に想像できます。



つまり、勉強に適性がない

(やらない)方は、その時点で、

諦めてもらって、

勉強についていけない

(やれない・できない)方は、

時間を費やしてもらって、

適性が無いことを証明してもらい、

元々適性が無い方と同様の評価を

受けることになります。



残念ながら、私立校・中高一貫校の場合、

現状、この傾向に進みつつあると言えます。



それは明確な進級・進学要綱、基準によって、

そして、各学期の各定期テスト、成績の

『結果』『記録』によって、

合否が『決まって』しまうためです。



個性と画一的な教育との両立を

目指すとなれば、明確なクラス分けを行い、

クラス単位での授業内容、

審査・評価の仕方も変え、

進級・進学要綱、基準も変え、

最終的な進路、進学先、卒業要綱も

変えてとのことになり、

複雑な教育方針、学校運営を

することになります。



今はそれらを混在、あるいは

一部クラス分けで行っておりますが、

それでも、うまくいっているわけではない、

つまり、修学の遅れや進級・進学出来ない方が

出てしまうようになっています。



今後こういった管理を

AIによって行われるように

なるかもしれませんが、

そうなった場合の審査・評価は

機械的になり、個性は

『データ上の記録・結果』によって、

振り分けられることになります。



ここまでなれば、『やらない』方が

自己責任で切り捨てられ、

やれない・出来ない方を

救済する措置が検討されることに

なるとは思いますが、やれる・出来る方と

明確な格差がつくとなりますので、

当然ですが、その先の選択肢も、

『格差』がつくことになります。



今後は、大学の学部学科のように

●●校●●クラス卒業となり、

その『学歴』が、高校・大学の

進学先の選択肢、さらには

就職先まで決めるように

なっていくかもしれません。



すぐにそうなることはないとは思いますが、

私立校・中高一貫校の場合、

進級・進学コースなのか、

卒業コースなのかという

クラス分けが行われることも

考えられますので、

高校・大学付属校だからといって、

あぐらをかいていると、そのクラス分けで、

自分の進路、選択肢が決定して

しまうことになります。



学校の教育、運営方針によるかとは

思いますが、そうなった場合、

通っている学校で、しがみつくように

つまり高校・大学に進学は

出来ないことが決定してまで、

卒業だけするのか、

他校転校するかどうかを

今まで以上に迫られるように

なっていくことが予想されます。



現状のテスト、成績が

そう迫ってきているように

なっていることを考えると、

そこまで遠い将来では

ないようにも思えます。



公立校と異なり、

私立校・中高一貫校の場合、

そうした方針転換をするとなれば

早く行われることになります。



ひとまず、ここ数年は、

教育改革の対応となるとは思いますが、

数年後、切り替わる場合、今の中高生は、

その『検証』が行われる『実験世代』となります。



旧体制の教育システムと

新体制のシステムとで、

転換期を迎えることになると思いますが、

その犠牲者とならないように、

せめて、旧体制においての基準、条件を

クリアしておくことをオススメします。