映画年代史1979年
「映画の教室」by Masaaki Kambara
「映画の教室」by Masaaki Kambara
第906回 2025年11月28日
ボブ・フォッシー監督作品、原題はAll That Jazz、ラルフ・バーンズ音楽、ロイ・シャイダー主演、リランド・パーマー、ジェシカ・ラング、アン・ラインキング共演、カンヌ国際映画祭パルム・ドール、アカデミー賞美術賞・編集賞・編曲賞・衣装デザイン賞受賞、123分。
「ザッツ・エンターテイメント」と対応したようなタイトルからは、華やかなショービジネスの世界を描いたミュージカルを思わせるものである。実際には陰鬱な演出家の妄想がはばたく奇妙な映画だった。ボブ・フォッシーというブロードウェイで活躍した振付家の生涯を追った自伝映画である。
芸術家としては天才的なのだろうが、映像からは破綻した私生活が見えてくる。主人公(ジョー・ギデオン)には妻(オードリー)と娘(ミシェル)がいるが、妻は年齢を重ね距離を置いて、男の姿をながめている。
父は娘を愛するが、娘は父のセクシーな振付を前にすると、違和感をにじませている。主人公は若いダンサーとの浮気を繰り返し、それがパワーとなり、今までにない独自の作品をつくろうと情熱を燃やしている。
ダンサーは役をもらいたいと、必死で主人公に近づいてくる。家族は夫と父親の姿を見ながら、冷ややかな目で見ている。入院していても看護師にちょっかいを出す。好色なふるまいは私たちが見ていても、好感の持てるものではない。
自身のことを監督として描いているのだとすれば、自嘲的でもあるのか。プロデューサーや資本家も、その才能から援助を惜しまないが、非常識な側面に接すると、着いてはいけず呆れている。
はじまりはオーディションなのだろう、100人もの若者が舞台上で踊るのを、主人公も舞台にあがり、間近にいて審査している。なかには踊りになっていない素人も混じっている。人数が減り5名にまで絞られる。主人公の好みの娘たちが選ばれた。客席ではプロデューサーやスポンサーが、そのようすをながめている。
精力的にはたらくが、持って生まれた研ぎ澄まされた神経であるためか、心労が重なり心臓発作で倒れる。スケジュールの変更を余儀なくされると、ビジネスとして経費の損失分が余念なく計算されている。復帰した場合でも、何ヶ月後かで異なるし、死亡したときのことも考慮して、上演計画が練られていく。
主人公は病院を抜け出して舞台に向かうが、現実なのか病床で見ている妄想なのか、区別がつかないまま、振り付けが進み、ダンサーたちはみごとな踊りを披露する。元気な自分が病床の自分を見ている。
実際には病床にあったようで、胸をメスで切り開く手術の場面や、主人公の遺体がビニール袋で閉じられるラストシーンも生々しく、現実感を伴って強烈なイメージを残すことになる。
それはこれまでの心地よいミュージカルに、戦いをいどもうとするもので、このショッキングなまでの煩雑さが、見落とせないものだろう。「何でもかんでも」という、ジャズとは何の関係もないスラングを、タイトルに用いた意図が、重要なものとなる。
美しい踊りではない。悲壮な気分の漂った緊迫感に満ちている。ストーリー展開は、劇的な見せ場が連なるものではないが、個々のダンスが見せるパフォーマンスの輝きに酔いしれることになった。自伝を語る監督は最後は自分を殺してしまったが、実生活もこの映画をなぞるように、8年後に心臓発作で没した。
第907回 2025年11月29日
ジェームズ・ブリッジス監督、原題はThe China Syndrome、ジェーン・フォンダ主演、ジャック・レモン、マイケル・ダグラス共演、カンヌ国際映画祭男優賞受賞、122分。
タイトルだけを聞くと、今では米中の対立を思わせるものだが、原発事故の報道をめぐるテレビ局の対応を通して、社会正義について考えさせられる一作である。記者の良心が国家権力と結びついた、巨大な社会機構にどこまで抵抗できるかという問題でもある。
主人公は視聴率向上に貢献する、人気の女性キャスター(キンバリー・ウェルズ)だった。バラエティの取材が割り当てられるが、本人は硬いニュース報道を担当したいと思っている。原子力発電所の取材が入り、旧知のフリーカメラマン(リチャード・アダムス)と組んで乗り込んだ。
初心者向けに発電のしくみなどを、わかりやすく説明していく。内部は撮影禁止になっているが、カメラマンは黙って盗み撮りをしていた。突然、揺れが起こり、危険を知らせる警報と電光掲示がはじまる。
操作室を窓越しに見ていたキャスターは驚くが、よくあることだという説明がなされて、落ち着きを取り戻す。にもかかわらずカメラは動揺する責任者(ジャック・ゴデル)の表情をとらえていた。計器の数値が戻らないままで、放射能漏れによる事故が判断された。
何とかおさまったが、映し出したフィルムは明らかに事故によるパニックを証言していた。カメラマンとキャスターは特だねを手に入れたと興奮して、ニュースとして報道しようとする。
テレビ局に持ち帰り、原稿を書いて特番として企画を持ち上げるが、上司は慎重だった。発電所内での規定では、無断撮影は重罪にあたると書かれていた。新しい原発の建設も同じ会社により進められており、原発建設の反対運動が起こることは避けたかった。
政府も同調することで圧力を加えてくる。カメラマンは社会正義を振りかざして抵抗する。テレビ局幹部はフリーでなければ解雇すると息巻いている。キャスターに調停が命じられ、自分はこの仕事が好きで辞めることはできないと伝えた。
カメラマンはキャスターの弱みをなじり、保管してあったフィルムを盗み出す。原発建設の反対運動側に持ち込んで、専門家に内容を分析してもらおうとした。
キャスターも心苦しく、真実究明に立ち上がり、発電所の責任者を直接、訪ねて取材をする。強気の発言だった。電力の恩恵を被っているのなら、10パーセントは原発が担っていて、その分自分にも感謝しろと言う。
責任者ははじめは立場上、事故を否定するが、ことの重要性に気づき、実際に体感した、揺れの実感に恐怖する。アメリカでの放射能漏れは、地下を通過して、地球の裏に位置する中国にまで達する。
地球規模の破壊は、チャイナシンドロームの名でも語られるものだ。事故を示す証拠品を公にしようと、反対集会に持ち込もうとした。仲間に託すが、運搬中に謎の事故を起こして奪われた。責任者はみずからが車を走らせるが、阻止され命の危険を感じ取ると、発電所に逃げ込んだ。
部下たちは会社側の指示に従って、稼働を続けていた。危険な状態にあり、責任者はガードマンの銃を奪って操作室に立てこもり、仲間を追い出した。テレビ局が事態の収拾に乗り出し、キャスターを向かわせる。
責任者の逮捕が目的だったが、テレビ番組として中継することを提案して、準備がされていく。犯人は原子炉を人質に取って、テレビカメラを入れるよう要求する。
放射能事故の恐怖を広く伝えようとしたのだが、会社側は狂人による立てこもりと主張することで、武装したスワットの出動にも至った。キャスターが司会者となり、乗っ取り犯にマイクが向けられる。中継がはじまり、ここで起こった事故について語りはじめる。
複雑な前置きを伝えて、本題に入ったとき、テレビ回線が切断され、扉が焼き離され、狙撃隊が突入して、責任者は一撃のもとで即死してしまった。事態は収拾したというアナウンスを聞きながら、押しかけてきた報道陣が質問を投げかけている。
キャスターもマイクを握りながら、責任者の真実の声を代弁する。かつてそのもとで指示に従い、その後権力に屈した同僚(テッド・スピンドラー)も、悔いを残すが、単独犯の狂気による犯罪という結論を、くつがえすものにはならなかった。
第908回 2025年11月30日
スティーヴン・スピルバーグ監督作品、ロバート・ゼメキス、ボブ・ゲイル脚本、ジョン・ウィリアムズ音楽、ジョン・ベルーシ、ネッド・ビーティ、ダン・エイクロイド、三船敏郎出演、118分。
1941年12月の真珠湾攻撃後のアメリカ本土での、日本が攻めてくるという恐怖を描いたコメディ映画。ことに西海岸のカリフォルニアでは危機感が増していた。暗がりのなかで寒中水泳をしている若者に、煙突のようなものが浮き上がり、すがりついていると、浮上してきた日本の潜水艦の潜望鏡だった。
シリアスな内容であるのだが、ドタバタ喜劇の様相を呈している。潜水艦の艦長(三田村昭郎中佐)を演じる三船敏郎だけが、興奮気味に号令をかけている。アメリカ兵の対応と対比してみると、ひとり浮き上がって見える。
酒場での水兵と空軍兵士どうしでの乱闘は、迫力に満ちていて熾烈を極めるが、独自の世界に埋没している。戦争が始まっていて、日本軍が攻め寄せてくるという危機感は見られない。
軍関係の飛行機好きの女性(ドナ・ストラットン)に声をかけて、ものにしようとする兵士(ルーミス・バークヘッド大尉)は、何とかして戦闘機に誘い込もうと必死になっている。
搭乗するとこの女は興奮状態になるようで、セクシャルなほのめかしを伝えて女を誘っている。ひとまわり大きな機種(B-17爆撃機)に乗り込むと抱き合いながら、これは滞空時間が長いと言って、自身の精力の強さをアピールしている。
ゼロ戦が飛んできたかという問いかけが出てくると、日本の戦闘機の威力が暗に評価されていることがわかる。日本のほうも、潜水艦内での会話から、ハリウッドをねらうという点で、共通の想いを伝えていて、敵とはいえ映画産業に寄せる興味は、世界に共通し一貫したものだった。
ストーリー展開を楽しむものではなく、登場人物も多くて群像劇ということになるだろう。魅力的な人物像が輝きを放つというわけではないので、筋を追って語る気にならないというのが、正直なところだ。スピルバーグの監督作品としては、コメディがとってつけたような印象を残し残念だった。
人物に比べて、潜水艦の登場はジョーズの出現を思わせて、わくわくさせるものがあった。これをもっと効果的に写し出すことができたのではないかと思う。日本の潜水艦だが、ドイツ人が乗り込んでいて、いわば借りものだった。まだまだ日本の技術力をもってしては、対等に戦えるものではなかったことがわかる。
真珠湾攻撃を扱ったアメリカ映画は数多い。ヒロシマ・ナガサキをさておいて、日本に対して戦争責任を問う場合の格好の材料だった。潜水艦による偵察も頻繁におこなわれていたのだろうが、その動向については、十分に把握されていて、余裕をもって対応策が練られていたように見える。
第909回 2025年12月1日
リドリー・スコット監督作品、ダン・オバノン脚本、原題はAlien、シガニー・ウィーバー主演、トム・スケリット、ヴェロニカ・カートライト、ハリー・ディーン・スタントン、ジョン・ハート、イアン・ホルム、ヤフェット・コットー共演、アカデミー賞視覚効果賞、サターン賞(SF映画賞、監督賞、助演女優賞)、ヒューゴー賞映像部門受賞、117分。
宇宙船が地球に向かって帰還中に起こった出来事である。7名の乗組員のうち主人公の女性飛行士(エレン・リプリー)だけが生き残る。エイリアンという地球外の生命体との戦いを通じて、理由なき恐怖と立ち向かう勇気について考えることになる。
高邁な飛行目的はなく、荷物を運搬する貨物船だった。船長(アーサー・ダラス)以下、会社に雇われの身で、帰還後に支給されるボーナスの話題をしている。単純作業の乗組員もいて、給料が半分しかないことに不満をぶつけている。
軌道を外れていることに気づくと、マザーと呼ばれる拠点から送られる、コンピュータの指示があった。SOSを求める連絡があってその探索に向かうことになる。数名の隊員が降り立って徒歩で移動すると、その一人の顔に張り付いてきた異物があった。
何本もの脚があり剥がそうとするが難しく、そのまま宇宙船に連れ帰る。異生物を機内に入れることは、規則上できなかったが、隊員(ギルバート・ケイン)の身の安全を考えて、機内で機械を用いての処理となった。
機長は判断をせず、科学専門家(アッシュ)に任せたことに、主人公の女性乗組員は不満を感じはじめている。機内に持ち込むことで、全員の安全が脅かされることを懸念したのである。蟹のような脚をもったバケモノがタコのように、顔に張り付いていた。
脚を一本切断すると中から液体が出てきて、煙を上げて床の金属部分を溶かし始めた。あわてて床下にある階下の部屋に移動して何とか食い止めることができた。強い酸をもつ血液であり、敵に対する防御としては優れた機能だと、科学者は感心している。
これ以上、脚は切断できず、顔を覆い固まりかけて仮面のようになった部分を、力づくで割ることができた。隊員の顔は元のままに戻っていた。隊員は元気を取り戻したように見えた。
同じようにみんなと食事を取っていたときに異変が起こる。まずいはずの宇宙食を猛烈な勢いで食べていたが、突然胸を押さえて苦しみ出す。シャツが赤く染まり、外すと皮膚を突き破って、内部から小動物が歯を剥き出して、飛び出してきて逃げ去ってしまった。驚いた隊員たちはどこに逃げたのかを、手分けして探しはじめる。
船内には猫(ジョーンズ)が一匹乗っていて、隊員たちの心を癒やす存在だった。エイリアンが猫と同じ大きさだったことから、暗がりにいるのが、どちらなのかがわからず、見ている私たちに恐怖と緊張を強いることになる。
猫の鳴き声を聞いて探しに行った隊員(サミュエル・ブレット)が次の犠牲になった。最初の犠牲者は丁重に白い布にくるまれ、宇宙に向けて埋葬されていた。永遠に宇宙空間を漂うのかと思うと、ゾッとする一瞬である。
エイリアンははじめ小さかったが、急速に成長をしていったようで、人間の大きさにまでなっていた。ギーガーのデザインした恐ろしい形相なのだが、その全体像は見られない。いつ現れるかという恐怖心が加速される。歯を剥き出しにした顔のクローズアップにあわせて、異様な唸り声が聞こえる。
小さい時に息の根を絶やして宇宙に放り出そうとしたが、科学者は生捕りを主張した。この時も船長はこの考えに従った。科学者の発言と行動が、不自然なものに見えてきて、その正体が暴かれていく。女性飛行士がマザーに問いかけるが、科学者にしか答えないという反応を示した。
科学者は会社側が送り込んだロボットだった。女性飛行士を襲ったとき、救いに入った隊員に倒されるが、体内はエイリアンかと思わせるような粘液と機器が埋め込まれていた。エイリアンを地球に連れ帰り、兵器として使おうとする国家戦略に従うものだった。
3人の男が減り、男は船長と兵器係の黒人(デニス・パーカー)、女は主人公ともう一人(ジョーン・ランバート)の計4人になった。バケモノは火に弱いはずだと言って、船長は退治に向かうが、逆に命を落としてしまう。
残る3人は宇宙船を捨てて、脱出用カプセルに乗り込んで逃げる手はずを進める。本船は爆破させてエイリアンもそれと共に葬ろうと準備をすすめる。爆破装置を10分に設定するが、その間に巨大化したエイリアンに仲間は捕らえられ、主人公だけが生き残る。
猫を置き去りにしていたことを思い出すので、見ているこちらまでがハラハラすることになる。カプセルに乗り込んで、猫を先に眠りにつかせる。やっと終わったと思ったときに、小さなエイリアンがカプセルについて入ってきていたことに気づく。
増殖しているのではという恐怖を誘う。ガスを用いて、さらには矢を発射させて仕留め、宇宙に放り出すことができた。自分だけが一人生き残ったと地球に連絡を入れる。不時着をうまく見つけてくれと伝え、眠りにつくが、無事帰還できるだろうか。
エイリアンの恐怖は、外からの攻撃だけではない。胎内に卵が産みつけられているのではという怖れを残して、地球に蔓延していく図を思い浮かべることになる。
第910回 2025年12月2日
ロナルド・ニーム監督作品、原題はMeteor、スタンレー・マン、エドムンド・H・ノース脚本、ショーン・コネリー主演、ナタリー・ウッド、カール・マルデン、ヘンリー・フォンダ共演、123分。
隕石(メテオ)が地球にぶつかるのを回避するパニック映画。自然災害に立ち向かうだけの話であり、陰謀や悪意がないことから、人間ドラマにはなりにくいものだ。冷戦下の対立関係にある、アメリカとソ連が協力しあうという点に、人類の存続をかけた、地球防衛の意義を認めることになる。
5年前にアメリカの航空宇宙局を退職した科学者(ポール・ブラッドレー)が、ヨットレースを楽しんでいた最中に呼び出される。退職理由が気になるが、この科学者の発明が、軍事利用されたことへの道義的憤りからだった。呼び出されたのは、今度はその発明を利用して地球滅亡の危機を救うという計画によるものだった。
気が進まないまま出かけると、起こっている事故が報告される。火星と木星のあいだにある小惑星群が軌道を外れて、地球に向かって進んでいた。その道筋に宇宙船が位置していたので、緊急の移動を命じられる。
通過する無数の隕石をながめていると、彗星が飛んできてそのうちの一つ(オルフェウス)と衝突する。飛び散った破片が宇宙船にぶつかって、通信が消えてしまった。そこまでの一部始終を映像が映し出していた。
本部にいた司令官は、遠くまで離れずに隕石の通過を観察するよう、指示していたことを悔やんだ。行方不明者となった乗組員には、宇宙局幹部である将軍の息子も含まれていた。
隕石のうち最大のものは、長さが8キロもあり、それがまともに地球に向かっていた。ぶつかると水や地表が舞い上がり、太陽をさえぎって氷河時代がくると予想された。
それを回避するために、ミサイルをぶつけて、軌道を変える計画(ハーキュリーズ)が練られる。かつて主人公が考えたのは、そんな隕石を撃ち落とすための、ミサイルを組み込んだ衛星だった。
そのミサイルが今では、地球の方を向いていて、ソ連の脅威に対していた。国際法違反であったが、秘密裏に開発されたものだった。この計画が知られると、ソ連からの報復も予想される。
大統領が助言を引き受けて、ソ連との交渉をおこなう。ソ連からも科学者を出して、両国が力を合わせる方向性を見つけることができた。ソ連も同じようにアメリカに向けたミサイル計画(ピョートル大帝)を、宇宙空間に持っていることもわかった。アメリカよりも早く開発されたものだった。
ソ連から権限をもった科学者(デュボフ博士)が送られてくる。ニューヨークに招き入れるが、軍幹部(アドロン将軍)は組織内を見せることに躊躇している。宇宙局幹部が主人公に引き合わせると、ロシア語は通じなかったが、同じ研究者仲間であり、通い合うものがあった。
通訳として同行していた女性学者(タチアーナ)に、主人公は惹かれていく。夫は宇宙飛行士だったが亡くなって、今は独身だという。主人公も子どもはいるが、妻とは別居中だと伝えた。
世界各地から事故の情報が入ってくる。軍人たちの対応からロシア人ははじめ協力には否定的だったが、地球規模のこととして考えはじめていく。スイスでは隕石が雪山を直撃し、雪崩を引き起こし大惨事となった。太平洋に落下した隕石は、高さ30メートルの津波となって香港を襲った。
ミサイルの方向が宇宙に向けられ、巨大隕石に狙いを定める。ロシア側が先に発射して、アメリカが遅れてダメ押しをする。同程度の破壊力だったが、一方だけでは力不足だと判断された。ロシアが順調に行路を定め、アメリカが続くが、何基かは故障を起こしていた。このとき連絡が入って、隕石の一つがニューヨークに向かっていることが報告される。
カウントダウンが終わり、発射したとたんに揺れが起こり、ビルが崩れはじめた。ニューヨークは壊滅し、軍の将軍も命を落とした。将軍は隕石が地球にたどり着くまでに燃え尽きるのを見て、立てられた計画を受け入れなかった。ロシアへの警戒も強めていたが、その後、ロシアの協力を目の当たりに見て、自身の非を詫びることになる。
主人公は先頭に立って、宇宙局が秘密裏に建てた、地下の拠点からの脱出を試みる。地下鉄に沿って避難路を切り開いて仲間を導いた。ことにロシア女性の安否が気にかかる。博士とともに無事にいて、事故の収束後ロシアに帰っていく。
飛行場での別れでは、何気なく見せかけながら口づけをしていた。専用機のタラップを上りながら、あなたはやがてニューヨークに戻って来るだろうと適切な観察をすることで、博士は女心を言い当てていた。
第911回 2025年12月3日
ハル・アシュビー監督作品、ジャージ・コジンスキー原作・脚本、原題はBeing There、ピーター・セラーズ主演、シャーリー・マクレーン、メルヴィン・ダグラス共演、アカデミー賞助演男優賞、ゴールデングローブ賞主演男優賞・助演男優賞受賞、130分。
映画タイトルから、機会あるいは運(チャンス)という意味かと思っていたが人名だった。原作名は「そこにいること」という哲学的な暗示を含んでいて、知的障害なのかもしれないが、何の利害もなく、そこにいることの意味を問おうとしている。
謎めいた人格であり、最後まで何者だったのかを考えることになる。はじまりは屋敷にいる黒人のメイド(ルイーズ)が、主人公にこの家の主人が死んだと知らせるところからである。
メイドは大あわてをしているのに、こちらは落ち着き払っている。きちっとした身なりから、執事なのかと思っていたが庭師だった。主人が死んだのでメイドは家を去る。主人公には早く結婚をするように言い置いて、若い娘はだめで年配の女にするよう忠告していた。
男は一人残って、いつものように楽しみのテレビを見ながら過ごしていた。法律事務所から若い男女がやってきて、立ち退きを迫られる。誰かと聞かれて庭師だと答える。書類を見るが雇用されていたのはメイドだけだった。
いつからいるのかと問われても、昔からという曖昧な返事だった。親類縁者でもなく怪しまれる。自分の部屋を見せて、そこにある道具類から身の証をするが、疑いの目で見られる。いずれにしても明日までに出ていくように言い渡された。
ボストンバックひとつで家を去り、街をうろつく。黒人の少年たちとトラブルになると、わけのわからない言動から追い払われている。少年たちに向かって、庭師の仕事はないかと尋ねていた。
郊外の邸宅とは異なり、庭とは縁のない界隈だった。今度は通りのショーウインドウのモニターに映った、自分の姿をおもしろがって夢中になり、後ずさりしたところを車に引かれる。
乗っていた貴婦人(イブ・ランド)が病院に運んで手あてをしようとする。途中で気が変わり、味気ない病院を避けて、自宅に向かうことになる。おかかえ運転手による高級車で、着くと大邸宅だった。主人(ベンジャミン・ランド)がながらく病床についていて、医師(ロバート)も常駐し、病院のような設備を備えていた。
医師が手あてをしながら、金目当てではないのかと疑ったが、身なりは整い物腰も柔らかだった。仕立ての良い衣服を問われると、亡くなった主人のおさがりだと答えていた。
邸宅での療養となるが、主人が姿を現しての食事で、落ち着いた受け答えに感心し、一目置かれることになる。気に入ったことから、主人は旧知であった大統領が訪ねてきたときに、同席させ紹介する。国を左右する難問にも、庭師の知識を用いて、自然の植生になぞらえて答えることで、大統領にも気に入られる。
重要ポストに抜擢されることにもなり、主人夫妻は誇らしく思い、ことに夫人が近づきはじめる。邸宅には広い庭があり、その手入れも頼むことになるが、私的なつきあいにも深入りをしていった。病床の主人は年齢差のある妻の、情欲をよく理解していた。
夫人から迫られても主人公は欲情を感じないでいた。テレビを見たくて、リモコンを握りしめている。この姿を禁欲的な抑制と勘違いして、夫人はますます情熱的になっていく。以前メイドが若い娘とは結婚しないようにと忠言したのは、主人公の性の淡白を見抜いていたからだった。
マスコミからの取材を受け、社交界にも顔を出すようになる。病床の夫の代理として、夫人と同伴する姿が見られる。ロシアの高官との席では、黙ってうなづいただけだったが、ロシア語も堪能だと勘違いされ、やがて12ヶ国語もあやつる才人だという噂も飛び交う。
「庭師のチャンス」だと自己紹介をしたつもりだったが、大層な氏名(チャンシー・ガーディナー)と聞きちがえられた。大統領が持ち上げるこの男は一体何者だと、マスコミは騒ぎはじめる。経歴を探るが何も見つからない。FBIやCIAまでが捜索をはじめるが、前歴を見つけることはできなかった。
庭師のことばとして、花や樹木になぞらえて、政治や思想を語る姿は、型破りで評判を呼んだ。新聞記者からの取材では、新聞は読まないと言って驚かせる。ただしテレビは好きだと言うと、これまでにない新しい人格の誕生だともてはやされる。
テレビの取材から顔が知られるようになると、過去を知るかつての同僚のメイドや法律事務所員などの目にも触れていく。黙っておれなくなって、無能で愚鈍な男の正体を暴き出したくなってくる。
とはいえ私たちもその正体を知っているわけではない。死を前にして二度目の主人は、妻を主人公に託していた。一度目のときも主人の死について驚きもしなかった。
その姿はすべてを見通した「死の天使」と呼べるものなのだろうと思う。手にはいつもテレビのリモコンをもっていて、つまらなくなるととたんにチャンネルを変えていた。はじめの屋敷にあったテレビの専用リモコンなのに、万能に使える奇跡のアイテムに見える。
最後には超能力を披露する。キリストにも似て、水上を歩いて去っていった。あたりまえのように歩いていて、途中で手にしていたステッキを、かたわらの水面に突き刺す。深く入り込んでいくのを見て、私たちもこの男の正体に気づくのである。
第912回 2025年12月4日
シドニー・ポラック監督作品、原題はThe Electric Horseman、ロバート・ガランド脚本、ロバート・レッドフォード、ジェーン・フォンダ主演、120分。
ロデオの世界大会に5回連続で優勝したカウボーイ(サニー・スチール)の、その後の生涯を追う。マスコミからの注目を集め、スポンサーもついて、CMスターとして活動している。収入もよく、かつてのヒーローとは思えない、堕落した生活を送っていた。飲んだくれの日々で、まともに馬にも乗れない状態で、代役も用意されている。
邦題は男女の恋愛を思わせるものだが、原題は見せ物と化した人気者のなれの果てを意味している。電気の点滅する派手な衣装で登場しては、歓声を浴びているが、自分でもやりきれない思いでいる。妻からは離婚を切り出され、新しい恋人ができたのだと言われた。
スポンサーになったのはシリアルの会社(アムコ産業)で、牧場のさわやかな朝をイメージさせて、売り出していたが、主人公の態度の悪さに降板も考えられはじめた。
人気は一人歩きをしており、その密着取材を試みようとした、テレビ局の女性キャスター(ハリー・マーチン)がいた。隠れながらの観察を通じて、ようすがおかしいことに気づき、主人公を知る仲間にも取材を続けていった。本人にも近づいていくが、マスコミを嫌っているようで、印象はよくなかった。
名馬として名高い競走馬(ライジング・スター)も、同じスポンサーの持ち馬だった。べらぼうに高い値段(1200万ドル)で獲得していた。主人公とともにスポンサー企業の顔とされていた。毛並みをなびかせて疾走する姿は美しく、絵になるものだった。
主人公と同じようにキラキラと輝く衣装で飾られていた。近づいてみると、精彩を欠いているように見え、足を見て驚く。注射がされて安定剤が施され、これまでの栄光はもはや望めないような、処置がされていた。闘争本能をなくし、薬剤の効果は子孫を残せないことにもなり、主人公はスポンサーの対処を許すことができなかった。
自分自身と重ね合わせることで、もう一度自然に返すことを思いつく。発作的にこの馬を連れて逃げ去ってしまう。会社側は主人公の態度を見兼ねて解雇する予定でいたが、馬については高額な買い物でもあって許せなかった。
盗難として警察が動く。馬ははじめ借りたトラックに乗せていたが、警察の手配が広がると、この名馬に乗って逃げることになる。何台ものパトカーや白バイとの追跡劇も迫力に満ちたものとなった。
女性キャスターも逃亡先を見つけようと、男の友人関係を探っていく。主人公を見つけて、妻や友人の名を出すと、その取材能力に驚いていた。独占インタビューを試み、カメラをかついで押しかけて来る。
会社側が馬に施した不正を、カメラの前に立って説明する。録画を終えるとキャスターは近隣の局を聞きつけてフィルムを持ち込む。放送されるとこれによって会社の打撃が予想されたが、逆に話題となりシリアルの売れ行きが増加してしまった。
会社側はキャスターに逃亡先を聞き出そうとするが、明かすことはない。スポンサーとして多額の出資をしていることから、テレビ局のほうに圧力をかけていく。主人公は馬を自然に帰そうとしていたので、キャスターはその現場を何とかカメラにおさめようと思う。
キャスターは警察の手が伸びていることを知らせに、主人公のもとに戻っていった。逃亡の手助けをしたことから自分も同罪だと考え、行動をともにしていく。警察の張り込みがあり、車での移動は難しく、徒歩での山越えとなる。
主人公がふと漏らした谷合の名(リムロック・キャニオン)から、そこで馬を開放するのだと判断して、隙を狙ってテレビ局に知らせ、撮影班の手配をしていた。主人公と野宿をするなかで、馬への想いと立ち直ろうとする男の姿に打たれて、心を通わせ口づけをするに至る。
キャスターは重い機材を用意していて、車を捨てたあとも自力で担いでいたが、主人公は思い切って川に投げ込んでしまった。愛を交わしたあとであり、女は何も言えないでいた。
男はここで馬を解き放とうと言った。野生の馬の群れが通り過ぎた場所だった。他の雄馬に負けるなと励まして尻を叩いた。女のあてははずれ、撮影班への連絡のことも正直に語った。男は憮然としたが、それ以上に馬が自然に帰る姿を、感動的に受け止めていた。
これからどうするのかという問いに、男は放浪を続けることを示唆した。女はバスに乗ってテレビ局に戻っていく。番組では男を紹介して名馬の行く末を伝えていた。男はテレビを見るようにすると約束したが、その前にテレビを買うとも言っていた。放浪を終えて、落ち着き先を定めるという意思表示だったのかもしれない。
第913回 2025年12月5日
クロード・ルルーシュ監督・脚本、原題はA Nous Deux、フランシス・レイ音楽、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャック・デュトロン主演、113分。
男と女の逃亡劇。男(シモン)はギャングのボスの息子、女(フランソワーズ)は娼婦だった。ともに警察から追われ、二人でフランスからアメリカまで逃げていく話である。男は父親のことを知る仲間からは、よく似ていると言われている。
犯罪に手を染めるのも、悪い遺伝子が入っているからだと、息子は嫌悪している。幼い息子を抱き寄せてかわいがる父親の姿があったが、女には偽りを語っていた。自分が父親を殺し、そのあと母親は自殺したと言った。
女の父親は男の素性をよく思っていない。法を守って金を手に入れることはできないのかと問いかける。薬剤師の家だった。女も娼婦になる前は薬剤師だったが、暴行を受けたことから人生が変わった。
刑期を終えて刑務所から出てきた男が、高い塀に沿って歩く姿が映し出されている。女は車で迎えに来ていて、5歳ほどの娘を連れている。娘は先に駆け出して、男が抱き上げている。
男の服役は10年だと言っていたので、娘の年齢とは合わない。女が歩いてきて男を迎える。両親も来ているのだと言う。淡々としたことばを交わしたあと、娘夫婦の後ろ姿を見ながら、母親が父親に向かっていい人ですねと同意を求める。
父親は嫌悪感をにじませて、家族にはしたくないと言って、男に向かってピストルを発砲して殺してしまう。驚くような光景だが、女はそんな夢を見たのだと、男に語っている。現実と非現実が錯綜する構成がおもしろい。
男は脱獄をして、叔父の家に逃げ込んでいた。叔父は酒場のピアニストであり、才能のある主人公を、自分の息子よりもかわいがった。息子は嫉妬のあまり、父親を裏切り、警察に通報して叔父は捕まってしまう。
叔父はいなかの農家に身を隠させて、そこで出会うのが、高級娼婦だった。叔父は高いぞと言いながら、いい女だと紹介する。政府の高官や財産家を相手に、詐欺師のように金を巻き上げて、警察からも追われていた。
二人は逃亡という目的を共有して、犯罪に手を染めていく。南仏の海ではバカンス客の船をねらった。フランス版のボニー&クライドだと言われるように、事件を繰り返していった。
女は犯罪は嫌だと言って、別行動を取ると、警察に捕まり、パリに護送されることになる。聞きつけると男は列車に乗り込んだ女を奪い返す。南仏からカナダに向かう密航船の手配に成功し、二人分の費用を払っている。氷山をかき分けて船は進んでゆく。コンテナに隠れての移動だったが、外気は零下32度だった。
陸伝いに歩いてカナダからアメリカに入り、ニューヨークに向かう計画だった。車を掠奪したのは、四人組男女の不良グループからだった。カフェに入るとフランス女に興味を持って、じろじろとながめている。男は英語ができなかったが、女は話せた。
「車の鍵」という英語を、教えてもらうと、男は不良たちに向けて発し、銃で脅して車を奪い、逃げ去ってしまった。すぐに警察に通報して、モーテルに入った頃には、21号室だったが、部屋のまわりは包囲されてしまう。
包囲されたという警告を聞きながら、5分間のあいだに男は逃げる方法を考えている。人質を取っていると言って、車を2台用意させ逃げ延びる。その手際の良さは父親を越えるものだった。
何台もの車を奪って足がつかないようにしたが、女は犯罪はもう嫌だという。女の思いを受け入れてヒッチハイクで、一路ニューヨークをめざす。トラックの運転手からは、職業を問われて学生だと答えていた。
トラックのなかで女は夢を見ている。ヒッチハイクで止めた車がパトカーであり、撃ち殺された夢を語った。女は子どもの頃からチェロを弾いていたが、音楽会をしていて、男が伴奏をする夢も見る。
子どものときには燃えるチェロを弾いている夢を見て、おびえるのを母に抱きかかえられていた。130回も車を乗り換えた末に、雪景色も消えニューヨークのビル群を遠望する場所まできて、タイトルの「私たち二人に」捧げるテーマソングが流れて、映画は終わった。
第914回 2025年12月6日
フランチェスコ・ロージ監督作品、イタリア映画、原題はCristo si è fermato a Eboli、ジャン・マリア・ヴォロンテ主演、モスクワ映画祭グランプリ受賞 、151分。
タイトルはイタリアの駅名である。原題は「キリストはエボリで止まった」とある。キリストもやってきたのはエボリまでで、そこから先は別世界のように思われたということだ。舞台は1935年の南イタリアのガリアーノである。
このひなびたいなかの駅に降り立ったひとりの男(カルロ・レーヴィ)がいた。かたわらには制服姿の男が付き添っている。駅のホームに座り込んだ犬が一匹いて、頭を撫でてやると、名札が目に止まる。
名前とともに優しくしてくれというメッセージも付け加えられて、捨て犬なのだとわかる。頭を撫でられたことからか、どこまでもついてくる。バスに乗り替えると、同じように乗ってきて、離れて座っている。
バスのなかでは首輪もしていない犬を、追い出すよう声も上がるが、思わず男は自分が飼い主だと言ってしまった。バスで終点まで行き、そこからは車が用意されていて、さらに奥地の村にまで入り込んでいく。犬を飼えるだろうかと心配すると、権限のある村長(レイジ・マガローネ)に聞いてくれという返事だった。
運転手に宿はあるかと尋ねると、縁故の家があって、引き受けてくれる手はずになっていた。大きな部屋に通されて、いくつかベッドが置かれていて、どれでも好きなものをと勧められた。
この男は誰なのか、何のためにこんなひなびた地にまでやってきたのかという疑問が、やがて解き明かされていく。男は政治犯であり、ローマを追われて、この村に隔離されることになっていた。村には同じような身の上の者が集められていた。
村のようすを歩きながらながめてまわる。村はずれまでくると、監視の目が光っていて、これより先には進めないと言っている。農民たちの生活や年中行事がつぶさに映し出されている。
イタリアのネオリアリズモの映画運動を、踏襲するカメラワークは、その土地に住む人々の生身の表情を映し出し、ドキュメンタリーを見るようなリアリティを伝える。アップになった農民の、生き生きとした顔がいい。
主人公は医者ではなかったが、医学部を出ていた。そのことを聞きつけた村人が、病人を見てくれとやってくる。自分は診ることはできないと拒否するが、町の病院までは、間に合わないと言う。
診ると腹膜炎だった。手遅れとなったが、痛み止めの注射などで手を尽くした。感謝されその後も病人が出ると、村人たちは頼ってきた。この騒動を聞きつけると、村長が圧力を加えてくる。
村人たちは広場に集まって、抗議をしはじめる。主人公は自身の立場が悪くなることを恐れて引き下がった。今度は村長の子どもが病気にかかり頼ってくる。ことに村長夫人が必死だった。村人を診察してもよいことを条件に、診察に出向いた。
主人公は医者にはならずに、画家になっていた。広い家に移ると、食事をはじめ身の回りの世話をするのに、メイドを雇いたいと思い、やってきたのは、幼い男の子を連れた女(ジュリア)だった。たくましい女だったが、聞くと20回近い妊娠経験があり、夫はみんなアメリカに行ったままだと言う。
彼女に興味を持って、モデルになってくれと頼むが、固く拒否する。強く迫ると母親が責められていると思って、子どもが泣き出す。感受性の強い子で、主人公との相性は良くない。泣きべそをかくと、絵を描くのに邪魔になる。泣かされたのだと思って、母親がやってきて部屋を移動させなだめている。
その界隈の土地持ちがやってきて、大部屋の空いているベッドに泊まったことがあった。身の上話をしあうなかで、主人公の考え方も明確になってくる。主人公には姉(ルイザ)がいてようすを見にやってきた。彼女も医者であり進歩的な考えの持ち主だった。心配しながらも励まして勇気を与えて帰っていった。
イタリアのアフリカ侵略が成功し、その恩赦から、主人公の幽閉も解かれる。一人ずつ名前を呼ばれ、最後に主人公の名が上がると安堵した。二人の仲間が残っていたので聞くと、コミュニストは該当しないという回答だった。
自由は得たが軍事的侵攻による恩恵に、主人公は手放しで喜ぶことはなかったはずだ。メイドの息子とも打ち解け、村人たちに惜しまれながら去っていった。
複雑な表情で見つめる、子どもを描いた絵が残され、回顧するようにその後も、画家の手もとに置かれている。都会生活に戻るのだろうが、イタリアではまだファシズムによる軍事政権は続いている。
第915回 2025年12月7日
フランコ・ゼフィレッリ監督作品、原題はThe Champ、ウォルター・ニューマン脚本、デイヴ・グルーシン音楽、ジョン・ヴォイト主演、フェイ・ダナウェイ、リッキー・シュローダー共演、ゴールデングローブ賞新人男優賞受賞、123分。
元ボクシングの世界チャンピオン(ビリー・フリン)が今は、競馬場で働いている。30歳でボクサーをやめて、今は37歳になっている。8歳になる一人息子(TJ・フリン)がいるが、ある日ボクシングジムから連絡があったのを聞きつけると、息子は父親がボクサーに復帰するのだと思って大喜びをする。
父親もその気になって出かけていく。昔の仲間がいて、なつかしがるが、ジムのボスは不在で、誘っておいてと腹を立ててしまう。酒を飲んで酔っ払って帰ってくる。
7年もブランクがあれば復帰は無理だろうとの声が聞こえる。息子は父親の生き生きとした輝く姿を見たいと思っているが、酒とギャンブルに身を持ち崩していて、子どもの貯めていた20ドルの貯金まで手をつける始末だった。
息子は自分一人の貯金ではなく二人のものだといって、父をかばおうとする。父親は自分の誇りであり、今もチャンピオン時代を讃えて「チャンプ」と読んでいる。
ギャンブルに勝って大儲けをして帰ってきたことがあった。仲間みんなに贈り物をし、息子には競走馬を一頭プレゼントした。息子は馬の持ち主として、レースに参加する。最年少の馬主ともてはやされて、得意げなようすがうかがえる。
本命の馬に注目が集まるなか、目をつけてくれた貴婦人(アニー・ヒル)がいた。この馬(シーズ・ア・レディ)に賭けると言ってくれ、少年は喜んだが、負ければ賭け金を返してくれと、婦人は冗談を言って笑っていた。そのやり取りを見ていた父親が、怪訝な顔をしてその貴婦人に話しかけている。
知りあいのようであり、実は別れた妻だった。自分の生んだ子だと言うことに気づくことになるが、なぜ来たのだと問い詰める。そのやり取りから私たちにも事情が飲み込めてくる。妻は夫と子どもを置いたまま、姿を消していた。
子どもは母親は死んだものと思っている。この7年間連絡はなく、父親ひとりに育てられてきた。母親は再婚をしており、裕福な生活をしていた。夫(アーサー・ヒル)は学者だったが財産家であり、妻もファッションデザインの仕事で忙しくしていた。
船をもっていてパーティをするので、少年の父子を招きたいと言ってきた。レースで起こった事故を気にしてのことだった。少年の馬は本命を追い上げて健闘したが、最後のコーナーで騎手が落馬し、馬は傷を負った。6000ドルもの馬だったが、再起は危ぶまれた。父親は殺処分するしかないと言った。何とか一命は取り留め、再び競走馬としての希望をつなぐことになる。
パーティには二人で出かけたが、父親は顔をあわせたくなくて、用事が入ったと言って、子どもだけを残して出ていった。6時半に迎えにくる約束をして、時間をつぶしている。射的でぬいぐるみを景品にもらって、子どもへのプレゼントにしようと考えた。
子どもは歓待を受け、婦人の夫とも言葉を交わしている。自分の馬が負けたので、婦人の賭け金は返さなければならないかと、不安げに尋ねていた。夫は妻の息子だということも聞いているようで、感慨深げに少年に接している。
乗馬用の鞍をはじめ多くのお土産をかかえて父親の車に乗り込んでいた。母親は窓から父子の打ち解けた姿をながめている。発車とともに父親は乗せていたぬいぐるみを、そっと捨てていた。
父親のギャンブル癖はおさまらなかった。2000ドルの借金をどうすることもできず、相手は持ち馬を手放すことを提案してくる。息子の悲しむ姿を思うと、それはできず恥を忍んで元妻に相談にいく。
ギャンブルを咎めることもなかった。自分にも責任はあると言って、2000ドルの小切手を切ってくれた。いつ返せるかはわからないと、男は頼りなげに礼を言った。
父親が決意したのは、ボクサーとしての再起をめざすことだった。競馬場の雑益ではどうしようもなかった。ジムに頼み込んで鍛え直し、息子が伴走してトレーニングを進める。同時に息子にボクシングの手ほどきもしている。
息子は父親の再起を望んでいた。酒とギャンブルの末、けんかになり他人を傷つけて警察に捕まる。子どもを一人にはできず、船に誘われた婦人のもとに行くよう息子に命じた。
息子は父と離れて暮らすことになる。実の母親であることを父親から聞かされているものと思い、子どもに対してママということばを出してしまう。子どもは真実を知ることになるが、父と別れることはできなかった。父が職場に戻った頃、荷物を持って帰ってきた。二人は抱き合って、父は二度と離しはしないと息子に誓った。
父親の試合の日時が決まり、息子は母親に手紙で知らせた。その前に母親から手紙が来たのを、息子は気にして隠していた。父親は返事は書いたのかと聞く。息子が手紙を書いてもいいのかと問うと、母と子ではないかと答えるまでになっていた。
母親が元夫の試合を観戦に行くのを、今の夫に伝えると、子どもに会うだけなら歓迎するがと、難色を示した。ボクサーとしての勇姿を見てもらいたくはなかったのだろう。
主人公が元妻と二人になったとき、本音を語ったことがあった。子どもと3人で暮らさないかと誘ったが、今の夫と別れることはできないと、きっぱりと答えていた。
試合相手は13歳年下だった。多くの観客を集め、ファイトマネーが期待できた。子どもがかたわらにいて、観客席に母親がいるのを父に知らせる。迫力のある死闘が繰り広げられ、最後に勝利をするが、そのまま倒れて命を落としてしまった。
母親がかけつけたときには、死を悲しむ息子の声が聞こえた。母を見つけると駆け寄って抱きついて泣きはらした。子どもにとって、両親が自分に愛を注いでくれたのは理解できていた。
父親に母親を愛していたのかと問いかけたことがあった。父親の答えは愛していたから、お前が生まれたのだというものだった。愛にはいろんな形があるのだと子どもに教えている。
母親が家庭を捨てたのは、パリに行ってファッションを学ぶという、自分の夢をおさえられなかったからだった。父親が栄光の日々を過ぎて、酒とギャンブルに溺れる姿に耐えられないこともあっただろう。
試合ではほとんど負けかけていた。ドクターストップを押し切っての、鬼のような形相だった。最後の一ラウンドに賭けて、死に替えることで勝利を得たのだと思う。チャンピオンとして死にたかったはずだ。子どもは父親にファイトを鼓舞していたが、最後にはもうやめてと叫んでいた。
子どもにとって自分といるよりも、母親に預けるほうが幸せだと、無言の決意があったにちがいない。負けていればその後も、子どもは父親から離れることはできなかっただろう。そう考えるとハッピーエンドに見えてくるが、それでもなぜか悲しい。そんな父親を子どもが愛しているからである。
第916回 2025年12月8日
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督・脚本、ソ連映画、原題はQue Viva Mexico!、ユーリー・ヤクシェフ音楽、セルゲイ・ボンダルチュク、ナレーター、グリゴーリ・アレクサンドロフ編集、モスクワ映画祭名誉金賞 受賞、86分。
エイゼンシュテインが残した1931年のフィルムを編集して完成したソビエト映画である。「戦艦ポチョムキン」の世界的成功で、ハリウッドに招かれた監督が、意見が合わないまま、メキシコを舞台にしてカメラを回した。
メキシコという風土に興味を示して、多くのフィルムにおさめたが、映画化ができずに未完のままだった。現像だけはされてアメリカで保管されていた。時を経て監督もカメラマンも亡くなり、当時の助監督がその意思を継いで編集して、完成させたのが本作である。
メキシコ人たちの表情がクローズアップで映し出される。筋立てはないが、迫力に満ちた映像の力が見えてくる。ことに闘牛の場面と民衆が権力者に立ち向かう場面は、手に汗握るものとなる。
ナレーターの解説によって、映し出された状況はよくわかる。古代の遺跡(マヤ文明)に残る彫像と、現代のメキシコ人を並べてみせる、カメラワークは説得力がある。確かによく似ている。
スペインによって統治され、混血が進んできたのだろうが、滅ぼされた文明の残した遺跡のなかに、現代の片鱗がうかがえるのが興味深い。メキシコでは女性が中心だというメッセージから、映画はスタートする。
彼女たちはよく働く。料理だけでなく、力仕事もである。男たちが何もせずにハンモックで寝そべっているのが対照的だ。男の復権は次の闘牛の場面で映し出される。死を覚悟した若い兄弟が母親に、最後になるかもしれないとあいさつをしに行く。
着飾って闘牛場に出かける。獰猛な牛を仕留めるまでの、一部始終が時間をかけて写されている。黒い大きな牛は、一撃されるとひとたまりもないような、立派なツノを持っている。猛烈な勢いで突進してくる。
闘牛士は何人も代わって、一本ずつ剣を突き刺していく。最後の一人が首のあたりの急所をねらうと、ひと突きで巨体が倒れ込んでしまった。現代の観光用の見せ物では味わえない映像に興奮する。
さらに男たちが立ち上がるのは、権力者に向けてのものだった。現地の若者(セバスチャン)が婚約者(マリア)を連れて、権力者のもとへ行く。決められたしきたりだったようで、このとき花嫁だけが呼び寄せられて、青年は止められている。
権力者のあとに続いて、花嫁が泣きながら出てきたのを見て、青年は怒りをぶつけるが、銃をもった兵士に抑え込まれる。これをきっかけにして、現地人たちの反乱が起こる。
俳優による演技ではないが、民衆の感情はよく伝わってくる。セリフがないのは現地のエキストラを用いてのことだったからなのだろう。彼らの表情の映像がアップでつなげられて、ドラマを盛り上げる。
3人の若者が捕らえられ、穴が掘られて首だけを出して埋め返される。馬に乗った兵士がそのまわりをかけまわる。馬の足に引っ掛けられて、3人は次々と命を落としていった。そのままに放置されたところに、解放された花嫁が戻ってくる。そのひとりの遺体にすがりついて泣き崩れた。
映画の前後に、当時の助監督の解説が入る。アメリカとは異なり、メキシコの文化人たちがエイゼンシュテインを支援した。そのなかには、壁画運動で知られる、リベラやシケイロスの名もあげられていた。
メキシコの過酷な歴史とそのなかで築き上げられた豊かな文化を、まるごと紹介しようという情熱が伝えられる一作だった。クローズアップされた男女の現地人の表情がいい。死の仮面や土俗的な儀式も、風雪を耐えた民族の思いを代弁している。
第917回 2025年12月9日
ジョージ・ミラー監督作品、オーストラリア映画、原題はMad Max、メル・ギブソン主演、93分。
かつて映画館で見て、車とバイクの暴走するローアングルのカメラワークと、爆音に驚嘆したおぼえがある。妻子を暴走族に奪われた警官(マックス・ロカタンスキー)の復讐劇である。今回はストーリーを中心に追いながら見ていった。
警察の車を奪って女と逃げている、暴走族のリーダー(ナイトライダー)がいた。追いかけるパトカーや白バイを寄せ付けず、わがもの顔で走っている。警察のめんつが立たず、最後に投入されたのが主人公だった。
背後から追い詰めて、車体をぶつけると、運転を誤って炎上して死んでしまった。リーダーを追悼して多くの仲間が集まってくる。20台ものバイクが連なって走りはじめる。
市民に被害が出るが、警察への挑発でもあった。対抗して主人公も相棒(ジム・グース)とペアを組んで、取締を強化していた。現行犯で検挙するが、不起訴にされると、相棒は腹を立てて、暴走族のメンバー(ジョニー・ザ・ボーイ)に殴りかかる。
隊長(フィフィ)と主人公が押しとどめたが、相棒の名を知られることになり、起訴を免れた男は記憶しておくと、捨て台詞を残して去っていった。その後、相棒は報復され、逆さになったパトカーの運転席でシートベルトをつけたまま、火をつけられて焼死してしまった。
主人公は復讐を誓い、隊長に辞表を持っていった。隊長はまたかという顔をしてとどめている。お前は最も優秀な隊員であり、辞められては困る。休暇をとって考え直してくれという回答だった。
家族は妻(ジェシー)と幼い子ども(スプローグ)がいたが、二人を連れて、しばらく土地を離れることにした。旅先は妻の実家だったのだろう、老母(メイ・スウェイシー)の姿が見える。そこでも暴走族に出くわす。車が故障をして修理店で、主人公がタイヤ交換をしているあいだに、アイスクリームを買いに行くと言って妻子は浜辺に向かった。
このとき暴走族のグループに出くわし襲われかけた。逃げ帰り夫を乗せて宿泊地に戻る。老母は気丈で心強く、妻の弟にあたるのか、知恵遅れの青年と暮らしている。妻が襲われたという方向に、主人公はこの青年を伴って、銃を手にして向かっていく。
入れ違いに暴走族は家にやってきていた。妻は子どもがいなくなっているのに気づいて、探しまわると拉致されていた。何も知らずに男たちのあいだで遊んでいる。子どもを返してくれと頼むが、グループの首領(トーカッター)は、交換に仲間の腕を返してくれと答える。
車で振り切って逃げたときに、遮ろうとした男の手が切断されたまま、鎖につながって車体に残されていた。老女はライフルを構えて男たちを威嚇する。納屋に閉じ込めて車で逃げる。扉は力づくですぐに破られていた。
ライフルの発砲音を聞いて、主人公が戻ったときには誰もいなかった。男たちはバイクで車を追いかけた。車は故障を起こして止まってしまう。老女は娘に走って逃げるように言うと、子を抱いて逃げはじめるが、すぐに追いつかれる。
老女はライフルで応戦するが歯が立たない。何台ものバイクが母子を、引いて去っていった。カメラは遠くからその光景をとらえていて、子どもの片方の靴とリンゴが一個、ハイウェイに転がっていた。主人公が駆けつけたときには、無残な姿があった。
子どもは亡くなったが、妻は一命をとりとめた。主人公は復讐の鬼と化す。狂気に陥り「マッドマックス」に変貌する。黒づくめの革ジャンに着替えて、警察本部に戻り、特別仕様の改造車(インターセプター)を盗み出す。車の修理店に戻り、暴走族のメンバーの氏名を確かめて、探しはじめる。
一人ずつ復讐を果たしていく。バイクに手足を引かれ傷を負うが、ショットガンを手に応戦した。バイクで逃げる首領は追い詰めて、前方から来た大型トラックに正面衝突をさせた。首領の命令で火をかけた手下は、同僚と同じ苦しみを味わわせた。
手錠をかけて車につなぎ、ノコギリをかたわらに置いて、火を放って立ち去った。鋼鉄を切るのは10分かかるが、腕ならば5分で切れると言っていた。車を走らせると、5分もしない間に、背後では爆発が起こり、炎が広がっていた。
人物描写に深みはないが、映画としては分かりやすく、娯楽作としてヒットする要件は備えている。根っからの悪人というのはいるのだということ、そして悪人を駆逐するには、善人も悪を装わなければならないのかと、考えさせられることになった。
第918回 2025年12月12日
長谷川和彦監督作品、レナード・シュレイダー原作、英題はThe man who stole the sun、井上堯之音楽、沢田研二主演、菅原文太、池上季実子共演、147分。
中学校の理科の教師(城戸誠)が、思いついたとんでもない犯罪を負う。生徒たちを前にした授業で、原子爆弾のつくり方を教えている。子どもたちのたいていは批判的だが、なかには熱狂的におもしろがるものもいる。
3年3組の担任であるが、修学旅行の引率をしていてもやる気がない。移動中のバスが、銃を持った男に乗っ取られるという事件に遭遇すると、それまで居眠りをしていたのが急に目覚めて、生徒たちの矢面に立った。
犯人は命を落とした息子のことをあげて、天皇陛下に会いたいという要求をしている。陛下は会うと言って安心させ、生徒たちを盾にしてバスから出てきたところで、狙撃班がねらいをさだめていた。警察の包囲網を指揮する担当警部(山下)と協力して、犯人逮捕に貢献し、のちに二人で表彰を受けることになる。
原爆のつくり方は簡単だった。ただプルトニウムという物質が必要となる。本気でつくろうと考えていて、東海村の原発に忍び込んで、その一本を盗み出すことに成功する。警備に備えて老人に変装して、派出所の巡査を催眠ガスで眠らせて、前もって拳銃を手に入れていた。
自宅は一人暮らしで、狭い部屋は実験室のようになっていた。費用が足りず、サラ金に行って50万円を借りている。教師だとわかると、信頼して貸してくれたが、ギャンブルはほどほどにするよう忠告されていた。
放射線漏れに細心の注意をしながら、資材を扱っているが、誤って火を出すこともあった。バレーボールほどの大きさの、美しい金属の球体が完成する。完成してしまうと、これをどうすればいいのかがわからなくなってくる。脅迫の道具としても要求として思いつくのは、テレビの野球中継を試合が終わるまでやってくれという、他愛のないものしかなかった。
ディスクジョッキーで番組をもつ娘(沢井零子)に目をつける。サテライトスタジオ越しに、電話で相談を持ちかける。原子爆弾をもっているが何をすればいいのかがわからないというと、娘はおもしろがった。そのやり取りがラジオ放送となって電波に乗る。娘は名前からゼロの愛称で呼ばれている。それに対して主人公はナインと名乗った。
東海村の事件を追う捜査一課の警部が聞いていて、この話を冗談ではなく真実ではないかと直感を働かせた。娘の提案はローリングストーンズの日本公演ができるのではないかと飛躍した。かつて決まっていて直前で中止した。彼らの所持していたドラッグが、日本には持ち込めない違法薬物だったからである。
原子爆弾で政府を脅して実現できればという話であり、男はこれに乗って脅迫することにした。警察は屈して公演が開催されることになる。報道がされ観客が押し寄せるが、今回も直前で中止されるという筋書きである。時間稼ぎをしようとしてのことで、出演交渉をしたわけではなかった。
さらに男は金を要求してくる。5億円を一万円札で用意するよう言ってきた。電話での連絡は逆探知が取れないよう、短時間で切られた。女性のような声を使っていたが、対応する警部は投げやりに50億円でもよいものをと言いながら、どこかで聞いたことがある声だが思い出せないでいる。
短時間に逆探知ができるように、電話会社に協力を求め、一時的に大規模な通信停止の時間をつくってもらった。これにより犯人がデパートの屋上から電話をかけていることが判明し、追い詰められていく。
包囲され逃げ場を失って、男は札束を屋上からばら撒くよう要求した。混乱に乗じて逃げ延びようとしたのだった。原爆カプセルは奪われたが、時限装置を作動させていて、その解除方法を教えることを、逃走の取引とした。
警部は犯人と話したDJの娘に近づき、協力を要請するが、娘は犯人に同情的だった。犯人のことが気になり、サテライトを見つめる視線を感じると、追いはじめていた。
見つけ出して投げやりな態度に引かれる。自身の人生観とも共鳴するところがあったのだろう。抱き合って口づけをするまでに至る。男は思い直して去っていったが、残された娘の手のひらには、男の抜けた毛が握りしめられていた。
放射能による汚染は、抜け毛だけでなく、歯ぐきの出血にも出ていた。捜査の進展が気になり、警部と二人で表彰を受けた時も、探りを入れていた。まだ自分とは結びつけられてはいないとわかると安堵した。
捜査の手が伸びてくることに敏感になっていく。不在中に訪ねてきた男があったと聞くと不安になる。歩いていてもつけられていると感じ、現れたのはサラ金の取立て屋だった。安堵して笑いがこぼれていた。
警部との一騎打ちとなって、物語は終末を迎える。娘を盗難車に乗せて逃走するが、娘はそこから生中継をしようともくろんでいた。警察の襲撃にあって、娘は命を落としてしまう。男は逃げ延びるが、警部は執拗にあとを追う。
ビルの屋上での乱闘で警部は銃弾を受けるが、男に食らいつき二人して落下する。警部は命を落とすが、男は樹木にぶつかって、何度かバウンドして生き残った。
ボーリングのボールのようにバックに入れていた、金属球も枝に引っかかって爆発しなかった。男は立ち上がり球体をかかえて去っていく。耳をすますと、かすかに爆発音が鳴り響いているような気がした。
第919回 2025年12月13日
野村芳太郎監督作品、エラリー・クイーン原作、新藤兼人脚本、芥川也寸志音楽、栗原小巻、片岡孝夫主演、松坂慶子、佐分利信、渡瀬恒彦、小川眞由美、竹下景子、神崎愛、蟇目良、乙羽信子共演、131分。
原作のおもしろさに引き込まれる映画である。トリックのある仕掛けを、限られた時間のなかで、どれだけ伝えられるかが見どころとなる。ストーリーを追うことは、映画ではなく文学の話になってしまうかもしれない。
山口県萩の旧家での殺人事件である。銀行家(唐沢光政)のもとに3人の娘がいた。長女(麗子)は父親から勘当され、家を出てスナックを開いている。父親の反対を押し切って結婚をしたが、男から捨てられていた。
次女(紀子)もまた結婚相手(藤村敏行)がいたが、父親が反対をして、気詰まりからか男は蒸発してしまっていた。3年前のことである。次女を主人公にして話は展開していく。
三女(恵子)は姉ふたりの失敗を見ながら、親に従順にしており、父親の眼鏡にかなった相手と結婚するつもりをしている。母親(すみ江)は柔和でワンマンな夫には、逆らわず、上手くかわしながら、娘たちに味方をしていた。
アメリカから親類の青年(ロバート・ボブ・フジクラ)がやってきて、居候として同居しはじめる。日本文化の研究で論文を書こうとしていて、日本語は片言だったが、三女と気があって、その後に起こる事件に、二人して首を突っ込んでいく。
長女から次女に電話がかかり、蒸発した男が戻って、ここに来ているのだという。主人公は会いに行こうとするが、事情を聞きつけると父親は反対する。黙って姿を消した男への不信感は、消えることなく根強いものがあった。
娘は押し切って会いにいき、愛を確かめあって、結婚の決意をして戻ってくる。父親には家出をしてでも結婚をするのだと訴えた。父親は折れて、結婚は許すが条件として、男は頭取をする父親の銀行(長門銀行)に勤め、身近に住むこととした。
盛大な結婚式が開かれ、新婚旅行ではヨーロッパに出かけ、ローマの休日を楽しんでいるという絵はがきも届いていた。平和な生活が始まったように見えた。屋敷の敷地内の新居に運び込んだ、男の書籍が重くて落としたとき、はさんであった3通の手紙が飛び出した。
主人公は中身を読んで驚き、顔が蒼白になった。手伝っていた三女と居候がその姿を見ていて、不信感をいだく。その後、気になって留守を狙って、姉の部屋から手紙を探した。
はさんであった書籍は見つけるが、折ってあったページにはヒ素の毒性についての記載があった。微量のヒ素を使うことで、徐々に死に至り、知られずに殺人が可能となる。
さらに探すと手紙は帽子箱のなかから見つかり、読むと1通目は妻の体調不良を、2通目はさらに悪化を、3通目は妻が死んだという記載があり、ともに妹にあてた手紙だった。日付をみると、もうすぐやってくる8月から9月のことになっていた。
不吉な予感をいだいたが、まさかと思いいたずらだとみなして元に戻した。そして1通目の日付の日がくると、主人公は急に体調を崩して倒れる。当然、夫に疑いがかかっていく。
夫の過去は謎めいていた。結婚式には誰も来なかった。北海道にいたというが、詳しいことは語っていない。妹(藤村智子)がいることはわかっていて、結婚後に訪ねてくる。なぜ結婚式に呼んでくれなかったのだと兄を責めている。
家族は引き留め、しばらく同居することになる。兄は迷惑そうに出ていくよう促すが、言うことを聞かない。自身を卑下しながらも、自分とはちがう生活環境をうらやみ、また楽しんでいる。
居候はカメラを手にまちなかの生活風景を写していた。夫が銀行を抜け出て質屋に入っていくのを見かけて不審に思う。銀行での勤務も評判はよくなく、父親にも伝わっていた。父親は思っていた通りの男だと結論づけることになる。
長女のスナックにも借金を申し出ていて、50万円が必要だという。主人公にも黙って出してくれと頼むことになる。理由を問いただすが明かさない。三女も心配をして、主人公に手紙を見つけたことを打ち明けるが、その内容よりも黙って部屋に入り込んだことを許そうとはしなかった。
2通目の手紙の通り、主人公の体調は悪化していく。ヒ素の混入を疑い、カップや飲料を検査に持ち込むが、検出されなかった。急に口を押さえて苦しみ、部屋に飛び込んだ主人公は内側から鍵をかけてしまう。
夫は驚いて力づくで扉を開くと、驚いたような表情を浮かべて、白い液体の入った小瓶を手にしていた。隠れて飲もうとしていたのか、主治医はそれがヒ素の毒素をなくす薬剤だと判断した。主人公の手にしていた飲料にはヒ素が検出されていた。
三女のフィアンセは公職に就くエリート(峰岸検事)だった。父親は彼に探偵となって、真相の調査を依頼する。この家には不審者などいない。一族から犯罪者を出してはならない。お前もこの家の人間になるのだからと、捜査に配慮を加えるよう暗に伝えた。
探偵が主人公を問い詰めるなかで、主人公は三女が手紙のことを、明かしたのだろうと言ってしまった。探偵は何のことだと追及することで、手紙の存在が知られてしまう。
主人公は夫の妹を怪しんでいた。ドアを急に開いたとき、二人が寄り添っていたことがあった。そのあと二人が抱きあう光景も目にしていた。そして3通目の手紙の日付である9月1日がきて、事件が起こる。
この日、心機一転を図って、父親が娘婿の誕生日を祝うパーティを企画した。大勢が集まるなかで、夫が作ったアルコールを手にした妻のグラスにヒ素が混入していた。酔った妹が割り込んできて、妻のグラスを取り込んで飲み干してしまった。
はじめ口にした妻が倒れるが、あとで飲み干した妹が死亡した。グラスはトレイに5個ほど載っていた。作ったのは夫であり、ほかの誰も手を触れていない。妻が取りやすいように一個だけ離していたという証言を得て、捜査員は夫に厳しい尋問を加えていく。
妹はまちがって飲んで、妻の代わりに死んでしまったというなら、犯人は夫だということになる。夫ははじめ否定していたが、やがて罪を受け入れるようになっていった。そんなとき夫の大学時代の後輩だという女性(大川美穂子)が現れる。
通信記者をしていたが、殺人のできるような人ではないと力説する。探偵となった三女のフィアンセに伝えると、刑務所での面会にも立ち会ってくれた。男はあきらめをつけたように、後輩にはそっけなく対していた。
三女もまた真相を知りたくて、北海道に行こうと居候を誘った。そこで男が女と暮らしていたことを知る。持参していた妹の写真を見せると、この女にまちがいはなかった。
女には母親がいることを聞くと会いにいく。女は男に惚れてまとわりついて、東京までついて行ったのだった。娘が死んだことを老いた母親に伝えるが、悲しむでもなかった。
居候が推理を働かせて、意外なことを言いはじめた。手紙に書かれた妻というのは、北海道でのこと、つまり妹と称していた女のことではなかったのか。まとわりつかれた女を殺害しようとして、北海道にいた頃に書いた手紙ではなかったかと言うのである。
そうすると妹が別にいることになるし、あらためて真犯人は誰かが問われていく。妹はまちがってグラスを飲み干したのではない。妹を憎んでいた者の犯行ではなかったか。
そして主人公が浮上してくる。手紙がすぐに見つかったのも、それを三女に見せようとしていたのかもしれない。手紙があることで、私たちは夫が妻を殺したのだと信じてしまっていた。手紙がなければ殺す理由などなかった。三女は信じたくはなかった。
夫だけではなく、妻もまた自分のグラスに、ヒ素を入れることができた。映像は彼女の首飾りから、そっとグラスにふりかける種明かしをしていた。主人公がヒ素を手に入れていたことも明らかにされた。
主人公は妊娠をしていた。急な変調はつわりを思わせるものでもあり、私たちは混乱してしまうことになる。錯乱状態のなかで出産するが、母体は心身が喪失して命を落とす。
生まれた娘は無事だった。夫に妻の死亡が伝えられ、弔いが許される。手錠をかけたまま、両脇を抱えられていた。妻の罪をかぶって自分が引き受ける覚悟を決めたようだった。
通信記者も車で駆けつけていた。車のエンジンをかけたまま出ていくと、男は随行員を振り切って、手錠のまま車に飛び乗って逃亡を図る。車は山道を登って、崖から海に転落してしまった。
女性記者は逃亡の手助けをしたように見えるが、探偵は彼女はたぶん男の妹なのだろうと言っている。刑務所に立ち会ったときに、兄と妹の無言の対話を感じ取っていたにちがいない、
探偵は真相を知るのは、自分と三女と居候だけであり、次女も夫も死んでしまったからには、真実は自分たちの心にしまっておこうと言う。さらに付け加えて銀行家の父親もまた、すべてを知っていたのではないかとも言った。
探偵は父親の命令に反発して、自分の使命は真実を追及することだと言っていたが、やはり家長の権力に屈したように見える。正義感のある好感の持てる人物であるが、財産家の令嬢との結婚は魅力的だっただろう。三女との関係が気になりながら、映画は終わった。
第920回 2025年12月14日
篠田正浩監督作品、泉鏡花原作、田村孟、三村晴彦脚本、冨田勲音楽、粟津潔、朝倉摂、横山豊美術、矢島信男特撮監督、坂東玉三郎主演、加藤剛、山﨑努共演、124分。
泉鏡花原作による幻想文学の映画化である。福井県と岐阜県の県境にある夜叉ヶ池の伝説をめぐって、妖艶な主人公を坂東玉三郎が演じている。九頭竜湖や九頭竜川と、その後できた恐竜博物館もあわせて考えると、竜の化身を扱った興味深い映画である。
東京から旅行者(山沢学円)がひとり、山里を分け入って歩いている。探検家のような出立ちで、学術調査をしているようにも見える。喉はカラカラで水筒は飲み干してしまった。村では日照りが続き、水に困り雨乞いをしている。人里離れた民家に娘(百合)が外に出て洗い物をしていた。
ここには水が豊かにあるのを尋ねると、湧き水があるとの答えだった。同居する男(萩原晃)がいるようで、やってきた旅人を怪しんでいる。話し声を聞いていて、聞き覚えのある声にハッとしている。
旅人にもてなしをして、お礼にお金を払おうとするが受け取らず、その代わりに話を聞かせてくれと言う。旅を続けているならおもしろい話があるだろうと思ってのことだった。それは男からの指示でもあった。男は研究家で各地のさまざまな伝説を集めていた。
旅人は東京から姿を消した親友の話をする。この地方にきたようだが戻って来ないで、3年がたつのだと言う。自分は親友を探しに来たのだと打ち明けた。旅人は女が一人ではないことを、気配から感じていて、聞こえるように大声で、話を投げかけていた。
世も更けて旅人は暇乞いをして出ていく。しばらくして大雨になると、男は夜道を歩いていった、旅人のことが気になって走り出す。心配したのは親友の身の安全のことだった。村人には恵みの雨であり、大騒ぎをしたがすぐにやんでしまった。
木陰でうずくまっているのを発見して、名乗りをあげ抱擁し合う。家に連れ帰り、ゆっくり話し明かそうと言うが、旅人は教師であり、休暇が限られているので帰らねばならないと断りを入れる。竜が住むという夜叉ヶ池を見ておきたいが時間がない。
しかたなく夜道を道案内すると言って、二人して出て行った。女は男が戻って来ない予感がしている。旅人もまた親友をそのまま連れ帰ろうと考えていた。男は女との出会いを語っている。この土地に入って女と出会い、愛を交わし忘れられなくなって、これまで住み続けてきた。これからも東京には帰るつもりはないと言う。
親友は女は人間ではないと言って、説得するが通じなかった。女とそっくりの白雪姫が現れて、竜神伝説が語られていく。雨は竜がもたらすものだった。日照りを解消するためには竜に祈らなければならない。
村の権力者は村一番の娘を生贄として捧げることを提案する。ただし生娘でなければならないという。選ばれた娘を母親は守ろうとして、この子は何度も夜這いをされていると打ち明けると、大声で笑いが起こった。父親はよそ者の男の妻になっている女が一番の美人だと言って矛先をかわした。
男は姿を消していた。一人でいた女の家に押しかけて、無理矢理に言うことを聞かそうとした。夜叉ヶ池に向かう二人の男たちにも騒ぎが聞こえてきて、引き返して妻を助けようとする。
出かける時に女が研いでくれた鎌を、振りかざして村人に立ち向かう。男は女を連れてこの村を出て行こうとするが、権力者は許さない。男はよそ者でどこに行ってもいいが、女は村のものだと言う。
おびえる女を守って戦いが始まる。友人も加勢するが、村人の数が上回っていた。相撲の力士もいた。男は一日に三度、寺の釣鐘をつくのを仕事としていた。寺はなく釣鐘だけが残っていて、それを定時に三度打ち鳴らすことによって、竜神の怒りはなだめられていた。女はそこに住み着いていた。
釣鐘を怠れば洪水が起こり、村が絶滅するという迷信が信じられている。日照りに苦しむ村人には、洪水が起こるほうがよいと考える者もいた。村人が女に無理強いをしたとき、男の力では対抗できないと思った女は、男の手から鎌を奪い去って自害してしまう。
男は釣鐘をつかない決意をする。定刻が過ぎると、夜叉ヶ池の水があふれ、洪水となって山から村に向かって押し寄せてくる。すさまじい水量は滝となって、周辺の景色を変えてしまう。旅人は友人に流されないために、綱で縛り付けるよう促すが、鎌を手にした男は妻を抱きながら、喉を切り裂いて死んでしまった。
旅人は一人生き残ることになるが、絶壁となった崖から、滝となって流れ去る水をながめている。ナイアガラの滝と比較されるブラジルの滝(イグアスの滝)が映し出されるが、すさまじい迫力であり、特撮を加えた、この自然の猛威を見るだけでも、価値あるものとなった。
第921回 2025年12月15日
神代辰巳監督作品、田中陽造脚本、原田美枝子主演、林隆三、岸田今日子、栗田ひろみ、石橋蓮司、田中邦衛共演、眞鍋理一郎音楽、山崎ハコ主題歌、131分。
恐ろしい情念の生み出した悲劇である。男(生形竜造)と女(生形ミホ)が手に手を取って荒野を逃げていく。女は夫(生形雲平)が追ってくるのを怯えている。男は手をついて謝れば許してくれると楽観的に考え、希望をつないでいた。
男どうしは兄弟だった。兄が弟の嫁と恋仲になって逃亡していた。弟は許さなかった。兄を猟銃で撃ち殺し、逃げ出した嫁は獣に仕掛けた罠にかかってしまった。そのままにして戻ってくる。足は傷つき明日には死んでいるだろうと言って、死ぬまでの苦しみを味わわせて、見殺しにしようとしている。
兄嫁(生形シマ)がその姿を見届けると、女は助けてくれとすがるが、冷ややかに突き放してしまった。女は兄の子をみごもっていた。弟は憎しみを込めて足蹴にすると、女は子を生み落として死んでしまう。
生き残った赤ちゃんを抱いて、村人が届けにくる。ともに死んだものと思っていた兄嫁は、しかたなく受け取るが憎しげに対している。風呂に入れて溺れさせようとすると、老いた使用人(山尾治)がとめに入る。
村人たちが好奇の目を光らせているので、軽はずみなことをしないよう注意する。老人は兄嫁の気持ちを察して、同じ年頃の孤児を連れてきて、取り替えることを提案した。赤ちゃんはともに女の子だった。
20年の歳月がたって、東京の施設に預けられて育った娘(水沼アキ)は、カーレーサーとして活動していた。原因不明の事故が続いたことから、休暇をもらい列車で遠出をし、ひとりの青年(生形幸男)と出会う。突然ドアが開いて落ちかけるのを助けてくれた。青年は女に惹かれて、自宅に誘った。
母親に紹介すると、娘の顔を見て驚く。死んだ弟嫁にそっくりだったのである。訳も言わずに帰ってもらうよう息子に伝えるが、その意味がわからない。息子はもう一人(生形松男)がいて、その下に妹(生形久美)がいた。
母親の無念な思いが娘に伝わってくる。娘の素性がやがて息子にも伝えられると、二人は腹違いの兄妹ということになり、恋愛は危ぶまれる。もう一人の息子は東京でカーレーサーをしていて、すでに娘と知り合っていた。
娘が足を滑らせて谷に落ちたときに救ってやった。娘がおびえはじめると、抱きかかえており、娘もそれに答えたことから恋心を抱いていた。兄弟どうしの奪い合いが、またしても起こってくる。
呪われた母親の血が引き継がれたのだと思われた。娘も母親の声を聞きつけて、それに導かれるように男を破滅に追いやっていく。本家から出ていた弟が、久しぶりにやってくると、兄嫁は娘を紹介する。
亡き妻にそっくりなのを驚いただけではなく、娘に言い寄ってくる。娘は三味線を手にしていた。それは母親の形見であり、母親の人となりが兄嫁によって語られていく。
村にやってきた一座に属していたが、遊び人の弟が気に入って、連れてきて嫁にしたのだという。由緒正しき家系が汚されると、冷ややかな目で見られた。男好きでもあり、惚れた男には自殺者も出ていた。
弟の嫁だった女が、兄をそそのかして駆け落ちをしたのだと、兄嫁は娘に語って聞かせる。弟が迫ると娘は拒絶して、持っていた三味線のバチで、男の目を切り裂いた。盲目となっても娘を戸外まで追って行き、崖から落ちて死んでしまった。
息子二人の下にいる妹も、片方の兄を愛していた。連れてきた娘との仲に気づくと激しく嫉妬した。血のつながりはなく恋愛だけではなく、結婚さえも可能だったが、魔性の女に阻止された。兄は陶芸家であったことから、悲観した妹は窯の中に入り込んで、焼身自殺を遂げてしまった。
弟によって殺された兄は姿を見せなかったが、兄嫁が地下牢に隠して、ミイラにしていた。殺人事件にもならないままだった。娘に母親の三味線を手渡したあと、娘を捕らえて牢に連れて行き、父親だと言って紹介してやった。戦国時代の城郭のように、地下牢は抜け道となって、離れた井戸につながっていて、閉じ込められた娘は、愛する息子に助け出される。
狂気の姿が、一族の崩壊を加速する。兄嫁はミイラとなった夫にすがりついて、みずから命を絶ってしまう。息子は血のつながりを乗り越えて、娘と結ばれることを決意する。娘は地獄に落ち込む光景を何度も体験し、先に死んでいった者と出会う。最後には樹木のなかから光り輝く赤ん坊の誕生が語られ、希望につなげていた。
第922回 2025年12月16日
柳町光男監督・脚本、中上健次原作、本間優二主演、蟹江敬三、沖山秀子、山谷初男、原知佐子共演、109分。
新聞配達の青年にたまった、怒りが爆発する話である。十九歳の若者(吉岡まさる)が新聞配達をしながら大学予備校に通っている。同じ年頃の若者が、同じように住み込みで新聞店に勤めている。同室していたのは中年男(紺野)であり、一人だけ歳の開きがあった。同じ仲間からは二人は同性愛ではないのかと怪しまれている。
新聞配達の仕事で、不満がたまるのはよくわかる。大きな声で吠えかかる犬がいる。入れたあとで張り紙に気づくと、不在なので何日間か入れないでくれと書いてある。入れる場所が指定される。
シャッターの隙間から入れるよう聞いていたが、奥がつかえて入らない。大きなマンションでは階段を上がって、一軒一軒まわっている。他紙の新聞配達と行き交い、速度を競い合っている。
ストレスの解消に、朝早いことから牛乳やパンを、配達中に箱から盗んで朝メシ代わりにしている。集金の仕事もある。アパートを訪ねると男が出てきて、請求すると新聞は取っていないと言い張る。毎日自分がいれているというが、シラを切る。すごんできたので仕方なく帰った。
販売店では棒グラフにして、集金の回収率を競わせている。雨が降ると配達員は濡れても、新聞は濡らさないようにと、店主はうるさく指示している。
主人公は同室の中年男に頼んで、集金に付き合ってもらった。すごんでいた男からも、たまっていた3ヶ月分を取り立ててくれた。
中年男は胸に刺青をしていた。カッターシャツからそれが見える。販売店の女主人は見せないように念を押していたが、集金には役に立ったようだ。胸に入れはじめたが、痛かったからか途中でやめてしまった。仲間たちは銭湯に行って、その中途半端な姿を見ては、男のいくじなさをからかっている。
仲間からは金を借りたり、盗んだりするので嫌われているが、主人公は気にせずに親しみをもって接している。二人で出歩くときには、主人公を早稲田の政経学部の一年生だと紹介している。
キックボクシングに打ちこむ若者もいた。新聞配達をしながらジムに通い、プロをめざしていた。デビュー戦が決まると、中年男が後援会をつくってやると言って、ガウンも用意した。
応援に行くが痛々しい敗北で、傷だらけになってしまう。夢を捨てていなかに帰って行った。中年男は四国、主人公は和歌山から東京に来ていた。主人公は女性には興味はなかったが、中年男にはマリアと呼ぶ女がいた。
女に無関心なので、マリアに会いに行くときに連れて行った。豊満な女で足を引きずって歩いている。恋愛沙汰で8階から飛び降りたときの、醜い傷が太腿に残っている。中年男が優しくさすってやっている。
主人公はなぜこんな女をマリアと呼んで、興味を持つのか知りたくて、その後も新聞配達の道すがら観察をしていた。雨の日には外の階段から足を滑らせて泥だらけになっていた。知らない男が部屋から出てきて、金を渡す姿も目撃した。
中年男が新聞配達をさぼって、部屋に訪れて、情事にふけっていたときには、思わず身を隠していた。中年男のいちずな姿を見て、女は他にも男がいるのではないのかと、問いかけるが意に介さず、この女は自分に一番愛を注いでいるのだと確信していた。
主人公は欲求不満の解消に、新聞配達で訪れる一軒一軒を地図に書いて、データを記入していく。態度の悪さはばつ印の数で一目でわかるようにした。集金に訪問すると、ねぎらいを示す家もあった。
お茶とお菓子をふるまってくれて、玄関先で立ち食いをしている。主人公と母親のようすを、子どもたちがおもしろがってじっとながめている。お題目に没頭していた主婦は、集金に気づかないことも多いのだと言いわけをしながら、家に引き込んで信仰へと誘おうとする。ともにばつ印をいくつか付けていた。
はじまりは電話帳から、氏名を見つけ住所と付き合わせて、電話番号を知ることだった。東京なので同姓同名が連なっている。電話をかけて年齢や勤務先などさらなる情報を手に入れる。集金のときに接した人物の印象をメモで書き込んでいく。
気に入らない相手には、電話で脅しをかける。爆弾を仕掛けたや殺してやるなどの罵声を発して、ストレスを発散させていく。ともに実行を伴わないいたずら電話であるが、相手には十分に恐怖を与えるものだった。
さらには家族構成を書き込むために、玄関の表札を力づくで外して持ちかえっていた。吠える犬に嫌悪して、殺して玄関に吊り下げておいたと電話をしたし、その矛先を広げて脅迫する対象を社会的組織にまでエスカレートさせていった。犬がぶらさがる映像がはさまれたので、実行されたということかもしれない。
中年男もマリアといっしょになろうとして、犯罪をおかして捕まってしまう。女は淡々として今まで通り生活を続けていた。主人公は朝刊を配る道すがら、ゴミ出しをする女の姿を遠巻きから、見とめながら通り過ぎていった。
第923回 2025年12月17日
りんたろう監督作品、松本零士原作・構成・企画、石森史郎脚本、市川崑監修、ゴダイゴ主題歌、日本アカデミー賞話題賞受賞129分。
宇宙に向かう列車に乗って、永遠の命を手に入れようとして、旅立つ少年(星野鉄郎)とそれを助ける娘(メーテル)の話。地球は機械人間に支配され、少年は人間狩りにあって母親を殺されてしまった。母親は美人だったことから、遺体は運び去られてしまう。
機械の身体を手に入れることで、永遠に生き続けることができる。それを無料で可能にしてくれる惑星(アンドロメダ)があり、そこに行くためには、銀河鉄道999の乗車券を手に入れなければならない。高価なものだったので、少年は旅行者から盗もうとした。
失敗して追われるが、かくまって助けてくれた娘がいた。悲しげな表情を浮かべた、謎めいた美女である。お礼の代わりに、自分もそこまで連れて行ってほしいと言う。切符は持っていたので、願いは女の一人旅をエスコートすることだと、少年は理解した。
娘は美しく殺された母親に似ていた。自分よりも年上だったが、恋心をいだいた。極端に身長差のある、奇妙な二人旅がはじまっていく。鉄道はレトロな蒸気機関車を思わせるものだった。空を飛ぶ飛行機なのだが、ノスタルジーを誘う心和むものにデザインされている。
煙を吐きながら天空に舞い上がる姿は、竜の飛翔を思わせるものでもある。目的地に着くまでに途中の星(タイターン)では、何日もとどまることになる。そこで娘が山賊にさらわれてしまうと、少年は使命感を発揮する。
山賊の首領(アンタレス)もまた、機械人間に手をこまねいていた。人間かどうかを見極めるのに、レントゲン装置を用いている。囚われになった少年も娘も、ともに骨が映し出され、人間であることが証明された。
傷つき意識を失ったのを、助けてくれた老女がいた。息子(トチロー)がいたが出て行って、ひとりで住んでいた。残していった帽子と銃を預かることになる。息子は宇宙のどこかで生きていれば、これと同じ帽子をかぶっているはずだという。
銃は機械人間に向けて効力を発揮するもので、このあとでの戦闘でも役立つものとなった。母親を殺害したのは機械伯爵と呼ばれ、名前を挙げることさえ恐れられている存在だった。
少年は仇を打つために、そのアジトである星を探していく。宿敵を見つけるのに人手を頼っていくなかで、その消息に詳しいと言われた男を訪ねる。会うと自分と同じ帽子をかぶっていた。
持っている銃に目を止めると懐かしがった。老母と出会ったことを話す。この男もまた、機械人間となった敵を仕留めようとしていた。宇宙をさまようなかで宇宙病に倒れ、その無念を少年に託すことになる。
この男と想いを寄せあった女にも出会っていたが、男は先が長くないことを悟り、少年の力を借りて宇宙空間にさまよう決意をする。少年は思い切りをつけて、男の乗るカプセルを切り離した。
終着駅に着くと駅名が、娘と同じ名(メーテル)であることに驚く。そして娘がこの星を支配する女帝(プロメシューム)の一人娘であることを知る。先の星では機械人間が、身体を機械に換えて永遠に生きるのに対して、ここでは人間を部品として埋め込んで生き続けていた。
少年の行動は逐一把握されており、娘をエスコートするなかで、優れた部品になると評価されていた。娘に騙されていたことを知ると少年は許せなかった。娘もまた母親の手先になりながらも、少年に愛を感じていた。
娘のからだもまた、永遠の命を保とうとして、人間の部品を交換し続けていた。一部には殺害されて、持ち帰られた少年の母親の肉体も混じっていた。少年が母親と似ていると思ったのは、このことからだった。
少年に危機が迫ったとき、山賊の首領が姿を現して加勢する。女帝の軍は強力で歯が立たなかったが、体内にはこれまでの戦いで受けた不発弾が埋め込まれていた。体当たりをすることで爆発に至った。
永遠の命を求めての旅だったが、生き残った少年は、永遠に生きることのむなしさを悟ることになる。喜びだけではない、苦しみもまた永遠に続くのだ。娘もまた自分のもとの身体が眠る惑星に戻って、限られた命を取り戻そうとする。再び銀河鉄道に乗り込んで地球を去っていった。
いつか地球に戻ってくることがあっても、姿は変わっていてあなたが気がつくことはないだろうと言って、別れのことばにした。少なくとも母親の面影はなくなっているはずだ。少年時代は終わりを告げ、地に足のついた新たなはじまりが待ち受ける、悲しくもさわやかな結末だった。
第924回 2025年12月18日
斎藤光正監督、半村良原作、原題はG.I. Samurai、鎌田敏夫脚本、千葉真一アクション監督・主演、夏木勲、渡瀬恒彦、江藤潤共演、羽田健太郎音楽、138分。
自衛隊の隊員20名がタイムスリップして、戦国時代に紛れ込む話。隊長(伊庭義明)は野望に満ちて、天下を取ろうとするが、果たせず全滅してしまう。隊員は仕方なく隊長に従うが、平和な昭和の時代に戻りたいという本音が聞こえる。
海岸沿いでの演習中に、急に時間が止まる。気象も変化して海も不気味に色を変えた。海上自衛隊の船(哨戒艇)が遭難しかけている。航空自衛隊のヘリコプターも加わり、陸上自衛隊の戦車と合わせて、それぞれ一台ずつだが、小編成の部隊となった。
トイレの近い隊員がいて、ひとり離れたときに、武者姿の3人の男が馬に乗ってやってくるのを見かける。お祭りでもあるのかと思ったが、数を増やして矢を放ってくる。
機関銃で応戦すると驚いて逃げ帰ったが、今度は首領が先頭に立ってやってくる。兵器に興味を持ったようで、長尾景虎と名乗りをあげて近づいてくる。この地域をおさめる当主であり、のちに上杉謙信として知られる戦国大名である。
物怖じをしない豪傑であり、隊長が案内をして機関銃を見せ、射撃をさせてやると、大喜びをしている。仲良くなって味方に引き込もうとするが、隊長も武将の人格に引かれ、意気投合してその後の歩みをともにすることになる。上半身裸になって、肉体美を競い合っている。
二人で力を合わせて天下を取ろうと誓うことにもなるが、それに至るまでにこれまで仕えてきた権力者を裏切るなど、綱渡りを続けて、地歩を築いていった。隊長はそれに力を貸しており、単身で城に乗り込んだときには、ヘリコプターを天守閣に飛ばして、機関銃で攻撃をしながら武将を救い出していた。
隊員の結束は強いものではなかった。何人かは隊長に忠実に従ったが、反乱分子として自衛隊内部でも目をつけられた隊員(矢野隼人)も混じっていた。ことごとく隊長の指示に逆らっている。
この男に同調した隊員を連れて、船を乗っ取って別行動をすると、隊長は壊滅しようと厳しい措置を取った。反乱した兵士たちは民家に押し入って、略奪し暴行を繰り返していた。
電話を入れて時間をかせいで、船の位置を確かめ、ヘリコプターを飛ばした。船には高射砲があり、ロケット弾も備えていた。隊長がおとりとなってロープで吊るされて気を引いている間に、岩陰に潜んだ射撃の名手が狙いを定めた。
3人の隊員は撃ち殺された。仲間内の争いを嫌った隊員は、船から離れようとしたときに、射殺されていた。武器も残したまま船に火をかけ燃やしてしまう。隊員は数を減らしていく。戦国武士との戦いで命を落とした者もいたが、民家に入り込んで子どもたちの良き兄となってしまった者(根本茂吉)もいた。
仲間から外れて、ひとり残ることを決意する。昭和の時代に戻ることを断念したが、悲しみはなかった。現地の娘(みわ)と恋仲になった隊員(三村泰介)もいた。こちらは娘のほうがいつまでも部隊についてくる。隊長もそれを暖かく見守っている。
隊長は天下を取ろうと言い出す。行動をともにするかどうかが、一人ひとりに問われていく。二つ返事で従う者もあったが、大勢に流される者もいた。天下を取れば歴史が変わってしまうので、それを阻止する大きな力が働くに違いないと言う隊員(県信彦)もいた。
隊長は歴史を変えてみようとも言った。そんなことをすれば自分たちは生きてはいられないとおびえる。隊長は自分たちの力を過信していた。武将と二手に分かれて、自分たちは武田軍を引き受けるというと、武将は相手をあなどってはならないと忠言する。
武将の方は、浅井・朝倉を攻めて、京都で落ち合おうと言って別れた。武田軍は強かった。鉄砲隊ももっていた。戦車やヘリコプターが動員されても、歩兵のおびただしい数にはかなわなかった。
ヘリコプターも、敵将の息子である若武者(武田勝頼)が食らいついて、空中から乗り込んで墜落させた。劣勢を盛り返そうと、隊長は傷つきながら、敵の本陣に単身で切り込み、敵将(武田信玄)の首をはねて勝利した。
隊長を含めて生き残ったのは6人だけだった。京都に向かう途中、寺に潜んでいたときに、友の武将が駆けつけた。喜んで歩み寄ると、6人は取り囲まれ、ようすがちがっていた。
武将は先に京に登り、足利家の将軍や公家たちと話をつけていた。ともに天下を取ろうとする無名の男にも話が及び、戦車もヘリコプターも失ってしまったことが伝えられると、何の力ももたない男だと、抹殺を説得されていた。
武将は友を裏切ることになる。寺に籠るなかで、5人の隊員は一致して、ここから逃れようと言うが隊長は聞かなかった。昭和に戻れる兆候が見え出していたが、決断がおくれ兵に取り囲まれる。隊員は全員、無惨に矢を放たれて殺害された。
隊長は武将と一騎討ちとなったが、鉄砲隊に撃たれて息耐えた。武将は憐れんで、着ていた陣羽織を脱いで遺体にかぶせている。京では追手を別の武将に決めていたが、友が自分の手でと役目を引き受けた。
敵の手にかかりたくないと言っていた隊員もまた、連れてきた戦国娘の銃口によってとどめを刺された。6人は手厚く葬られ、寺もまた火をかけられて、歴史の闇に葬られた。歴史の記述は変わることなく、まるくおさまりをつけたということになる。
第925回 2025年12月19日
村川透監督作品、大藪春彦原作、英題はResurrection of Golden Wolf、永原秀一脚本、松田優作主演、風吹ジュン、千葉真一、成田三樹夫、岸田森共演、ケーシー・D・ランキン音楽、角川春樹製作総指揮 、131分。
一流企業(東和油脂)の経理部に身をおく、サラリーマン(朝倉哲也)がいだいた、野望の末路を描く。夜間大学しか出ていないので、出世の見込みはない。さえない風貌ではあるが、男にはもう一つ別の顔があった。ボクシングジムに通っていて、優れた腕前をもっていたが、血友病で血が止まらないのだと言って、試合には出ないでいた。
会社ではアルバイトを禁じているからだと言い訳をしていたが、それ以上に顔を知られたくはないという理由があった。犯罪に手を染めていたからであり、恐るべき野望をいだいていた。
ジュラルミンケースに入った現金を強奪して、一億円を手に入れた。現場に近かった会社にも注意喚起がされる。紙幣の番号が控えられていて、ビラが配られる。この番号の札を見かければ知らせるようにとのことだったが、とたんに使えなくなってしまった。
そこで思いついたのが、裏取引で札束を麻薬に換えておくということだった。麻薬の密売に関わるヤクザの組織を見つけ出し、乗り込んで話をつける。市会議員(磯川)が黒幕にいることも知ることになる。
会社内部にも腐敗の構造が見えてくる。次長(金子)と部長(小泉)が関わった会社の金の不正使用があばき出される。部長の囲っている女(永井京子)を見つけ出して近づいていく。ゴルフの練習場でおどけたプレイをして気を引き食事に誘う。飲み物に麻薬を混ぜて中毒にさせてしまう。
女には安全な薬だと言って常用させると、囲っていた部長も手を出し、中毒になっていった。会社の不正をかぎつけて別の男(桜井光彦)も乗り込んできた。経済研究所の著名人(鈴本光明)の名を出してゆすってくる。五千万円がふっかけられるが、研究所に知らせて調査され報道されると、会社の命取りにもなることから、社長(清水)をも巻き込んで話は進んでいく。
ゆすり男は調べると研究所代表の甥だった。会社側は男の命を奪おうと考え、その刺客として子飼いの興信所所長(石井)に頼んだ。さらにこの男が裏切ると、その処理をするのに主人公に目をつける。目立たない人間だったが、隠れてボクシングで鍛えあげていたことを知ると、適任だと判断された。
呼び出されて暗い部屋に入れられ、意向を問われる。承諾すると灯りがつけられ、社長以下、重役が並んで座っていた。引き受ければ重役のポストを用意すると約束された。
依頼が簡単に片付けられると、今度は主人公に殺人者の手が伸びてくる。男の野望は会社のポストだけでは満足しなかった。社長の別荘に呼ばれて連れられていく。途中で降ろされ徒歩で進み、そこで殺害される手はずだったが、殺人者のほうが倒された。
社長宅に顔を出すと驚かれ、何をしに来たのかと問われる。とぼけ顔をする役員たちを前に、おとなしいと思っていた社員の怒りが爆発する。報酬として提示したのは金ではなく株券だった。
時価にするととんでもない額(200万株)だったが、主人公の怒りを鎮めるには受け入れるしかなかった。交渉が成立すると、主人公は大株主だと言って踏んぞり返ってみせた。
社長令嬢(絵里子)にも引き合わされ、やがて婚約が噂されると、男の地位が固まっていったように見える。先に手に入れていた麻薬も有効に利用される。部長がヘロイン漬けになっていて、金に糸目をつけないと言ってやってくる。
一億円を超える額をふっかけたが、部長はそれでもありがたがって支払おうとした。男は千ドル紙幣で用意してくれと要求している。部長の女が訪ねてきて、男の本心を聞き出そうとする。社長の令嬢と結婚するのかと問いかけたが、男ははっきりとは答えず、女を抱き寄せて熱い抱擁をしている。
次に女がやってきたとき、同じように抱き寄せると、男は顔を歪めて唸り声をあげた。男の腹にはナイフが突き刺さり、女もまた自身の死を覚悟していた。男は胸ポケットから、海外逃亡のために、用意していた2枚の航空券を、出して破りさっている。
このあとの映像は男の夢のなかなのだろう。空港内を歩く後ろ姿を写して、機内で顔を伏せているのを、客室乗務員に起こされている。ジュピター(木星)に行くのだと、もうろうとした意識のなかで、答えたまま息絶えていた。
お前を愛しているのだとひとこと、ことばに出して言ってさえいればと思う。女の誤解は黙っているのをよしとする、男の美学によってもたらされた、悲劇だったようである。