本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語

2023年06月16日~09月24日

東京都写真美術館


2023/06/25

 本橋成一とロベール・ドアノーはこれまで、個別に展覧会をみた記憶があるが、両者を結びつけて考えることはなかった。ふたりの写真家に直接のつながりはないとしても、似通った写真が映し出されることがある。そのテーマがひとつだけではとどまらないとすれば、その偶然の一致には何らかの必然性があったということである。それは「炭鉱」であり、「サーカス」であり、大都市の胃袋としての「市場」であったりしたが、そこにはくっきりとしたちがいがあるように思う。

 一方はサーカスのよろこびを、他方はサーカスのかなしみを映し出そうとしている。一方はそれをヴェールに包み、他方はヴェールをはぎとろうとしている。どちらがいいという問題ではない。写真家の資質なのである。ドアノーの視線には余裕がある。悲壮感はなく、クスッと笑える心の余裕といえるものだ。そして誰もがそんな人生観を好んでいる。だから人気がある。ドアノーが変化球だとすれば、本橋はストレートであるかもしれない。屈折した精神は、長い西洋文化の重圧のもとで生き抜いてきた庶民の信条のようにみえる。それに対して真正直な日本の素朴は、すっきりとしていて、さばさばとした気持ちよさがある。無骨と言ってもいいが、実直には信頼感がある。肩透かしをして逃げてしまったりはしない。突き放して責任を取らない非情を楽しむのではなく、親身になって相談に乗ってくれる有情を感じるものだ。

 ふたりの炭鉱夫が真っ黒な顔をしてカメラの前に立っている。目はカメラからそらせているが、その目は信頼感を示している。写真家も同じ目の位置で、真っ黒の顔をして同化しているのがわかる。それはドキュメンタリーであって、アートではないのかもしれない。ドアノーのカメラはいつも隠れているようだ。楽屋裏を写した一枚も、気づいていないように自然だ。自然なままではアートにならないので、写真家はいつも構図を考えている。トリックの目だましを楽しむのは、エンターテイメントの常套だろう。度が過ぎると飽きられるが、そのときには豪速球の正統派に魅せられていく。


by Masaaki Kambara