イタリア映画コレクション 2ペンスの希望

a sentimental diary of the movie

第79回 2023年1月21

2ペンスの希望1952

 レナート・カステラーニ監督作品、原題Due soldi di speranza。これまではフランス映画を見てきたが、いったん中断して次はイタリア映画である。古いイタリア映画を集めた廉価なDVDを買ってきた。タイトルには「2ペンスの希望」とある。10本組だったが、一本も私がとりためた映画コレクションには入っていなかった。まずは第一作、カンヌ映画祭グランプリとある。

 さすがにイタリア人はよくしゃべる。まくしたてるのでうるさく、しっとりとした情緒を映画に求めている人には騒がしいだけの映画かもしれない。除隊して戻ってきた男と、同じ土地に住む裕福な娘とが結ばれるまでの物語。娘の家は花火屋を営んでいて、危険な仕事だが、収入はよい。職がなく不安定な男に対して、娘を嫁にはやれないという親心はわからなくはない。娘は男に恋心を伝えるが、男のほうは土地を離れてでも職を得たいと思っている。離れて暮らすことが、さまざまな妄想をいだかせる。女ができたのかと気にかかり、そっと様子を見に出かけたりもしている。

 男は恋愛だけではなく、親のことや姉の結婚のこともあって、心配事は多く、自分の立場を理解して、堅実に将来を考えている。娘は気がふれたように動揺し、家から飛び出して、列車に轢かれたという噂も流れることになる。男はあわてて駆けつけるが、女は死んではいなかった。男は決意を固めて、二人で親もとに出かけるが、相手にされず、玄関先で罵倒される。近隣の住人は、はじめ二人をあざけていたが、親の仕打ちに立ち向かう姿に共鳴して味方にまわり、エールを送るなかで映画は幕を閉じる。

 聞きなれない村の名前が登場するが、その名をもった駅は、はじめてイタリアを鉄道でめぐった頃に通り過ぎた記憶がある。馬車からバスへと駅からの交通機関が変わる時代の話である。美男美女の名優を見慣れてきた目には違和感はあるが、ネオリアリズモを打ち出したイタリア映画の典型と言えるだろう。

 戦後どさくさの貧困状況は同じ敗戦国として日本でも身につまされ、同時代史を語るものだろう。敗戦国であるがゆえの活力に満ちたエネルギーが、日本での闇市に似たマーケットには満ちあふれていた。逆境に向かって前進し、未来に向けて生き抜く力が、心地よく響くFINEだった。フランス映画のFINとはちがうなと思った。

80回 2023年1月23

明日では遅すぎる1950

 レオニード・モギー監督作品、原題はDomani è troppo tardi。男女共学が当たり前ではない時代の話である。日本では中学生にあたるだろうか。異性に興味を持ちはじめる頃、厳格な校則に縛られて、身動きの取れない教育のひずみから生まれた悲劇である。愛に芽生えた男女が引き裂かれ、娘は悲観して自殺へと至る。最後に一命を取り留めることで希望へとつなげているが、大人の勘ぐりは妄想を呼び、警察の厳しい尋問が冤罪を生み出すように、子どもらしい純愛を汚してゆく。

 そこに至るまでに伏線として、小さな妹たちのセリフに弟はどこから来るのかという疑問が発せられていた。赤ちゃんはコウノトリが運んでくるという日本にも似た解答もあるし、キャベツのなかにいるのだという子どもだましの答えもあった。もう少し大きくなるとキスをすれば赤ちゃんができると教えた。15歳で妊娠をして湖に身投げをした女子学生の伝説も残されていて、それをなぞるように少女は、いわば無実の罪で自殺を決意してしまう。親に知らされて父親から叱られるという恐怖心が、強迫観念としてのしかかり、重圧となって取り返しのつかない行動へと至ったのである。

 デ・シーカ演じる子どもの側に立つ気弱気な教師と厳格な女校長の対立も見逃せない。身を投げた女子学生が息を吹き返したとき校長の顔が写し出されるが、そこにはかすかな笑みがみえた。それはこれまでの自身の態度への自戒の念であったようにも読み取れるが、大事にならずにすんだという安堵の表情だったかもしれない。イタリア映画だと思って見ていたが、最後の文字はFINだった。

第81回 2023年1月24

街は自衛する1951

 ピエトロ・ジェルミ監督作品、原題はLa città si difendeサッカー場の売り上げを強奪したグループがばらばらになって逃げたが、ひとりひとりの足跡を追いながら、破滅へと至る姿を描きだしている。最年少の少年が、母親の説得に心を動かされ、自殺を思いとどまり、連行されるラストシーンを見ながら、犯罪をおかす愚かさを思い知ることになる。犯人には著名な元サッカー選手もいた。不遇な画家もいた。妻と子を愛する気弱な家庭人もいた。そして母の愛を一身に受ける少年がいた。彼らは偶然に出会い、サッカー競技場を狙うということだけを共有して、犯罪者となった。

 ふたつのトランクに札束が満載されている。ひとつは少年が手にして逃走するが、恐れをなして街中の噴水に捨ててしまう。それを知った別の男は水中からトランクを引き上げて、なじみの女のもとに転がり込んで、水浸しになった札束を乾かしている。女は関わりを恐れて警察に通報、逮捕される。水浸しの札束のひとつかみはその前にひとりの共犯の妻の手に渡されて、家族をともなって逃亡をはかるが、水に濡れた札を使うことができず、あえなく最後を迎える。

 もうひとつのトランクは、画家が駅の荷物預りに保管していたので、本人の手元には金はない。逃亡資金として使うこともできないまま終わってしまう。結局危ない橋を渡り、命までもなくして、手に入れたのは子どもに買い与えられた露天商の人形だけだった。

第82回 2023年1月25

アンナ1951

 アルベルト・ラトゥアーダ監督作品、原題「Anna」。最後の一言が希望をつなぐ。人生において「失うことは必要だ」という教授のことばに対して、アンナは「何も失ってはいませんわ」と答えた。医師と看護師との間でかわされた会話である。緊急患者を受け入れて、犠牲的精神を強いられるなかで、失うものは少なくない。アンナは結婚を捨ててこの仕事を続けていくかに見えた。愛する男が去ったのちの決断だとすれば、教授のことばはそれを暗示している。あいづちを打つのではなく、これを切り返すことによって、彼女は失ったものを取り戻そうとしているのだと気づく。悲観的な結末のようにみえて、そうではない希望がみえてほっとした。

 映画の構成は、謎めいた過去を思い出すかたちで、真相が明らかにされていく。優秀な看護師として信頼されるアンナには、知られたくない過去があった。そこには酒場の歌手として俗世界にまみれて生き抜く若い日々があった。田舎の農家の息子がこれに夢中になって、やがて恋愛関係に発展するが、アンナは結婚をかたくなに拒んでいる。見ている方はなぜ受け入れないのかと疑問に思いながら、過去の回想に注意を傾けていく。同じ酒場のバーテンダーだっただろうか、慣れ親しんだ男の存在が明らかになり、アンナの葛藤が続いていく。それは麻薬患者が断ち切れないように、自然と誘惑へと足が向いてしまうのである。

 都会の環境を捨てて、田舎に逃げることはアンナにとって救いであったはずだ。結婚を決意し、それを直前にしたある日、未練をいだいて男が訪ねてくる。言い争いになったはずみで男は殺されてしまい、結婚相手から思わず出たことばは、自分は殺人者になってしまったという一言だった。アンナは打ちのめされたようにその場を離れ、疲労と放心のすえ修道院に救われ、安らぎを得ることができた。その後ひたすら看護師として身を捧げ、修道女として神に仕える覚悟を決める。

 そこに正当防衛で無罪となったかつての婚約者が交通事故で運ばれてくる。意識不明の男を見つめ看護を続けるアンナの姿があった。一命を取り留めて、再度結婚を迫られアンナの心は揺れはじめる。彼は再会の時間と場所を言い残して、退院していった。約束の時間に足を運ぶのは、男の愛を受け入れようとしたからだろう。そのとき救急車が多くの患者を乗せてやってきた。夜の9時の約束だった。アンナは引き戻し、男はアンナが来ないことに落胆して立ち去った。そして冒頭の教授のことばへと続く。

第83回 2023年1月26

椿なきシニョーラ1953

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督作品、原題は「La signora senza camelie」。その後の基本的テーマとなる「愛の不毛」という命題はここでも問われている。街の店員だった娘がスカウトされて女優として成功し、華やかな栄光を得るが、同時に苦悩に打ちひしがれて、愛を遍歴する。美神はかねづるでもあって、プロデューサー映画監督が群がり、不毛とならざるを得ない現代の非情が浮き彫りにされている。

 出演作の選択肢として、椿姫とジャンヌダルクが引き合いに出され、対比をなしている。タイトルの「椿なきシニョーラ」はこれに由来しているのだろう。日本での配給映画であれば頭を絞ってシャレた名前を考えただろうが、直訳では何のことかわからない。「椿姫はいやよ」とでもしておくか。娼婦役や身体の露出を嫌がって、ジャンヌダルクを選ぶが、試写会での評判は悪く、興行成績は最悪、演技力のなさを痛感する。20歳を過ぎたばかりの娘なのだから無理もない。もっともジャンヌも若かったはずだが。夫であったプロデューサーの采配によるものだった。妻のラブシーンなど見たくはないという心情はよくわかる。

 落ち込んでいたときに優しく声をかけてくれた紳士がいた。外交官を務めるエリートだった。何もかも捨てて全く別の世界で真実の恋愛に没頭しようとするが、女が離婚を決意すると男は逃げ越しになった。本気ではなく、情事の相手でしかなかったことがわかると、急速に熱が冷めてしまう。

 すべてが打算と遊びに終始していて、愛などというテーマなど成立しないように見えるのに、アントニオーニは愛を問題にしようとする。小娘が確実なものを手にするにはまだまだ時間がかかるだろう。容姿だけでちやほやされ、大人の道具となった人形の成長の物語を、愛は不毛だとばかり嘆いてはいないで、綴らなければならないはずだ。椿姫は本当のところそれに打ってつけのキャラクターだったかもしれない。

第84回 2023年1月27

カビリア1914

 ジョヴァンニ・パストローネ監督作品、原題は「Cabiria」、無声映画。古代ローマ史を大規模なセット多数の出演者でつづるスペクタクル作品。イタリア映画なので本場である。のちにはハリウッド映画の定番となるローマ帝国の興亡の歴史であるが、英語をしゃべっていないという安定感はある。もちろん無声映画なので口パクではあるが、大げさな身振りのなかに古代ローマ以来のイタリア人の感性がよみがえってくる。セットの石垣にマスゲームのようにしてよじ登る場面や攻防のはて落下する兵士、崖から海に飛び込み逃亡する場面などは、カメラを引いての撮影が、かえって臨場感を増してみえる。

 カルタゴとの雪のなかでの進軍やエトナ山の噴火により幼いカビリアの住む町が破壊される光景などは、モノクロ画面が残念なまでに迫力に満ちている。ストーリーはカビリアの生い立ちをたどる中で、戦いに明け暮れた民族紛争の実際が読み取れるが、ローマ史に親しんでいないものには、登場人物の人間関係を追うには骨が折れる。スキピオやハンニバルなど聞き覚えのある名もあるが、重要人物については前もっての予習が欠かせないだろう。日本でいえば戦国武将のそれぞれの位置関係を知っていないと楽しめないのど同じだ。わかりだすとますますおもしろくなっていく世界でもある。

第85回 2023年1月28

不幸な街角1948

 マリオ・カメリーニ監督作品、原題は「Molti sogni per le strade」。いきな映画の終わらせかたである。犯罪を犯したのに何もなかったかのように不問に付してしまうのは問題だが、杓子定規ではおさまらない人間の寛容について感じいることになる。食事さえままならない貧困が家族の絆を砕き、さらなる貧困が家族の絆を結ぶ。簡単に言えば、車を盗み乗り回し売り払おうとしてうまくいかず、もとのガレージに戻ってきて前のままにしておくという話だ。表面上は何も起こってはいない。

 持ち主が大騒ぎをすれば立派な犯罪だが、ぼんやりとしているのか、わかっていて許してやっているのかはわからないが、問題にしないおおらかさが見どころにもなっている。乗り回しているのだからガソリンも減るだろうし汚れもつくだろう。わかっているはずなのに、とぼけてやっているとみると心憎いところがあるし、遊びほうけている大金持ちならそれくらいの度量があってもいいということだ。

 貧困による夫婦の行き違いと、いたいけな子どもに注ぐ愛情が、庶民感覚でイタリア映画のリアリティを浮き上がらせている。イタリアにあっては敗戦直後の悲哀は、現代の感覚では理解しがたい職業難と貧困にあえいでいたにちがいない。ラストシーン、友のおかげで職にありつけたということだけでハッピーエンドに見えてしまうのである。食うに困らなかった軍隊生活のほうがよかったという感慨も生まれる。無職の男が犯罪に手を染めるが、ガレージ番をしている友への裏切りを思い直し、引き返して詫び、友から職を紹介してもらうまでの物語。

第86回 2023年1月29

カプリの皇帝1949

 ルイジ・コメンチーニ監督作品、原題は「L'imperatore di Capri」。イタリア喜劇であるが、日本人の感覚とはかなりかけ離れている。歩きかたを見ているとチャップリンを思わせるもので、この偉大な喜劇王はヨーロッパ中に浸透していたのだとわかる。チャップリンを笑うように笑えないのは、笑いの普遍性を獲得していないからなのだろう。見るほうの理解力がないと考えれば落ち込んでしまうが、これはことばの通じない外国に出かけて映画館に入って、まわりが笑っているのに、ひとり取り残されている体験に等しい。悲しい映画は共有しやすいが、喜劇はそうはいかない。笑いは世界共通のはずなのに、文化の層のちがいをひしひしと感じる。そんなことを考えるとき、チャップリンはやはりすごかったのだと、あらためて思う。

 古代の歴史劇だと思って身始めるが、夢だったという肩透かしがあって、ドタバタ喜劇へと傾斜していく。カプリ島の風光明媚な景勝を背景に、東洋の王子に間違われた男の騒動を描き出している。主人公はホテルの従業員だが、王子と感違いされ、アバンチュールに誘われてカプリに向かう。不自然なのをあやしんだ家族もそれを追ってノコノコとついてきて、騒動に加わっていく。不審げに叔父をみる大人びた少年の存在が事件をおもしろくしている。王子の持参した小さな蛇も効果的に使われて、緊張感を増している。蛇を見たときの喜劇役者の驚きようは演技を上回っていて、こんなところでは笑ってしまった。浮気だと勘違いをして入れ替わり立ち替わり、ちぐはぐに男女が部屋にやってくるくだりは、喜劇を成り立たせるうまいやり口だと感心した。

第87回 2023年1月30

懐かしの日々1952

 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督作品、原題は「Altri tempi - Zibaldone n. 1」。古書店に置いてある本をめぐるオムニバス映画。本を開くとそのタイトルが読み取れ、映像がはじまってゆく。それぞれの話には関連はなく、小噺集という体裁をとる。4つほどの話が印象に残っている。隣に引っ越してきた一家の少女に初めての恋心をいだいた少年の話は、誰もが思い出すことのできる懐かしの日々の第一歩だろう。心ときめく子ども心を見ながら、転校生には決まったように思い出を残す女子生徒がいた古き良き日々を回顧した。

 不倫をしている男女の限られた時間を過ごすあわただしさと落ち着きのなさを見ながら、これなら逢わないほうがましだと思ってしまうのは、もはや安らぎのみを求める終わった人である証拠なのかもしれない。主人が帰ってくる時間があるので、帰りの汽車に乗り遅れると大変なことになってしまうというわけである。もうひとつ不倫ものがあった。不貞妻をじわりじわりと追い詰めてゆく夫の冷静は恐ろしいものがある。妻の火遊びをわかっていて、知らないふりをしながら謎めいたことばで誘導してゆくのは、刑事コロンボの捜査過程にも似て、映画としては興味をそそられる。夫はコロンボを楽しんだおかげで妻を失うことになった。はっきりとは語られなかったが、画面の端にはちらっとピストルが映し出されていたのは見落とせない。

 最後もサスペンス仕立ての法廷劇だが、判決はあっと驚くものだった。美は裁けないというのである。それが真実なら、美人は犯罪をおかし放題だという話となる。ジナ・ロロブリジーダ演じる被告にニッコリと微笑まれると、法廷中がこんな美女を裁いてはいけないという気になってしまう。確かに魅力的だ。亭主は少し知的レベルが低いようで、妻がいろんな男と仲良くしているのを母親からの告げ口で聞いている。誰とでも仲良くするのは、キリスト教徒であることからくる博愛の精神に由来するものらしい。

 この義母を毒殺したという容疑だが、真相はわからない。終身刑の求刑をくつがえして無罪を勝ち取るのだが、その理由が美を裁いてはならないというとんでもないイタリア的狂騒の論理だった。それでも裁判官も含めて法廷中がこの判決に浮かれ喜んでいる。そんなものかもしれないと思った。弁護士役のヴィットリオデシーカが弁舌をふるっている。イタリアが習う古代ギリシアの理想からすれば、健全な身体に健全な魂が宿るのであって、美は真であり善でもあった。

第88回 2023年1月31

ギリシャからの帰還1942

 ロベルト・ロッセリーニ監督作品、原題は「Un pilota ritorna」。イタリアの近代史を知らなければ、イタリアに対してギリシャやドイツやイギリスがどういう立ち位置にあるのかもわからない。つまりどこがどこと戦争をしているのかさえわからない。ただ戦火を交えていて、それを逃れる人の群れがいるだけだ。しかしたぶん戦争とはそんなものなのだろう。敵の戦闘機を奪って逃げたとしても、味方がそれを見つければ撃ち落としてしまうということだ。

 話はイタリア空軍のパイロットがギリシャで墜落して、囚われ、そこから逃げ帰るという話である。多くの難民が歩きながらギリシャから逃れる列をつくっている。ウクライナから逃れる人々の現況と重なってみえてくる。その途中でギリシャ人の女性看護師と出会い、心を通じ合わせるが、男は帰還することが、女は留まることが使命であると確認しあって、爆撃のなかで離れ離れになった。脚を切断することで一命を取り留めた兵士の緊急手術に、ふたりは立ち会っていた。生死の極地で見せる若い看護師の凛々しい姿にパイロットは感銘を受けていた。医師のメスを握る緊張感のある場面での手術の光景は迫力に満ちていた。低空飛行で写し出された地上の動揺と合わせて、モノクロ画面ではあるが、スピード感あふれる見応えのある映像の力を発揮していた。イタリアが敗戦する直前の1942年という公開の日付けは、戦意高揚をめざしたものなのか、あるいは戦争の悲惨を映し出した記録なのかが、判断できないままだった。私としてはどちらに味方することもなく、戦争の愚かさを見つめていたという印象だ。


next