第3章 愚者を描く

第650回 2023年8月26

真贋の価値

 ボスのイコノグラフィー(図像学)についての点検をしておく。美術にはいろんな研究方法があるが、第一に重要なのは作品が本物か偽物かという判断ができることだ。古い時代になればなるほど、決め手が見つかりにくい。誰が制作したかがわかっていない場合が多い。ボスの場合は署名のある作品図1)もあるが、あとから書かれた署名のようで、本人が自筆でサインをすることはなかっただろう。まだ絵画に署名をするような時代ではないということだ。同時代ではドイツのデューラーなどは、モノグラムを使っていた。イニシャルのAとDを組み合わせて、商標として用いた。自分の作品だと主張する。じょじょに作家の芽生えが出てくる時代になっている。ボスの場合、ヒエロニムス・ボスという署名は怪しげな感じがする。おそらく一世紀もあとになって、これは間違いないとみた鑑定家が記したような気がする。作風から判断して目利きがお墨付きをつけるかどうかということだ。美術史はそんな恰好で、最終的には真贋に落ち着けるというのが研究の中心だ。もう一方で作品には何が描かれているかという問題がある。何が描かれていたとしても、作品の価値としてはそれほど左右されない。真贋のほうが重要である。何が描かれているかに重きを置いて見ていくと、絵が少々本人からずれていても、周辺の作家が描いたものであっても、おもしろい図柄だという場合はある。そこで価値観がかなりちがってくる。ことにイコノグラフィーという研究方法は、おもしろがられて一世を風靡している。

図1 ボス後継者「聖アントニウスの誘惑」部分

第651回 2023年8月27

図像の価値

図像学は作品の良し悪しを度外視して、そこに描かれている図柄がおもしろい、おもしろくないというほうに走っていった。こういうみかたもあっていい。タッチが生き生きしているというようなところが、真贋の決め手となる。タッチは弱くて何かをなぞっているが、オリジナルの作品はなくて、一世紀もあとのコピーかもしれないとしても、それでしか判断できないなら、それなりの価値がある。ただ売買の対象という問題は別である。日本ではよく雪舟の作だというときに、真作ではなく少しあやしいときに、「伝」という語を用いる。伝雪舟になると雪舟作よりもワンランク下がる。西洋ではそれにあたるアトリビューティッドという語がある。「名をあてられた」ということだ、あからさまにコピーと表示される場合もある。それらは作品としての値打ちであって、図柄の評価とは別のものだ。

 ここではボスの絵に描かれた不可思議な世界を探るのに参考になりそうなものを、あちこちからかき集めてきた。ヨーロッパの何百年の歩みのなかでボスのルーツを探るとなると、まともに探っていても出てこない。油彩画なので油彩画の歴史を探ってきても、ボスの描くものは異色なものとして目に映り、突然変異のように見えてくる。祭壇画のような形式をもつ絵としてではなくて、巷の氾濫している版画や日常生活で見かける路上の光景図1)、カーニバルなとの祭りや余興の断片に紛れ込んでいることが多い。そういう日常の図像、宗教的な図像ではなくて日常に埋没してしまって、忘れ去られてしまっているようなものを、かき集めてくるとボスのルーツに出会える。ボスの作品は宗教的なテーマが多いが、それ以外に奇妙なものが出てくると、当時のフォークロアにヒントが見つけられる。ここではそういうものの出発点として、愚者を見てみたい。

図1 ボス下絵「身障者たち」

第652回 2023年8月28

ボスの愚者

ボスの絵の中で愚者を扱ったものが何点かある。重要なものは「愚者の治療」、「手品師」、「愚者の船」である。ここではこの3点をセットにして、これを取り巻く時代の状況を探ってみたい。愚者という語は、以前は馬鹿、阿呆、愚か者など、不適切な差別語で呼ばれたが、精神的に障害をもった人をいう。身体障害に対して精神障害ということだ。さらには害という語が不適切なら、障がい者となろうか。愚かな人間というのは、病気ではない。ここでは英語でフールというほうが当たり障りなく聞こえるかもしれない。フランス語ではフーという。フーリッシュはそのまま愚か者だけではなくて、マッドに近く、狂人をもさしている。愚者と狂人は紙一重で似たようなところがあって、ニュアンスからいうと愚者はそれほど暴れないおとなしいひと、愚鈍なという形容詞もあるが、反応が鈍い。狂人となるとかなりエキセントリックで攻撃を仕掛けてくるようなイメージがある。フールは両者を含んでいるので、つまるところは同一のものとみることもできる。頭のどこかに傷があり、それがいろんな面で出てくる。黙りこくる場合もあるし、大騒ぎをする場合もある。

この精神障害をどんなふうにみていたか。15世紀の後半ぐらいから愚者のテーマが文学や絵画で登場してくる。愚者の船は、かつては阿呆船の名で知られたが、阿呆という語が適切ではないというので呼び替えられた。痴呆症が認知症となったのにも連動するものだ。ドイツ語ではナレンシフにあたるが、文学で用いられ日本語では「阿呆船」と訳されて出版された。ゼバスチャン・ブラントの書いた詩集名である。愚者たちが乗り込んで楽園に向って船出をしていくという長編の詩である。木版画の挿絵図1は若き日のデューラーも名を連ねている。阿呆文学や阿呆劇とも呼ばれたが、精神障害をもつ者が主人公となって展開していく話である。芥川龍之介に「或阿呆の一生」がある。英語版に付された田中良平の挿絵が研ぎ澄まされた感性を写し出している。こうした人たちに対する対応の仕方が問題になってくる。放置していれば何を仕出かすかわからない。

図1 ブラント「阿呆船」挿絵

第653回 2023年8月29

狂気の問題

狂気の歴史が研究対象になっていて、ギリシャ時代から引き継がれる興味の対象だった。神に近い存在としての狂気のことだ。神がかりという言いかたがある。崇め奉るということ、遠ざけるのではなくて祈りの対象になる。敬意をもって見られていた時期がある。キリスト教中世を通じて、浮浪者となって社会の最下層を形成した。ボスと同時代にエラスムスがいる。ルターとの論争でも知られる人文学者だが、「痴愚神礼賛」では愚かさが神となる。日本語訳をすると狂人と訳すほうがよい場合と、愚者というのがよい場合がある。渡辺一夫訳では「痴愚神」であり、愚者は神に近いものとして一目置かれる存在だった。支離滅裂でも的をついたことを語っているということがある。混じりけのなさからくるもので、純粋は一般的な常識とは異なる。社会的には表には出せないが、生まれたままの姿をそのままみせる点で、天才概念に近いものだ。純潔無垢をよしとする。エラスムスは愚か者の発言を、純粋な真実に近いものとして重要視する。フールの系譜は、文学からボスの絵画世界をへて、シェイクスピアの演劇世界に入り込んでいく。演劇世界に登場する道化とも共通する。鈴のついた頭巾図1)を特徴とする。道化師はもともとは芝居のかきまわし役で、ナレーションの場合もあるが、まっすぐ進むストーリーを混ぜ返して、変な方向に連れていく。重要なポイントで出てきていたずらをする。それによって主人公の運命が逆転するような役割を果たす人格だ。脇役だが要所要所を占めている。シェイクスピアだけではなくて、日本演劇では黒子(黒衣・くろこ)という存在に対応する。黒子は浄瑠璃では背後で人形を操っている。何人かは顔を出しているが、そのまわりで足だけを動かせていたり、黒づくめの姿で登場する。ときおり黒子が大きな仕事をする。主人公の足を引っ張りながら自分の方向につれていく。影の存在だが冷静に判断できる位置にいる。

図1 「道化」16世紀木版画

第654回 2023年8月30

道化師の登場

愚者が重要だということで、タロットカードでは一枚がフールになっている。巡礼姿で杖をつき放浪者のように歩いている。これに似た人物はボスの絵画でも登場する。タロットカードに出てくる、その他いくつかのイメージがボスに共通する。トランプの前身だが、人間の運命を占うものだ。王や女王と並んで愚者が同等に位置づけられた。道化の系譜はシェイクスピア演劇から、さらに以降続く。日本でも太宰治が道化論で扱われるし、おどけるという語は一風変わった人物にあてられる。ときに狂人を装っている場合もある。絵画世界ではこれが常に目にとめられてきた。道化師はその後、演劇世界からサーカスに場を移していく。ルオーやピカソなど画家の恰好のテーマになっていく。なぜそんなに惹かれたかというと、道化師がもっている、真実を語る面にある。ただおどけているだけではなくて、真理を突いていて、それをサジェストする点で重視される。道化師のみせる悲哀ではあるが、そこに人間の真実があるのだというニュアンスで、絵画表現として描き継がれていった。絵画史の上で脈々と続いていく。突然ピカソやルオーが現れるわけではなくて、ボスがいて、さらに続いてスペインではベラスケスがいる。その場合はこびとが選ばれる。サーカスでそのまま生きのびるものでもある。18世紀にはワトーが、同じスペインでゴヤがその系譜を引き継ぐ。

 道化の衣装は愚者の衣装でもある。道化は芝居の登場人物、愚者は日常生活のどこにでもいる人格にみえる。道化の衣装として定着するのが阿呆頭巾という先端に鈴のついたものと、笏杖という杖だが、人間の顔を付けたものだ。独特の目立った存在でもあるが、変わったしぐさのものは手で顔を覆っているが、指の間からこちらをのぞいている。ネーデルラントのことわざで指の間から世界を見る図1)というのがある。ブリューゲルやボスの絵でも登場するものだ。真実をしっかりと把握しているということだが、愚者ほど世界をクリアに見ているという意味が付加される。

図1 ブリューゲル「ネーデルラントのことわざ」部分

第655回 2023年91

愚者の楽園

 ボスの住んだ都市にはゴシックの大聖堂があり、そこに行くと屋根の部分にバグパイプを吹く道化姿の怪物がまたがっている彫刻に出くわす。中世の教会建築には外回りにかなりの彫刻が施されていて、一風変わったモンスターが取り巻いている事例がある。音楽を奏でているが、バグパイプも多様な意味をもち、ここでは愚かさと結びついている。フールははじめ稀有な存在だったが、やがて人間はすべて愚かな存在だと普遍化される。愚は世界に満ち溢れていて、人間はもともと愚かなものだ。神に近い存在としてあがめるのではなくて、人間は誰もが愚者なのだということから、社会風刺的なニュアンスが増えてくる。ボスも愚者を扱うが、決して神に近いものではなくて、さげすみの対象として、自分自身でもあるというメッセージが聞こえてくる。ブラントの船も阿呆を満載して阿呆の楽園に連れていくという発想だ。これは愚か者の楽園で、そこでは労働はないので口を開けていれば、食べ物のほうが入ってきてくれる。イメージ世界の中でこうした楽園を想定して、そこに船で乗り込んで行ける。そこに行き着くためには相当苦労する。汚泥物の川をさかのぼり、やっとたどり着けるが、そこには労働という概念はない。キリスト教世界ではエデンの園が出発点として知られるが、それ以降はだんだんと時代は悪くなる一方である。

ブリューゲルの絵画「愚か者の楽園」(図1)では大木の下で何人かが寝そべっている。口を開けると、たわわに実った果実が落ちてきて、勝手に口の中に入っていく。魚も泳いできて陸に上がってくる。卵の殻からは足が生えていて、歩いてやってくる。

 これらの楽園は何を意味しているのだろうか。楽園ほどつらいところはないという言いかたもできる。地獄の責めを考えると、ボスの頃のネーデルラントの地域は豊かなところで、食べるものに困るというのではなさそうだった。死亡率を考えると飢えて死ぬよりも食いすぎて死んでしまうような地域でもあった。そこでは責め苦として、もっと食え、もっと飲めというようなものだった。ブラントの挿絵は、いくつかはデューラーが担当している。それとの同質性がボスの「愚者の船」にはある。小さな船に大勢が乗り込んで、飲めよ歌えよの大騒ぎをしているという点で同じだ。そこに出てくるのはまともな人間ではなく、愚かさを象徴的に代表した者たちだった。

図1 ブリューゲル「愚か者の楽園」部分

第656回 2023年9月2

愚者の治療

 「愚者の治療」(図1)については、愚かさは一種の病気であるという点が重要だ。病気の原因は頭に石がたまることによる。それを切開手術することによって、治癒することになる。その段階で外科医があくどい収入を得たり、偽医者が巷に氾濫した。人間には健康願望が常にあり、いつの時代にも偽医者に騙される話はあとをたたない。日本でも今はなくなったが休日の公園では大道芸に近いもので、ガマの油やマムシに腕を咬ませて軟膏を塗っている。何重にも取り囲んでそれをのぞきみるなかで、高価な薬を売りつける。ボスの時代にも頻繁に見られたものだ。見世物の一コマだった。

 治療を受ける患者とメスをもった医師がいる。医者は頭の上にジョウロをかぶっている。かたわらに尼僧がいてながめている。騙す騙されるという役割分担はあるが、本来は聖職者とはいえ、どちらも愚かさの象徴となっている。話の筋は頭のなかから石が出たといって、隠し持っていた石を血まみれにして患者に見せる。実際にこうした光景を描いた絵が残っている。現実世界でもなされていた光景なのだろう。偽医者だとすれば注意を喚起するという役割を絵画に見出せる。「手品師」(図2)になればいかさまだとわかる。まわりにはグルになったスリの仲間がいる。縁日の人込みでは常に見かける光景だ。

 頭の切開手術を描いた絵はかなり現存している。ボス以降ブリューゲルでも登場する。一見すると同一な状況は歯医者でも見られる。歯を抜く治療を描いた絵である。頭の手術よりも作例は多い。17世紀オランダの風俗画の中では頻出する。歯医者は今では医者だが、当時は床屋とかわらない職業だった。外科医のステータスは今日のようなものではなかった。医者は地位をもつが、それは内科医で、外科は髪を切るのと大差なく、同じ技術で歯も抜いた。床屋は実際に歯を抜いていた。歯が抜かれるところが絵になっているが、ここでも愚者の治療や手品師と同じく、青空での光景である。屋外にテーブルを置いてその前で治療されている。それをまわりでは人が集まって見物をしている。歯を抜かれるところを見ていて何がおもしろいのだろうかと思う。

図1 ボス「愚者の治療」

図2 ボス「手品師」

第657回 2023年9月3

治療の実像

屋外で歯の治療がされるのはそれなりの理由がある。現代とはちがって室内は暗いのだ。大きな口を開けて中をのぞき込まなければならない。人盛りが山のようにあって、そこでは盗みがおこなわれている。歯医者は、最初は単なる職人だったが、やがては神に近い存在になっていく。歯痛は不思議で、抜けばまたたく間に痛みは消えてしまう。歯痛ほどつらいものはないが、痛みなく歯を抜くことは神の腕ということになる。床屋は腕のいい歯医者になる資格はある。偽医者が横行したという記録があり。政府は摘発するが一向に減らない。免許をもたないで仕事をしているが、実務経験ではそちらのほうが巧みであり、痛みなく歯を抜くことができたということだろう。

 オランダの17世紀には歯の治療を描いた絵図1)が頻出する。これと連動してオランダでは虫歯に苦しむ人が多かったという記録がある。砂糖の消費量がオランダでは多かったようだ。アフリカからサトウキビが入ってきて、オランダの食卓では安く出回ったことに一因がある。それによって歯医者が必要になってくる。実体はわからないが、絵画を通して社会を見ていくことはできる。美術として見る限りは、風俗表現としておもしろく、絵になる光景だった。ボスからつづくオランダでの系譜とみることができる。

 病気を治すのは医学の領域で、オランダでは解剖学も発展していく。日本に入ってきた蘭学でも杉田玄白の訳した「解体新書」は医学書だ。人体解剖の興味があって、それが絵画表現で結実していく。レンブラントの「チュルプ博士の解剖学講義」は代表的な作例だろう。こういうものは見て美しいものではないが、第一級の絵画としてオーダーされ公的な施設の壁面に飾られて、権威の象徴となった。風俗画という体裁はとっているが、当時の医学状況が垣間見られて興味深い。ヤンステーンをはじめとした風俗画家たちは、さかんに恋煩いを絵にしている。ぐったりとした女性が椅子に身を横たえている。その横でフラスコを手にした医師がいる。何をしているかというと尿検査である。検尿は14世紀から絵画表現が残されているが、いつのころからか恋煩いと重ねられて、風俗画として定着してくる。

図1 モレナール「歯の治療1630」部分

第658回 2023年9月4

船のシンボリズム

愚者と船の結びつきがある。船はシンボリックな表現として頻繁に登場する。ボスの場合は停滞した酔いどれ船という印象を与える。酩酊船は船自体が酩酊している。酔っぱらいの一群の姿が、船酔いと重ね合わされる。一方には「教会の船」という文脈がある。船は正しいおこないをした人を天国にまで運ぶものだった。教会は船だった。教会は船と十字架からできている。教会建築は真上から見ると十字架のかたちをしている。横から見ると船で腕の部分で進路を方向付けている。教会建築の背骨にあたる「身廊」は原語ではネフという。船を意味する語である。教会構造の中心部分は船を見立てている。教会そのものはここに入り込めば安全だという、ノアの箱舟を指している。ノアの箱舟はすべての生き物のつがいと善良な8人の人間をのせて安全に運ぶための教会にあたる。船のことをシップというが、漢字では舟はシュウと読む。東西の言語で相通じるものがあるようだ。テーブルの上に置く塩入れのこともネフというが、船に車輪を付けた金工品である。ボスの「愚者の船」(図1)を解釈する場合、このネフや五月柱が問題にされている。一本の何もない丸太の木であるが、これが船の上に載っている。マストなわけだが、横に梁を広げると十字架になる。十字架と船が組み合わされて錨(アンカー)のマークに結晶する。マストは皮をはぎ落したまっすぐなポールであり、ボスの場合は尖端だけは葉が茂っている。

図1 ボス「愚者の船」

第659回 2023年9月5

石の花

でっぷりと太った男が患者である。尼僧がいて頭に聖書だろうか、載せている。頭を切り裂いてそこから出てくるのはチューリップのような花図1である。頭から花が生える。本来なら頭から石が出てくるが、石ではなくて花だということは、愚かではないということだろうか。石でみごとな花を彫り上げるロシア民話にでてくる彫刻家のことを思い浮かべてもよい。大道芸の一コマのようにみえる。観客は誰もいない。似たような絵はボスから40―50年あとに、ヤンファンヘメッセンというネーデルラントの画家が描いている(図2)。ここでは明らかに頭から石が切り出されている。あやしげな伏し目がちの若い女性がいるが、よく出てくる組み合わせとしては、若い美女の横に老婆がいる。男をねらって金を巻き上げるカップルで、売春宿のやり手ばあさんということになる。ここでもそれが盗みのテーマとひっかけられているようにみえる。とぼけた医者がメスをもちながら身構えている。ブリューゲルの版画にも同テーマがある。やっとこかくぎ抜きのようなもので石を抜き出している。患者は椅子に座らされ、痛みでもがかないようにしっかりと固定されている。ここでは治療室のような場所になっている。

頭から花が生えてくるという発想は、同様なイメージがみつかる。根が人の身体になっていて、頭の部分が葉にあたる。アメリカ大陸が発見されて、奥地に入ると植物でも動物でもあるような生きものに出会う。土から抜くと痛いといって叫ぶ。ニンジンに似たかたちで架空のものだが、まことしやかに伝えられ図示されている。マンドラゴラという名称が書き込まれている。ボスの「快楽の園」でも頭からヤシの木が生える岩と顔のダブルイメージがある。エデンの園にあり頭から生えてくるのは知恵の木という発想になる。

図1 ボス「愚者の治療」部分

図2 ヘメッセン「愚者の治療」部分

第660回 2023年9月6

手品師

ここでもぽっかりと口を開いてだまされる愚者がいる。ルカスファンレイデンの版画「歯の治療」でも患者の後ろに女性がいて手をまわして財布を盗もうとしている。抜いた歯はずらりと並べて見世物のようにしている。同じルカスの「頭の治療」でも石を取り除こうとする治療のようにみえる。風俗画の要素が強いが、ブリューゲルの絵では抜いた歯を見せている。見物人もいて一番奥の人間が前に手を伸ばしていて、盗みが暗示される。ボスの絵では「乾草車」で歯の治療をする歯医者と大きな口を開けた患者図1)が出てくる。明らかに見世物として高い位置で舞台のようにみえるものもある。歯の治療が見世物になるのだろうか。他人の苦しみや痛みは対岸の火事のようなもので、見世物になる要素ではある。解剖なども見たい人はいるだろう。17世にはレンブラントの人体解剖を描いた有名な絵がある。

キリストは偉大なる医師であり、マジシャンでもあった。ラザロの復活という絵が頻繁に描かれる。これは医師としてのキリストをとらえたものだ。キリストとその仲間は医療軍団であったという説がある。奇蹟的に病気を治す。ラザロの復活では死んでしまった人間まで蘇生させる。キリストが神の手をもった名外科医でもあったということだ。医療関係の絵は盛んに描かれる。レンブラントにもラザロの復活がある。恋わずらいでは脈をはかる医師が登場する。ぼんやりした女性が出てくれば、多くは恋わずらいということになる。手紙をメランコリックに読んでいる女性を描いた絵が、17世紀のオランダではよくでてくるが、同様のシチュエーションを想定できる。恋愛を下敷きにして、一種の病気でもあるのだ。

図1 ボス「乾草車」部分

第661回 2023年9月7

【質問】愚者の船に関連した貝殻の中のコンサートは、どんな諷刺的テーマなのか。

一見すると諷刺的テーマであることはわかる。船や貝殻や卵の中で図1)コンサートが開かれている。まわりは水に囲まれている。小さなボートに乗り込んでコンサートをしているものもある。乗り物に見立てられているが、貝殻や卵は生命の出発点である。錬金術では卵は基本的な要素で、貝殻も生殖と女性のシンボルとして用いられる。船はそこに乗り込めば安全で安堵を与えるもので、殻におおわれたアジール(避難場所)を意味している。乗り込めば隔離されて保護の意味合いも出てくる。羊水に守られた胎児を連想してもよいかもしれない。卵と貝に共通するのは殻である。ボスの「快楽の園」の地獄場面に登場するモンスター「木男」は、胴体部分は卵になっている。卵の殻が割れかけて中身が見える。食卓を囲んで赤い顔をしながら飲んだくれている姿が見える。飲み食いをするのとコンサートをするのが「愚者の船」の場合は、大きな口をあけながら上から吊り下げられたパンのかたまりに食いついている。同時に手には楽器をもっているので、大声をあげての合唱の場面でもある。口を開けるのを歌を歌うのと、パンをかじるのをダブルイメージにしている。つまり同じ口が聖俗をあわせもつといってよい。17世紀のオランダの風俗画では、日常に見かける風俗場面として絵画化される。ボスでは歌うのが聖職者であることから、あくまでも聖歌であるのだろう。

図1 ボス・コピー「卵のなかのコンサート」