近年の新収蔵品を中心に

2019年6月26日-7月28日

岡山県立美術館


2019/6/27

  常設展だけだったが、見ごたえは十分にあった。古美術から現代アートまで、岡山県ゆかりのネットワークが増殖し、広がりをみせている。宮本武蔵や浦上玉堂は言うまでもないが、現代の若い作家への目配せも重要で、しっかりとセレクトされ、大作を収蔵している。昨年の「生きている山水」展で印象に残っている山部泰司の色違いの山水図がいい。岡山生まれ、京都在住ということだが、必ずしも岡山に生まれている必要もないし、岡山に在住している必要もない。

 さまざまなパターンが、ネットワークをつくりあげていく。でっち上げとしか思えない「ゆかり」の由来に興味がわく。岸田劉生がなぜ岡山にあるのだと思ったこともあるが、こうした戸惑いも含めて、ゆかりの広がりに、美術館のポリシーが浮き彫りにされる。県費の投入であれば当然の「郷土ゆかり」というローカルな演歌歌手のような響きの中に、知恵と策略が見えてくる。私が福井県に勤めたとき最初の仕事は、いわさきちひろ展だったが、親の赴任先でたまたま生まれただけでも、ゆかりは十分なのだ。

 緑川洋一の「今は無き烏城を偲ぶ」の24点のシリーズは、作者も主題もれっきとして郷土に根付いている。映像とは思えない写真の実在感が伝えられる。烏城と称する岡山城を正面に、あるいは背景に、ぼんやりとしたシルエットで、あるいはくっきりとした影で写し出されている。シルエットになるほどに烏の相貌を露わにしてくる。ずんぐりとしていて、およそ美的ではないのに、存在感は絶大で、ツンとすました姫路城と対比をなす。白鷺に見立てられた美形と、烏のような不在の実感を比べてみる。「今は無き」という点に、写真の実存が映える。

 写真に撮った後で被写体が消滅する、あるいは被写体を抹消するというのは、ひとつの美学だ。映画のセットは、写されるフィルムのためだけにある。別に烏城だけの話ではない。1日遅れて金閣寺を撮り損ねた写真家もいるだろうし、法隆寺の壁画も炎上するその場を残したいと思った写真家もいるだろう。写真は奇跡との巡り合わせだというなら烏城もまた、権力の失墜と運命をともにするだろう。その不在を際立せようとして、正面にか細い枝を置き、それにフォーカスをあてて、烏城を背後に沈ませた演出は、見事な時代の証言になっている。

 日本画では竹久夢二の「舟遊び図」がいい。羽織の裏地に描かれた絵である。粋な江戸情緒を伝えるものだ。夢二と浦上父子を抱き合わせにしながら、締めくくりに森山知己の「描法再現、紅白梅図屏風」が並ぶ。倉敷市立美術館でも新収蔵品の展示で出会ったが、こちらは一回り大きく見ごたえは勝る。名作の謎に挑むミステリアスな実践記録でもあり、この探究を通して、琳派の創造性を継承しようとしている。


by Masaaki KAMBARA