柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」

20211026日(火)〜2022213日(日)

東京国立近代美術館


 民藝運動が主人公というよりも、柳宗悦にスポットをあて、その人となりを浮き上がらせる展覧会だった。バーナード・リーチを中心に柳夫妻や濱田、河井など名の知れた人たちの並ぶ写真がある。そのなかで、ひとりだけ「ひとりおいて」と書かれた人物がいる。このとき興味がわいてきて、誰かがわからないのなら調べてみたいと思った。鮮明に写っているのでわからないはずはないと思うが、わかっているならけしからん話である。この人物を主人公にして小説が書けるのではないかと思った。タイトルは「ひとりおかれた男」。


 柳宗悦の美意識は一貫している。柳の発見物や民藝運動で誕生した成果を見続けていると、柳が好みそうだというものが、わかりだしてくる。わかりすぎるくらいにわかるのは、私自身も共鳴してしまうからで、気持ちが悪いほどだ。同時に嫌うものもはっきりとしている。三人の息子がいるが、風貌はともに父の分身のようによく似ていた。全員に宗という一字を名に加える点で、自身のアンドロイドを分散させようという意図が読み取れる。男の子が産まれ続けるのさえ、意志の力にみえてくる。


 子も親の嗜好をみごとに代弁しているようだ。長男はプロダクトデザイナー、次男は美術史家で宗教美術を専門とする。三男は造園家であり、ともに著名で一流のプロの仕事をこなすが、父の多様性の一面を分け持ったという点では、アンドロイドということになるだろう。遺伝子の不思議がみえてきて興味深い。


 ひとりくらいはハミゴがいても良さそうに思うが、二世がみんな優等生すぎるというのも、おもしろみを欠く。父親が偉大だと重圧がかかり、子の精神疲労を察するが、ともに一芸に秀でたというのは、父の教育者としての資質のゆえだろうか。あるいは声楽家の母の恩恵だろうか。エリート家庭への羨望も手伝って、あらぬおせっかいを思いつく。芸術家家庭なら画家がいてもよかったのにと想像すると、妄想がふくらんでくる。この四男はことごとく父と意見が合わず、ファインアートを突き進むのである。父のポリシーから見て、画家はこの家庭ではいづらい存在であったはずだ。これも小説ネタである。 


 農民のもつ大地に根づいた安らぎと田園風景を背後に置いた素朴さを信条にして、都会人の知的エリートの共有が輪をなしている。白樺派グループに身を置くが、柳も学習院出身の体臭を身につけている。与えられた運命が「宗」に執着したとするなら、見つけ出した意志は「民」の語に反応した。三男の名はそのまま宗民と名づけられている。厳密にいえば民そのものではなく、民への共感ということだ。都会人が寄せる民衆へのまなざしは、都市の時代を築く1920年代の世界的動向だった。民藝運動の出発は1926年のことである。民主主義は「民衆」を希求し、社会主義は「人民」の意思に従う。ともに民の一字に帰結する。日本がアジアに野望を向ける昭和のはじめの話である。柳宗悦と民藝が生き抜いた昭和を概観した、よくわかる展覧会だった。


by Masaaki Kambara