第6章 ラファエロとミケランジェロ

ラファエロ/アテネの学堂中庸の精神/彫刻史よりミケランジェロの彫刻/ピエタ像未完成/ミケランジェロの絵画/システィナ礼拝堂

第297回 2022年7月6

ラファエロ

 本章では若くして世を去った天才ラファエロの折衷主義と、激情の天才ミケランジェロの個性的な彫刻群とシスティナ礼拝堂に結晶する絵画の宇宙論をさぐる。レオナルドをめぐる三者の関係も興味深く、ともにルネサンスの理念を形作るものだ。

 ラファエロ・サンティ(1483-1520)の出発点はウルビノというピエロ・デッラ・フランチェスカが出てきた地域だ。それがフィレンツェに出て才能に恵まれてエリートコースをまっしぐらという人物である。若い頃はペルジーノ(1448c.-1523)という画家について学ぶ。ペルジーノとラファエロの初期のスタイルはよく似ている。キリストがペテロに教会の鍵を渡す場面(1481-2)を描いたペルジーノの作品は、背景に引き込まれていく遠近法表現で、背景に出てくる建物を通じてラファエロに引き継がれる。ラファエロでは同じ建物を「聖母の結婚」(1504)という主題に置き換えて用いている。

 ラファエロの作品は折衷主義だといわれる。優美ではあるが、あまりおもしろみが少ないかもしれない。「聖母の結婚」は初期の代表作で、ペルジーノ影響が強い。登場人物の顔立ちは円熟した頃のラファエロに比べると細面で、どっしりしているというよりも、ひ弱げな感じだ。主題そのものはマリアの婚礼だが、ヨゼフを見ると若い男性像で描かれる。これに先立ってペルジーノも同一の構図で「聖母の結婚」(1501-4)を描いているが、そこではヨゼフは白髪で高齢だった。15世紀を通じてヨゼフは頭の禿げた白髪の老人である場合が多かった。ラファエロではマリアとつりあうくらいの若者で描かれるのが特徴だ。立派な物腰をもった、年恰好もマリアにふさわしい美男子として描かれている。ヨゼフの復権ともいえるが、中世の間長らくあざけられてきたヨゼフは、このラファエロの絵あたりからあざけりの対象を抜け出して、やがて17世紀になると反宗教改革の流れのなかで、完全に復権を果たす。ヨゼフ信仰の先例になるような作品だ。

第298回 2022年7月7

アテネの学堂

 ラファエロは早く亡くなるので、晩年という言い方はふさわしくないかもしれないが、一番盛りあがりをみせた時期に描かれたのが「アテネの学堂」(1509-10)である。ヴァチカン宮に行くとラファエロの描いた部屋がいくつかある。「署名の間」などという名がつくが、それぞれは壁面の半円型の区画に大画面が描きこまれている。大掛かりの壁画の大作である。ラファエロがひとりですべて描いたわけではなくて、弟子をうまく使いながら自分のものに仕上げていった。彼は工房を組織して制作するシステマティックな方法を確立するが、半世紀後のルーベンスにそうした制作態度は引き継がれていく。

 構図的にもしっかりした均整の取れた作品だ。ギリシャ時代の哲学者を網羅して描いているが、プラトンアリストテレスがこちらに向かって歩いてくる。一方の顔立ちは明らかにレオナルド・ダ・ヴィンチで、その他ブラマンテの顔をなぞったり、ラファエロ自身の顔立ちも、若き美青年という雰囲気をもって、右端でこちらに顔を向けている。ユークリッドもいるし、ミケランジェロも登場する。当時の芸術家の顔をうまく使いながら、アテネの哲人たちの顔になぞらえられている。ねらいはギリシャの哲人とルネサンスの芸術家がダブルイメージとなって行き来するということにある。

 バックには壮大なドームが描かれるが、これも当時建設中だったサンピエトロ大聖堂であるようだ。つまり当時はまだ建設中であるにもかかわらず、完成するとこういうようになるという図がここでは描かれているということだ。設計図しかない段階で絵になるのだということは、建築さえも絵画の上で組み立てることができるということであって、絵画礼讃の表明をこの壁画に見て取ることができる。天蓋の設計者ドナト・ブラマンテ(1444-1514)への敬意は、レオナルドとともにギリシャの哲人として登場させることで示されている。

 隣接した部屋の壁面にある聖ペテロが牢獄から逃される「聖ペテロの開放」(1513)では、光の効果をうまく使っている。鉄格子があってそこからの逆光をうまく描き出して絵にしている。見上げると鉄格子があって、その向こうに天使が出てきて寝ているペテロを起こしている。実際に現地に行くと現実の光も入りこんでくるので、描かれている光とが臨場感を持たせながら交錯しあって、目に入ってくる。ヴァチカン宮の現実の場所をうまく使っているのに感心する。現実の光ではない鉄格子の向こうで神秘の光が発せられている。レオナルドは目が光を放つと考えたが、それを受け継いだのがラファエロであり、さらにはルドンだった。ルドンの「眼=気球」は宙に浮かんで光を放っている。

 画集では壁画は正面からとらえて、それを見ている高さについては無頓着だが、実際にヴァチカンに行くと画集のようには見えなくて、下から見上げるしかないのだということに気づく。つまりは下から見上げるように描かれているということでもあるわけで、画集からの情報についてはいつも注意して見ておく必要がある。見上げたり見下ろしたり視点を変えて見ると、「絵画」も実は「彫刻」のことだったのではないかという気がする。

第299回 2022年7月8

中庸の精神

 ラファエロのなかにレオナルドの影響が入りこんでくると、リリカルで神経質な側面は、ゆったりとしたおおらかなものに進化していく。それが一連の聖母子像に結晶する。マドンナのラファエロといわれるように、多くの聖母子像を手がけている。レオナルドのものと比べると、ずいぶん柔和な感じがする。レオナルドにはいつも神秘性がまとわりついていたが、それがラファエロでは消え去る。もっと現実に近い女性で、母と子というふうなイメージが前面に押し出されてくる。

 母と子といいながらもラファエロにしてもレオナルドにしても、生涯独身だったし、レオナルドに至っては男色で訴えられもしているし、少年愛というか同性愛的な側面もあった。家族や親子や夫婦というようなテーマは自らの実体験からは苦手な分野であったにちがいない。にもかかわらずキリストとマリアという世界のなかで見せた家庭的なものとは、結局のところ幼児期の記憶と、彼らの願望の結実であったのかもしれない。

 キリストと洗礼者ヨハネをまるで双子の兄弟のように描くというやり方は、レオナルドの伝統を踏襲している。洗礼者の見分けかたは肩に十字架を担いだり、皮の毛衣を身につけているのでわかる。キリストとヨハネの顔はレオナルドの作例によっている。マリアの顔はモナリザのぼかしに近いような技法を学んでいるようだが、ラファエロ独自のものだ。

 三角形の構図のなかに聖母子像がうまくおさまっているというのがラファエロの特徴だ。ルーヴルにあるのは「美しき女庭師」という名をもつ。ウフィツィ美術館の「まひわの聖母」(1505-6)も洗礼者ヨハネとキリストという組み合わせやしぐさ、マリアの顔立ちや衣装もよく似ている。両者はポーズを変えた連続写真のようだ。

 「ドレスデンの聖母」(1513-4)は「サン・シストの聖母」や「システィーナの聖母」とも呼ばれるが、大作であり作品の前に立つと目の高さあたりには聖母子が見えずに、天使がほおづえをついて上目使いに見上げる姿が印象的に目に飛び込んでくる。絵の額縁すれすれに肘を置いている工夫がおもしろく、よくこの部分だけがトレミングされて紹介されている。その表情は恨めしそうにも見えるが、視線はキリストを抱いている母親のマリアへと向けられる。この天使のあつかいから、額縁は窓枠のことだったのだということがわかる。絵画を壁面に開かれた窓だというルネサンスの定義を証明する一作だ。

 40歳前に没するので晩年とはあまりいわないが、最後の年に描かれたものに「キリストの変容」(1520)がある。これも力強い作品で、ひとりの少年が狂気に陥り目をむき出している場面が右に出てくる。その真に迫った表情はラファエロにしては珍しく印象的だ。

 ラファエロには肖像画も多いが、死の直前に描いた自画像や、「宮廷人」の著作で知られる「カスティリオーネの肖像」(1514-5)は味わい深いものだ。そこでの手のあわせ方を見れば、見るからにモナリザである。ポーズの取り方もモナリザが原典になっているなということに気づく。

 ラファエロの折衷主義は、彼のめざした「中庸」の精神に由来する。それは宮廷人のあるべき姿を模索したバルダッサーレ・カスティリオーネ(1478-1529)と共有するものでもあった。ルネサンスが「静かな偉大さ」をめざすとすれば、それは決して激しない中庸の精神を基盤にしたものであったにちがいない。その意味ではレオナルドもミケランジェロもルネサンスの精神からは逸脱している。ミケランジェロがレオナルドと際立った対立をめざしたとするならその両極端を制御するラファエロの存在は必須のものだった。折衷主義という汚名は、アカデミズムとともにラファエロから返上する必要がありそうだ。

300回 2022年7月9

彫刻史より

 それではミケランジェロがめざしたものとは一体何だったのだろう。絵画全盛の時代に入り彫刻にこだわることはある種のアナクロニズムではある。しかしミケランジェロが確固とした自信があったとすればそれは、彫刻という表現手段が太古から積み上げてきた年輪のゆえに他ならない。ここではミケランジェロに至るまでの彫刻史の流れを念頭においておくことは必要だ。彫刻は美術の通史を綴る場合には重要なもので、原始時代から絶えることなく続いている。この流れを見ていくと時代の変遷がよくわかってくる。ミケランジェロは突然出てきたわけではなくて、ドナテッロ、ヴェロッキオの流れの延長でとらえることができる。

 ミケランジェロ以降はバロック彫刻が出てくるし、18世紀からは古典主義の彫刻が、近代以降はロダンから確固たる彫刻家の名前がずらりと並ぶ。その時いつの時代も気にかけていたのがミケランジェロという名だ。彫刻史は原始時代から現代まで区切れなく続いている。絵画などではギリシャ時代の絵画がスポッと抜けていたりして、絵画だけでは美術の歴史は綴れない。絵の歴史は偶然、原始絵画が発見されるとか、エジプト時代のパピルスの紙に描いた絵が残るとかはあるが、概してその命は短い。

 彫刻といっても彫刻史を綴れば大半はヨーロッパの場合は石の歴史だ。ブロンズ彫刻などは今ではそちらの方がメインになっているが、塑像は思い切って言えば、近代以降の産物だ。木彫もルネサンス期のドイツを中心に断続的に続くが、石彫ほどには一貫性を持ってはいない。石だから長持ちして何万年たっても石は石だということだ。そのへんの石を取ってきて年代測定をすれば何億年という歴史になるだろう。それほど命としては長い。素材の持っている強みに負いながら彫刻の歴史は現代に至っている。

 それを日本に置きかえるとあてはまらないかもしれない。日本には石彫の歴史は乏しくて、平安時代に石仏が出てくるが長続きしなくて、芸術の領域ではなくていわば墓石や墓碑のようなものに埋没し、およそ芸術とは言い難いものとして定着した。墓石の類いも美術になってもいいのだが、日本の場合は墓に埋められている人物の肖像彫刻をつくるというような考え方がおよそなかった。なぜなかったのかと考えると不思議ではあるが、むしろあった方が不思議な気もしなくはない。西洋では少なくとも古代エジプトからその伝統は脈々と続いている。日本の墓石が人体を暗示する抽象彫刻だとすると、新しい彫刻史がつづれるかもしれない。

 石にイメージをさぐる作業は、色のついた平面でよいはずの絵画にイメージを刻んできた歴史に対応している。色のついた平面であるはずの絵画をイメージ表現に用いたというのが、かなり特殊なことだとするならば、肖像彫刻もまた特殊なものといえる。

 うつろいゆくものとして芸術を規定したのが日本文化だとするならば、彫刻が木彫にしか目が向かなかったのも理解できる気がする。ミケランジェロが彫刻にこだわったのは、しょせん絵画が絵空事を追いかけるうつろいにしか過ぎなかったことへの抵抗と、彫刻という手段への確固とした自信ではなかったのか。絵画と彫刻のちがいは内科医と外科医のちがいに似ている。外科医は薬や注射に頼らずに、切って貼るのが基本形だ。内科医は表面に聴診器を当てるが、骨の仕組みを知ろうとして、皮を剥ぐことはない。イタリアルネサンスの画家ではじめて皮を剥いだのはアントニオ・ポライウオロ(1432-98c.)とされる。

メスを手にする姿は、ノミを手にする彫刻家を思わせる。ともに白衣を着た作業でもある。もともと絵画も中世建築では日常空間にとどまる安定性を持っていたが、ミケランジェロの時代、それはタブローという名のうつろいゆくイメージへと変貌を遂げてしまっていた。墓は移動することなく、しっかりとそこにとどまり続けるものであり、そのためには石であることが必須の条件であったにちがいない。

 ミケランジェロにもメディチ家の墓があり、「メディチ家礼拝堂」は彼のつくったもののなかでも重要な作品だ。それらは必要性のあるもの、つまり墓は必須不可欠なものでその意味では生活に密着している。それは彫刻でもあり、建築でもある。日本の場合は石を用いて、幾何学的な立体を積み重ねるが、そこに文字は刻むことはあっても、リアルな肖像にするということはなかった。

 日本の彫刻の場合出発となるのは土器だろうか、あるいは土をベースにした土偶や埴輪などからはじまるのか。やきものなのか彫刻なのかという議論は常にある。彫刻の歴史を綴るとき埴輪や土偶というものを持ち出してきてもいいが幾分無理がある。エジプトからロダンまでという流れを見るのとは少しちがうようだ。彫刻史というひとつの流れとして追っかけてみるときには、エジプトの頃から5-6千年の流れには一貫した西洋の論理がある。

 彫刻史は素材を開発していく歴史でもあるし、いかにかたちをつくりあげ、フォルムを追求していくかの歴史でもある。非常に写実的な彫刻が一方で出てくるが、全くそうではないものもある。ミケランジェロを見ていると前半生と後半生がちがっていて、前半生はかなりリアルな、これ以上のテクニックがないという彫刻家だ。それが晩年になってくるとどんどんかたちが崩れてきて、目鼻立ちもはっきりとしない。

 90歳近くまで生きるわけなので、ワンパターンだけでは収まりきれず、どんどん自分のかたちをつぶしにかかる。近代的な意味でのアーティストの目ができてきたのだろう。ふつうでいえば注文に応じて彫刻をつくっている限りでは、リアルなものをつくれる力量があれば、それを生涯やり続けてもいいのだろうけれど、それではおさまりきれない、自分自身が納得できないというふうな、近代的な自我として理解しなければ説明がつかない。晩年のものはかなりかたちをゆがませ、意図的にスタイルを崩しにかかっている。

 ミケランジェロは彫刻だけでなく絵画でも優れた作品が残る。絵画でも同じように均整のとれたものから、肉付きの良すぎるような、筋肉隆々としたところをもっと越えて、ぶよぶよしてしまっているような、そういうものに変わってくる。それがたぶん次の様式の展開になっていくのだろう。ルネサンスの流れのなかでいうと、後期ルネサンスの様式はマニエリスムというが、マニエリスムの発端というのがミケランジェロの晩年の様式に出てくる。

 近代のはじまり、あるいは今までの古代から中世、ルネサンス彫刻の集大成のようなものとしてミケランジェロを見て、さらにそれを乗り越えようとして新しい試みをした。ミケランジェロを山の峰として、それ以前とそれ以後に分かれていくようにも見える。

 ロダンなどはミケランジェロに対し、かなり強い対抗意識をもっていた人で、ミケランジェロの晩年ふうのものをつくるが、作家の思考としてはずいぶんちがっていた。苦悩というか、苦悩の方向性あるいはその度合いがかなりちがっていたという気がする。マニエリストはこの苦悩さえも模倣することになる。

第301回 2022年7月10

ミケランジェロの彫刻

 ミケランジェロの最初の作品は「階段の聖母」(1490-2)というレリーフ作品だ。ここでも図像的には謎めいた人物がいろいろ出てくる。階段の前に聖母がいて、幼児キリストはマリアの乳房に顔を押し付けている。腕をぐいっとひねっているが、ねじ曲げられた幼児の腕は、囚われのキリストの受難を予知している。こうしたねじれや体のゆがみに対する興味は、若い頃のミケランジェロからすでに始まっていた。こういう浮彫り的な発想は絵画に近いものだ。

 次に成功したのは「ダヴィデ像」(1501-4)の大作で、フィレンツェのアカデミア美術館にある。見上げるほどの大きさで、正面からこれをとらえると頭が大きく見えるが、下から見上げる限りでは違和感はない。同美術館の手前には奴隷像が置かれるが、均整のとれた初期の頃のダヴィデ像と、晩年に入った頃のフォルムを崩して最後は石を未完成のまま残してしまった作例だ。

 両者を見比べると同じミケランジェロでも、相当違うことに気づく。ダヴィデのような大作の場合、頭は実際よりもずいぶん大きくつくっている。真正面からとらえた写真では、頭が大きく手足が何とはなしに弱々しい。大作では下から見上げることを前提につくらなければならない。日本の場合でも東大寺に運慶・快慶の大きな仁王像があるが、あれも下から上を見上げるときのバランスでつくられている。ガンダムが2頭身8頭身をもつのも、彫刻とミニチュアサイズの模型との違いとみると興味深い。

 初期のものの一例だがブルージュの聖母マリアに捧げられたノートルダム大聖堂に置かれた「ブルージュの聖母」(1501-4)と呼ばれる作品がある。ミケランジェロはイタリア人なので、たいていのものはイタリアにあるが、これは早い時期にネーデルラントに入ったもので、ネーデルラントで唯一のミケランジェロということで貴重なものだ。

 均整の取れた聖母子で、青年期のミケランジェロを感じさせる作品だ。白い大理石の肌の感触や、衣服のひだのつけかたなど手堅い手法を駆使した作品だ。レオナルドなどによく出てくる聖母子のポーズや顔立ちをもち、絵画ではラファエロにも引き継がれていくものだが、それが同時代の息吹きを感じさせる。

第302回 2022年7月11

ピエタ像

 こういう若い頃の聖母子を描いたものと似たポーズを取るのがピエタ像で、生涯に何点も繰り返し制作している。サンピエトロ大聖堂にある「ピエタ像」(1498-1500)は若い頃の作品で、ブルージュの聖母と同じように、マリアの顔立ちもよく似ているし、ただシチュエーションとしては先ほどの聖母子では幼児キリストだったが、ここでは「死せるキリスト」なわけで、二度目にキリストが母親のマリアの膝に乗るということだ。母と子を描いているのだが決してこのピエタは親子には見えない。

 マリアの膝の上に横たわるキリストは、ゴシック彫刻のピエタ像で数多く残されているが、どれも落ち着きが悪く、ミケランジェロのようにみごとにピラミッド構図に収まっている例は珍しい。キリストが十字架にかかるのが30歳としてマリアは高齢なはずで、こんなに若々しいはずはないのだが、それも聖母子像という母親のマリアが幼児キリストを膝の上に乗せて抱くという図像とこのピエタ像がダブルイメージとして重なり合っていることによる。誕生の喜びを死の悲しみと同じ図像のなかに封じ込めようとするエニグマティックな工夫なのだろう。膝の上であやされる赤ちゃんのキリストが、二度目に抱かれるときは死に絶えて悲しみのマリアとして表現されるときだ。一方の方は喜びのマリアであり、意味が全く逆転してしまう。膝の上に乗せて抱くという限りは同じポーズをもって表現されるのである。

 マリアをあえて老婆で描くのではなくて、若々しい姿で描く。キリストと親子というよりもむしろ、夫婦であったり恋人どうしであったりという設定が思い浮かぶ。これについてミケランジェロ自身は、マリアが若いのは彼女が処女だからだと説明したようだ。こういう意識的に操作された図像的なちぐはぐはしばしば出てくる。解釈の段階でふたつの図像の対応を読み取っていかなければならない。

 サンピエトロ大聖堂ではミケランジェロの作品は置き場所を転々としたのち、入って右側の礼拝堂に落ち着いた。そこは決してメインの主祭壇に位置するものではない。ブルージュの聖母が大聖堂のメインの場所に置かれたのと対照的だ。ローマカトリックの総本山の中心部分に置かれるには、ミケランジェロはあまりにも感覚的で個人的な色彩が強いものだったのかもしれない。その後サンピエトロ大聖堂がバロックの時代になってからカトリックの勢力をどんどん拡大していく段階で、ミケランジェロのこういったデリケートでナイーブなものよりもベルニーニなどの壮大な彫刻に目が向いていったということなのだろう。

 ミケランジェロは彫刻家としての仕事もさることながら、サンピエトロ大聖堂の天蓋の設計にも携わっている。フィレンツェ大聖堂のブルネレスキのドームを思わせるもので、クラシックなスタイルを踏襲している。彫刻家としてだけではなくいろんなジャンルに手を染めたという点ではレオナルドを踏襲してもいるが、レオナルドほどには多彩な分野に手を広げてはいない。あくまでも彫刻家として生き抜いたという感が強い。

 ピエタ像もミケランジェロ自身が年齢を経るにしたがって、いびつなかたちに変貌していく。フィレンツェ大聖堂にある「ピエタ像」(1547c.)では、キリストは体をねじりこみ、ポーズそのものが死に絶え、崩れ落ちようとする瞬間をとらえたものだ。こういうふうなポーズが出てくるなかで、ルネサンスの均整の取れたバランスのよいものから次の時代へという移行が読みとられる。このねじれのポーズそのものも、やがていろんな画家に影響を与えて、ピエタや十字架降下の基本的な定型になっていく。その意味ではインパクトの強いポーズで、胴体を思い切ってねじりこませ足を折っている。しかもよく見ると一方の足はない。制作途中で意図的に切り落とされたようなのだが、はじめから彫り出されていないで、石のなかに埋もれこんでしまっているようにも見える。それはまるで影のなかに隠れこんだメダルト・ロッソの印象派彫刻でさえある。

 最晩年にもう一度ピエタをつくるが、それが現在ミラノにある「ロンダニーニのピエタ」(1559)と呼ばれるものだ。これを最初見たときにはどう評価していいかわからない。大理石彫刻であり、マリアはキリストを支えているはずが、見ようによればキリストが母親のマリアを背負っているような感じすらする。親子二人の表現なのに目鼻立ちすら定かでなく、石のごつごつしたものがまだ残っていて、その未完成の力が肌で感じ取れる作品だ。キリストの悲しみはマリアの悲しみに繰り返されるが、母と子はまるで一心同体のように寄り添っており、二人で死へと旅立つ道行きの情景にすら見えるかもしれない。足元のおぼつかない不安定な描写は、十字架を担いでゴルゴタへ向かうキリストの姿を追体験しているようでもあるし、手を取り合って道行く近松ものの男女の情念を思わせもする。

 最晩年の作だが、親子のたがいに支えあっているような、ぎりぎりの表現がノミの跡までくっきりと残して精神化されている。全体像を別の角度から見てみよう。画集ではこのアングルから撮られたものは少ないが、弓なりになっていてそのそり方は一様ではない。現在はミラノの市立博物館に展示されていて、ミケランジェロ最後の作品ということで目だった位置に置かれるが、首をかしげる観光客も少なくはない。日本の彫刻家で高田博厚などはこれが大のお気に入りで、ミケランジェロについて多くの文章を残しているが、この作品についての思い入れは格別のものがある。私などはそうした示唆的な文章を通して作品理解へと導かれていった。死せるキリストが置いた母を背負っているというのは、日本人独特のみえかたなのかもしれない。西洋には母が子を背負う聖母子像はない。日本人に築かれた子守唄の図像学に裏打ちされたユニークな母子像の解釈学を提出する。子が親を背負うという図像にカンヌ映画祭が反応したのが、「楢山節考」(1983)という日本映画だった。そこでは子が母を慈しむのではなく、山に捨てにいくという驚異の姿が写し出されている。

第303回 2022年7月12

未完成

 ミケランジェロのものをまとめて見ようと思えば、フィレンツェやローマに行くのがよいが、ローマではいくつかの教会にミケランジェロの作品がある。ある一ヶ所の美術館に収まっていてそれを見ればすむというものではない。モニュメントとしてつくられた群像に優れたものがある。ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂にはユリウス二世の墓(1545)の中央に置かれた「モーゼ像」(1513-5)がある。それは人間を一回り大きくしたサイズで、そばで近づいてみると圧倒される力強さが伝わってくる。一体だけで独立して見せるものではなくて墓碑であったりグループの全体のなかに埋め込まれたものは移動がきかない。そのため全正面性はもたず、背面は彫り残しのままでさえよかった。

 未完成という点では半分石のなかから削り出されているような、「囚われ人」とか「奴隷像」と呼ばれる何点かの作品(1513-6)が残されている。ルーヴル美術館にもそれはあるし、フィレンツェのアカデミア美術館にもある。それらは未完成でなかばでやめてしまったというものだが、それがいかにも石のなかでもがいているような、囚われ人にふさわしく見えてくる。ミケランジェロはよく彫刻をつくるときに、岩や石のなかに囚われている人体を救い出してやるのだという考え方をしたようだ。囚われ人を救おうとする救済者、救世主のような役割が彫刻家の仕事なのだというわけで、未完成には最後まで救ってやることができなかったという無念の意味合いもそこから読めてくる。もちろんミケランジェロもブロンズ彫刻の栄光はわかっていたはずである。しかし精悍込めたブロンズ彫刻が溶かされて大砲になったとき、金属のむなしさを感じ取り、あらためて大理石への思いを深めたにちがいない。ロダンが「青銅時代」(1877)を模索するのもこれに類似する。大砲に変貌することがないことが確認できたときに、ブロンズ彫刻ははじめて平和の象徴となるのである。

 未完成の作品というのは興味深く、ロダン以降にも同種のものがある。ミケランジェロの未完成とロダンの未完成を比べてどうちがうかという議論がある。ミケランジェロの場合は未完成をあえておもしろがってここでとめておこうというつもりはなかった。本当なら最後まで救い出してやりたいのだがそこまで行かないということだ。もうこれ以上どうしようもないというところで終わっているのだ。ミケランジェロにとって未完成は「無念」の所産であって決して「効果」を考えてのことではない。

 それに対してロダンの未完成は、未完成を意識的におもしろがっているようだ。その意味では16世紀と19世紀での志向性のちがいがあって、見せてやろうという分ロダンが作為的に見えてくることもある。首や手足のない胴体だけの彫刻である「トルソー」の概念がこれに同調する。ミロのヴィーナスは今では腕はないが、ロダンのトルソーははじめから腕はなかった。比較するとミケランジェロの彫り残しは、これ以上先に行けないという人間の苦悩が感動的に見えてくる。こうした議論に納得する一方で、ロダンとミケランジェロを、そんなに単純に二分化していいのかという疑問は残る。もちろんロダンにも苦悩はある。それはミケランジェロ以上に未完成とならざるを得ない、近代人の苦悩だったはずだ。

 ミケランジェロは墓碑彫刻も多く手がけるが、代表作はフィレンツェにあるメディチ家の墓(1523-)だ。ロレンツォジュリアーノの肖像彫刻があってその下に四角に取り巻く壁面を使って、モニュメントとして成立させている。これも建築と対応させながら見ていかなければならないものだ。さらにラウレンツィアーナ図書館の設計(1523-)も、流れるような階段の装飾は、建築空間が溶け出して崩壊へと向かう怪しい美しさに支えられている。

第304回 2022年7月13

ミケランジェロの絵画

 点数はそれほど多くはない。ただシスティナ礼拝堂の天井画(1508-12)と壁画(1536-41)というのが例外的に大きくて、絵画作品のふつうの点数でいえば百点をこえて換算できるものだ。その意味では画家としても相当な力量を持っていたということだ。ところがミケランジェロの絵画を見ていると、いかにも彫刻的で、人間の肉の塊が目に飛び込んでくるような印象を受ける。絵を描いていても彫刻をつくっているような感覚があったのだろう。

 単独で描かれたものでは、「ドニ家の聖母子」(1507c.)というトンド作品がある。トンドは円形画のことをいう。図像的にも興味深い解釈ができるもので、色彩的にはレオナルドがあまり使わなかった原色を用いている。目に飛び込むようなマリアの衣装の赤であったり、ブルーであったり、あるいはオレンジも目立っている。そういう原色に近いものを平気で使う。次の時代のマニエリスムになるともっと派手な原色を使って、目を驚かせることになるが、ミケランジェロあたりからそういうふうな色彩について人工的で不自然な色彩感覚を前面に押し出していた。色はかたちに付随するものではなくて、色そのものにメッセージが含まれているのだということを、考えはじめたということか。

 ここではうしろにいる父親ヨゼフが前のマリアに向かってキリストを押し出してくるというのが図像上の設定だ。マリアはそれを受け止めようとしている。これも奇妙なポーズで、これまでにはなかったものだ。キリストの体つきを見ていても、変にぶよぶよしていて自然ではない。マリアも視線をぐっと上方に向けて見上げているような奇妙な顔立ちだ。この図像の意味合いは古い時代から新しい時代へキリストが送り込まれてくるということで、その橋渡しをするのがヨゼフだ。図像的にはこれ以外の作例がないので、マリアのポーズなどを見ていると、不自然で後ろに向かって落ち込んでいってしまいそうな不安定な感じを与える。

 右側のうしろには洗礼者ヨハネふうの少年が出てくるが、神話で出てくるパンのようでもあり、あるいは古代ふうの裸体群像がいたりして、背景が古代の異教の世界であることを伝える。それに対して前景で新しいキリストの世界が幕を引かれてやってくるのだという設定だ。

第305回 2022年7月14

システィナ礼拝堂

 システィナ礼拝堂の天井画と壁画は、400年のあいだに何度となく修復や加筆が繰り返されてきたが、近年新たに修復されて美しくよみがえった。日本テレビがスポンサーになって修復活動の記録をおさめテレビでの放映権を得た。日本経済の絶頂期を象徴する10年以上のプロジェクトだった。これによって当初の色彩がよみがえり、原色を使ったカラフルなものだったのだとわかった。そこでは平安神宮を修復してよみがえったけばけばしい朱色に、誰もが唖然としてしまうという感覚に近いものがある。

 色彩もさることながら、人体のポーズはひとりひとりを見ていると実に興味深い。まともに静止して立っている者はいなくて、どこか体をねじらせながらあちこちに視線を向けている。それぞれに工夫を重ねたあとがうかがえる。一度見れば忘れられないほどインパクトは強いものだっただろうし、サンピエトロ大聖堂に隣接したヴァチカン宮の礼拝堂であり、ヨーロッパ中から訪れてくる場所でもあった。ローマに巡礼に向かう人間はほとんどこれを目にすることになる。

 これはそこに行かなければ見れないものではあるけれども、誰もが知っているものだった。ここに出てくるポーズ集が、あっという間にヨーロッパ中に行き渡っていく。スペインの片田舎で出てきた絵がミケランジェロのここに出てくる人物にそっくりということが起きる。絵のポーズを集めた百科事典のようなものとして機能することになる。これができた16世紀はじめ以降ながらくヨーロッパはミケランジェロの呪縛から逃れられないままでいた。

 システィナ礼拝堂のミケランジェロ作品は、天井画と壁画に分かれる。左右の壁面にはボッティチェッリなどが描いた部分も残されるが、天井画と正面の壁画はミケランジェロがひとりで描きあげたものだ。その後のラファエロなどの描きかたを見れば、多くの助手を使いながら大きなプロジェクトとして大作を描いている。ミケランジェロはそういうやり方は性に合わないで、ひとりへのこだわりの強かった人のようだ。

 おもしろいのはひとりの作家が手がけた仕事にもかかわらず、天井部分を描いた年齢と壁画を描いた年齢とに30年の隔たりがあることだ。30代の仕事と60代の仕事になる。天井画は30代のまだ体力的肉体的に十分な力をもったころのもので、それと60代の精神力が前面に出た仕事という対比が見えてくる。天井を向きながらぽたぽたと絵の具が目に入ってくるということは壁画では解消されるが、高い足場の上での作業はともに困難を極めたはずだ。天井画では首を常に上に向けているので、下りてきてもそのままの首の状態で正面を見られなかったというような笑い話のような逸話も残る。

 人体の表現を比べると、三〇年の間にずいぶんと変わってきている。天井の人体はまだまだ均整が取れていて美的であるが、それに対して中央の祭壇に描かれた「最後の審判」の方は、キリストをはじめとして肉体がぶよぶよしてしまっている。これをバロック化というのか、あるいはマニエリスムの時期への展開の兆候だろうか。

 天井画では「天地創造」が描かれるが、肉体がうごめいている。天地創造はほんらい人物画ではなくて、風景画だろう。神も指でしか登場しないコスモロジーが思い浮かぶ。ここではとりわけ「アダムの誕生」(1511)が有名な場面だ。これもこの部分だけを取り出して、大きくアップにされて、ことに指と指とが一瞬触れ合うようなところは、映画「E.T.」などで繰り返されたものだ。実際には大きな大画面の一部であり、探すとなるとすぐに見つかるわけではない。いろんな画家がここにやってきて、この指と指が触れ合う瞬間を見つけ出したのだろう。ミケランジェロはそれなりに意識をもって描いたのだろうが、最初に天井を見上げたときには全体のなかに紛れ込んでいる。

 部分部分を丹念に、それこそミケランジェロが描いたと同じように、首を上に向けながら見つめる中で発見されたはずだ。そして見つけ出した一部をクローズアップしてデッサンをしてもちかえるということが繰り返されたにちがいない。まっすぐに伸ばされた創造主の指に対して、アダムはまだ指先には力がこもっていない。土からつくられた人形のようなものに、今まさに生命が吹き込まれようとしている。その瞬間の電光石火がデリケートに表現されているようだ。土や石に命を吹き込むのは、まさに彫刻家の仕事である。ミケランジェロはかなりダイナミックで骨太い神経の人だったような気もするが、部分部分で見るとジョットのようなドラマに対する鋭敏な感受性をもち合わせていたことがうかがえる。

 天井画ではアダムが誕生した次にイヴが生まれる。イヴはアダムが眠っているときにその肋骨を一本取って生まれてくるということなので、わき腹から伸び出してくるように表現される。楽園で禁断の果実を食べる場面、楽園から追放されて行く場面へと続いていく。イヴは影になっているが顔を押さえながら後ろを振り返るというような描写をしており、マザッチョの「楽園追放」(1426-7)と対応させて見ておく必要があるだろう。

 正面の壁の全面を使って描かれた「最後の審判」は下から斜めに見上げるようなつもりでミケランジェロは描いているはずで、全体は正面から目の高さで見ると上部が重たく見えてしまうようだ。システィナ礼拝堂の内部そのものは比較的明るい。壁画を見る場合しばしば暗くて見づらいということがあるが、ここでは壁面からの採光は十分あってそんなには気にならない。「天地創造」と「最後の審判」に30年の開きがあることは興味深い。世のはじまりと終わりを、私たちは一目で対比的に見ることができるのである。ミケランジェロが制作をした30年という年齢差は、キリストの年齢でもあることを思い起こすと、この二つの主題はキリストの生涯では「受胎告知」と「ピエタ」に対応してのだと気づく。それはレオナルドとミケランジェロがともに踏襲した神秘思想に思いをはせることになる。


next