クリスチャン・マークレー展

2021.11.20()- 2022.2.23(水・祝)

東京都現代美術館


 音が視覚化されている。音楽と美術という対立する概念をなだめるようにして、提案がなされる。もちろん楽譜という旧来からの基準はあった。それは目に見える音楽だ。ベートーベンの手書きの楽譜を集めて、展覧会をすることは可能だ。しかしそれは建築家の展覧会を、図面だけですませるのに等しくつまらない。マークレーの場合、抽象絵画となった音楽は、シェーンベルクからの伝統を踏襲するように堂々としてクラシックでもある。


 レコードもまた音が視覚化したものだが、この死滅したメディアへのこだわりは一貫している。レコードそのものが音楽だというフェティシズムは、レコード盤を噛み砕き、食い尽くす映像作品に結晶している。私の家にも、メディアとして死滅したにもかかわらず、無数のレコード盤が音のしないまま残されている。マークレーの映像作品を見ながら、音を取り戻すためには振ったり叩いたり、はては噛み砕くに至るというのが痛いまでによくわかる。けたたましくうるさい音なので、音を楽しむということにならないのがネックである。


 マンガは音を文字に置き換えて視覚化する。マークレーでもマンガが見つけた文字の音がちりばめられている。マンガが教える教訓は多い。迫力ある描写に加えてドバッという音声が吹き流しになると、迫力とはその字幕のことだと気づく。英語ならzzz…という記述となるが、60年代のポップアートがすでに試みたことだ。


 マークレーの試みた日本の絵巻物の形式を借りた記譜法が気に入った。そこにはこれまでにない驚異の実験を見つけることができる。音符のように上下しながら、音が連なっている。日本では右から左に絵巻は読まれるが、西洋人は左から右に時間は流れるようだ。それは私たちの目には時の流れを逆行する西洋のアンチ自然のスタンスがみえて興味深い。自然の中に身を置く東洋思想と真っ向から対立する人間賛歌が聞こえてくる。


 地を這う音符はやがて「龍」に見え出してくる。絵巻は龍頭にはじまり、龍尾でおわる。絵巻とは龍を閉じ込める封印でもあって、そこでは何重にも簀巻きにされて身動きが取れない。音もまたそこに封じられている。絵巻の常態は閉じられた時間にあり、展示ケースに開かれているのは、稀有な時間に属している。檻の外から猛獣を眺めている姿に等しい。全体を通してポップなイメージを引き継いで、ネオポップのくくりで見ることができるものだが、サイケという語が飛び交ったディスコサウンドの聞こえる郷愁を宿していた。


by Masaaki Kambara