第2節 版画とオリジナリティ

第586回 2023年5月11

1.ファン・マンデルとの関係

 肖像に対する興味は、ホルツィウスの生涯を通じてのものであったが、80年代の後半の一時期、その興味が薄れるという現象は、どういう説明がなされるだろうか。オーバーワークのため注文による肖像制作は断わられていたこと、あるいは病気のために制作そのものに支障をきたしていたことなどの原因も考えられなくはない。しかし、この時期にファン・マンデルを通して紹介されたスプランガー様式が、彼の心を強くとらえたことに一因があることも事実だ。

 ファン・マンデルは、ホルツィウスの伝記の中で「私はハーレムに移り住んだ1583年にホルツィウスと知りあった。私はスプランガーによる何枚かの素描を彼に見せた。彼はそれに非常に興味を示した」(M364)と書いている。ファン・マンデルは1548年に西フランドルに生まれ、1573-77年をイタリアに送ったあと帰国するが、スペインの圧迫のために北に逃れ、1583年から没年の1606年までをハーレムに住んでいる。彼がハーレムに着いた頃は、そこにはマニエリスムを受け入れるだけの十分な受容性があったようで、ホルツィウスも1585年頃からスプランガー様式をまね、独自の版画技法によってこの様式をヨーロッパ中に侵透させていった。

 ホルツィウスは、ファン・マンデルとの交流の中で多くのことを学んでいるが、その直接の影響はスプランガー時代ののち1588-90年に見いだされる。1588年に彼はファン・マンデルとの共作でオウィディウスの『変身物語』(Metamorphosen)に52枚の挿画をつける仕事を企画しており、1589年に20枚、1690年に20枚、そして1615年に残りの12枚が発表された。実際の版画制作はホルツィウスの助手たちが受け持ったが、ここでその解釈にあたってホルツィウスは、ファン・マンデルから多くの指示を受けたと思われる。『変身物語』はファン・マンデルがことに興味を持った主題であった。

 さらに1590年に制作された《ミダスの審判》(S285)は、明らかにファン・マンデルの影響のもとで構図化されたもので、彼の教訓詩(Das Lehrgedicht V9-22)のことばを完全に説明する挿画となっている[i]。こうした古典的テーマの導入は、それまでの反古典的造形としてのスプランガー様式の否定という方向に向かわせるのであるが、完全な形でそれが作品化されてゆくのは、イタリア帰国を待たなければならない。いずれにせよ、ここに「イタリア様式」(Italiaensche  Manier)の萌芽が見られることは事実であり、同時期にイタリアのキアロスクロ木版画への興味が増していることも興味深い。


[i] Reznicek, op. cit., S.19.原題はDen Grondt der edel ury schilderconst (高貴で自由な絵画芸術の規範)。「画家の書」のイントロダクション部分にあたる。

第587回 2023年5月13

2.スプランガ―様式

 ところで、時期的には極めて短い間であったが、ホルツィウスがスプランガー(Bartholomeus Spranger)に魅了された時代は、ホルツィウス自身の版画技術が一つのピークを迎えた時期とも重なり、数々の名作が生み出されている。レスニチェクはスプランガーに至るまでの版画手本の時代区分をファン・ヘームスケルク時代、フランス・フロリス時代、ファン・ブロックラント時代としており、スプランガー時代以降については、一様に秩序立った発展の経過は語れないとしている[i]

 ホルツィウスはコルンヘルトのもとにいたごく早い時期にアドリアン・デ・ヴェールトの素描にもとづく版画の仕事を手伝っているが、ファン・マンデルはホルツィウスと知りあう前、「1580年頃、私はブルージュで、デ・ヴェールトの素描にもとづく彼のすばらしく美しい二、三枚の版画を見たのを覚えている」(M364)と言っており、極めて早い時期から彼のエングレーヴィングがさえを示していたことを指摘する。

 しかし、その頃はハーレムとユトレヒトでは、フロリスとその弟子ファン・ブロックラントの様式が有力なもので、ホルツィウスも1580年頃にフロリス様式に強く影響されており、ことに《ルクレチア物語》はファン・マンデルが「たいていのネーデルラントの芸術家たちの共通した概念から逸脱した新しさ」(M364)として、当時のネーデルラントの衣裳を身につけさせた斬新さを讃美しているが、いくぶんぎこちない人物像の組み合せには明らかにフロリス影響がうかがわれる。

 また1582ー3年はファン・ブロックラントの様式を示した頃で、1582年の《ロトのソドムからの脱出》(S162)は彼の素描にもとづいてホルツィウスが彫版したものであり、1583年の《アンドロメダ》(S170)は、オウィディウスの『変身物語』によるものであるという点で、ファン・マンデルとの出会いを語る資料ではあるが、その様式はファン・ブロックラントによっている。さらに制作年については研究者によって一致を見ないが、未完成の《嬰児虐殺》(S206)も、その人物のいくつかをブロックラントの素描から取った。ブロックラントは1583年にユトレヒトで没したが、この時点でホルツィウスは彼の強い影響のもとで裸体像への興味がわいてきたようである。ファン・マンデル(M246)は、ブロックラントが裸体の描き方を知っていた巨匠であったと語ったのちに、ホルツィウスによる彼の版画は一見の価値があるとした。

 そして以上のような経過をへて、スプランガーがホルツィウスの前面に大きく立ちはだかってくるのである。ホルツィウスは1585年までにスプランガーの素描による最初のエングレーヴィングを制作しているが、徐々に自分の創意にもとづいたスプランガーを生み出してゆき、やがて誇張においてスプランガーを越え、グロテスクにまでゆきつく。1587年にはその発展の頂点に達し、「ホルツィウスの様式は当時スプランガーそのものよりもスプランガー的だった」(Reznicek)ということになる。


[i] Reznicek, op. cit., S.99.

第588回 2023年5月14

3.コピーがオリジナルを越えるとき

 これを作品に則して見てゆくと、1585年には《原罪》(S217)《聖家族》(S219)などスプランガーの素描にもとづくもののほか、《ウルカノスに驚くマルスとヴィナス》(S216)のようにホルツィウスの素描であるが、スプランガーを思わせる図柄を生み出している。彼はその銘記として「ホルツィウスに素描・彫版すべてが委ねられた」と記すことによって、これがあくまでも自己のオリジナルプリントであることを強調している。1586年には彼は代表作の一つである《ローマ時代の英雄》(S230―39)を扱った10枚のシリーズを制作しているが、それらはスプランガーからの発展様式にはちがいないが、スプランガーの優雅さとなまめかしさに比べると、極端に体型は誇張され筋肉のたくましいグロテスクに近いまでのものに変貌している。しかし、この仕事がスプランガーを意識し、それを乗り越えようとする試みであったことは、このシリーズがプラハのルドルフ二世に献呈されたものであることからもうかがえる。スプランガーはアントワープ生まれであるが、イタリア、ウィーンを経て1581年以来ルドルフ二世のもとにあって宮廷画家の位置にあった。1587年にはプラハから送られてきたスプランガーの素描にもとづいて、ホルツィウスがエングレーヴした《クピドとプシケーの結婚》(S255)が出されている。これはホルツィウスのスプランガー時代の頂点ともいえる作品で、ファン・マンデルも「それは甘い優雅さであふれた作品で、芸術家とエングレーヴァーに永遠の名声を主張するものだ」(M364)と言い、二人の共同作業の成果であることを認めた。この作品は「神々の饗宴」とも呼ばれており、画面は三枚続きのプレートからなる大作で、スプランガーの素描が示す、ところ狭しと繰りひろげられる人物群像の流れは、ホルツィウス独特のダイナミックな版画技法とぴったりとした呼吸でつながっている。

 スプランガーの素描力については、ファン・マンデルがスプランガーの伝記を語る中で、「スプランガーは、私が知る限り、素描において比べる者がない。彼はペンを最も巧みに使いこなす。これは私の個人的な意見だけでなく、専門の芸術家たちの意見でもある。ことにホルツィウスはスプランガーに比較しうるどんな芸術家も知らないと私に語った」(M327)と伝えており、その実例としてこの作品をあげた。

 その後、スプランガー様式で制作されたものは1587年の《旗を担う者》(S253)や1588年の《アポロ》(S263)、1590年の《ミダスの審判》など、すらりとしたプロポーションを持った優雅なスタイルに、ホルツィウスの秀作が見いだされるが、それらはスプランガーヘの忠誠が急速に崩れ去ってゆく過程にある。スプランガーの素描にもとづく最後のエングレーヴィングとなった《聖家族》(S281)では、ホルツィウスの線刻が下絵の線を凌駕し、ふくれあがって人物の輪郭を溶解してしまっている。

 こうした流れの中で、1589年突如として《大ヘラクレス》(S283)が登場する。その極端な筋肉表現を持ったヘラクレス像は、スペインの侵略に対するネーデルラントの力の証しであるとともに、彼が版画技法を通じて生み出した「隆起様式」(Knollenstil)の勝利のしるしでもあった。そのグロテスクな形態は1586年の《ローマ時代の英雄》連作を受け継いだものであり、同じ筋肉質の男性像であった《アポロ》のスプランガー様式とは明らかな対比をなしている。

 ホルツィウスがスプランガーによる反古典様式を受け入れたのは、決して早い時期とは言いがたい。しかし、レスニチェクが指摘するように、彼が極めて早い時期にこの様式を抜け出たということが重要なのである[i]。それは1590年にイタリア旅行をすることによって加速され、古典主義から自然主義へという道をたどるわけだが、1591年秋に彼がハーレムに帰ってきた時には、いまだスプランガー様式は指導的な立場にあり、「ハーレム・マニエリスム」(Haarlemer Manierismus)の名でコルネリス・ファン・ハーレムやアブラハム・ブルーメールトは絵画制作に没頭していたというのが現状であった。


[i] Reznicek, op. cit., S. 170.

第589回 2023年5月15

4.イタリア旅行

 イタリア旅行中のホルツィウスの行動については、ファン・マンデルの記述によって詳しく述べられている。それによると、ホルツィウスは1590年10月末にひとりの従者を連れてハーレムを立ち、アムステルダムまでゆき、そこから船でハンブルクに向かい、ドイツの内陸を徒歩で南下してミュンヘンに着いている。そして、アルプスを越えてイタリアに入り、ヴェニス、ボローニャ、フィレンツェを経て1591年1月10日にローマに着いた。ローマを発って帰国の途に向かうのが8月3日であるから半年少しの滞在だったということになる。その間、4月末には友人2人とともにナポリに小旅行をしている。一人はハーレム生まれの金工家、もう一人はブリュッセルから来た考古学者だった。帰りのコースも往路と大差なく、ローマを発ってボローニャ、ヴェニスヘと馬の旅を続けた。ヴェニスで二、三日の滞在ののち、トリエント、ミュンヘンを経てハーレムに戻った。

 このイタリア滞存は、決して長いものとは言い難い。それはすでにホルツィウスがハーレムに住む重要な版画家として、遍く知られるようになっており、それ以上のハーレム不在は様々な面で許され得ないものであったと推測できる。ファン・マンデルは、彼の旅立ちについて「多くの弟子と刷り師を家に残した」(M359)としており、主人の不在がその間の仕事に支障をきたしたと考えられる。

 ファン・マンデルの記述から推測して、イタリア旅行当時、ホルツィウスの名声は当人にとっては煩わしいほどのものだったようで、ヘンドリック・ファン・ブラハトという偽名を用いて旅を続けている。ある時は同行の従者に自分の役をさせて、宴会の席上自らは隅に隠れていたりした。このような態度は、一面ではホルツィウスの芸術家としての性格を物語るものでもあり、ファン・マンデルが語った「ホルツィウスは世事については無関心だ。彼は月並な人のゴシップは気にとめない。彼の芸術に向けるあざやかな愛情は、彼に心静かな状態と孤独を望ませる」(M371)という言葉と対応している。

 この旅行の間に、ホルツィウスは月並な人との関係が拒否された一方で、芸術に向ける愛情をわかちあえる様々な交際範囲を広げたことは確かである。まず往路でわざわざハンブルクまで北上したことは、当時ライン川沿いが危険な軍事情況にあったという理由とともに、ハーレムの前市長ディルク・ヤコブツ・デ・フリースが政治的理由からここに移り住んでいたことから、彼に会うためだとも考えられている。ミュンヘンではバヴァリア公のエングレーヴァーであるヤン・サーデラーと会っている。イタリアに入ってからは、ヴェニスで静物画家ディルク・デ・フリースに会ったのをはじめ、ローマでは多くの芸術家、ジェズイット派修道土と知りあい、彼らの肖像を描いた。その内の一人ジロラモ・ムツィアーノからは、エングレーヴィングの下図としてチボリなどを写生した素描を提供されたが、ホルツィウスは断わったことが伝えられている。それはすでに彼が下図となるべき多くのものを収集し終えたからと見ることができよう。

 彼がローマ滞在中に残したスケッチは、《ローマ素描綴り》(R200―253)[i]として、現在ハーレムのテイラー・コレクションに保存されている。そこには54枚の素描が含まれており、ローマで目にした古代の名作の数々がスケッチされている。それらは帰国後の彼の作品の中に反映してゆくものである。この素描綴りは、ホルツィウスがイタリアから携えて持ち帰ったのち、1612年までにルドルフ二世が、たぶんホルツィウス自身から買い取ったと考えられている。

 この綴りの中には、ローマのマニエリストの一人ポリドーロ・ダ・カラヴァジオの原作を写したものも含まれている。古代の彫刻以外にも、ホルツィウスはポリドーロの作品に強く影響されたようで、ローマの丘に立つサン・パオロ修道院の中庭にポリドーロが描いたサチュルヌスをはじめ8人の異教神の姿は、帰国後ホルツィウスによって版画化(S289―96)されている。版画には銘文が記されており、それらが「ホルツィウスによって、その場で写生され、それにもとづいて徒弟たちに役立つよう版画化された」ものであることがわかる。そこには古代に影響を受けたホルツィウスがイタリアから帰国後も、一面ではマニエリストの作品に範を求めていた姿が認められる。

 さらにローマでの芸術家との出会いの中で、フェデリコ・ツッカロとのそれは、特筆すべきものであろう。それは彼から芸術様式のみならず、芸術思想の面でも影響を受けたと考えられるからである。ツッカロヘの関心はすでにイタリア旅行前から見られたもので、1589年のセンセーショナルな作品《大ヘラクレス》は、カブラローラにあるツッカロのフレスコ画にもとづいて制作されている。そしてローマ滞在中は、ツッカロとの実際の行来を通じて、思想的な面までも影響されたと思われる。確かにツッカロはローマ・マニエリストの理論的支柱であったし、創造的模傲によって目ききでさえも騙せるほどの表現を真の芸術家の使命と考えた彼の信条は、ホルツィウスの中にも、その具体例を見いだせるのである。[ii]


[i] RReznicekの号、数字は作品番号を示す。

[ii] Federico Zuccaroの美術理論については、Anthony Blunt, Artistic Theory in ltaly 1450-1600, Oxford, 1962, P.141 ff.

第590回 2023年5月16

5.イタリアより帰国後の活動

 イタリアからの帰国後、ホルツィウスはスプランガー、コルネリスなどネーデルラント同胞の画家の下絵を彫版する仕事はほとんどやめてしまった。それはローマでの古代の美的理念との出会いが、いかに強烈であったかを示すもので、その成果は《ファルネーゼのヘラクレス像》(S312)をはじめとする一連の彫像のシリーズに見いだされる。ことに背後から見上げるようにしてとらえられたファルネーゼのヘラクレスは、静止と抑制のきいた力強い体躯に古典的な理想像が認められるとともに、ホルツィウスの特殊なとらえ方がこの作品を特に印象深いものにしている。この強烈な印象は300年のちにドーミエが《新しきファルネーゼのヘラクレス像》(D2247)としてパロディー化してみせたものでもある[i]

 古代のテーマとともに、カトリック的傾向を持った宗教表現にも、新しい方向性が見いだされる。それらは1593年から94年にかけて制作された《マリアの生涯》(S317―22)と、1596年から99年にかけての《キリストの受難》(S332―4、339―43、353―6)のシリーズによって代表される。ことに《マリアの生涯》は6枚からなる大版のエングレーヴィングであり、収集家によって一般に「マスター・プリント」として親しまれているものである。

 ここでホルツィウスは、極めて作為的にこの6枚のシリーズを異なった巨匠たちの手法で描きわけている。《聖家族》(S317)はバロッチ風で《猫のいる聖母子》(ロンドン蔵)かそのコルネリス・コルトによる版画にもとづいている。《牧人礼拝》(S319)はバッサーノ風、《御訪問》(S318)はパルミジャニーノ風、《三王礼拝》(S320)はルカス・ファン・レイデン風、そして《割礼》(S322)は構図及びビュランの使い方ともにデューラー風を示し、《受胎告知》(S321)はラファエロあるいはツッカロ風となっている[ii]

 これらのシリーズは当時のバヴァリア公に献呈されたと考えられており、その意味からもホルツィウスの自信作であったことがうかがわれるが、それが様々な巨匠たちのアラカルトであったという点は興味深い。しかし、ホルツィウスはそれを自己のオリジナルとして完ペきにやりとげたのであって、こうした態度はフェデリコ・ツッカロやファン・マンデルなど当時のマニエリストの理論家たちが評価してきたものだった。ファン・マンデルはこの6枚の作品について「今や、彼はこれらの異なったスタイルを自分自身の作品の中で、彼がそれらを自分自身の手でマスターしてしまったのちに示した。彼がこれをたいへんすばやく完全にすることができたということは注目すべきことだ」(M365)と語った。

 ファン・マンデルはさらに興味深い話を伝えている。それはデューラー風の《割礼》に描きこんだホルツィウス自身の自画像とモノグラムを画面から消し去って、版画をくすぶらせ古風に見せ、ローマ、ヴェニス、アムステルダムに送ったところ愛好家たちの間で高値で売買されたというのである。ところがこれはデューラーのコピーといってしまうわけにはいかない。なぜならデューラーの原作があるわけではないからである。あくまでホルツィウスはこの巨匠の様式で、新しい人物像と構図をうちたてたまでである。

 このように、ホルツィウスは様々な様式をその場に応じて使い分ける才能に恵まれていた。ごく若い頃から卓越したテクニックは、ヘームスケルク、フロリス、ブロックラント、スプランガーなど様々な様式を模傲できるものであったし、イタリアからの帰国後、その対象としてラファエロ、ミケランジェロとともにネオ・ルネサンスヘの志向性のもとでデューラーとルカスの版画が、ホルツィウスの前に浮かびあがってきたのである。

 《マリアの生涯》から3、4年後に出された《キリストの受難》の12枚のシリーズは、明らかに1521年のルカスのシリーズ(B43-56)あるいはルカスに影響を与えたデューラーのものに近い。レスニチェクは、のちの様式発展から見てイタリア旅行の途中、デューラーの生地ニュルンベルクに立ち寄り、その芸術的遺産にホルツィウスが触れた可能性を説いている[iii]。ここに我々は模傲という目ではなくて、デューラー、ルカス、ホルツィウスにつながる精神の系譜を見なければならない。ファン・マンデルもいうように「確かにそれはルカスの作品に劣るものではない」(M366)からである。

 《キリストの受難》シリーズは《最後の晩さん》(S356)に書かれた銘文より、ミラノ大司教であるフェデリゴ・ポロメオに献げられたものであることがわかる。イタリアからの帰国後ホルツィウスの作品の普及範囲はかなりの拡大を見せたようで、晩年のフェリペ二世も彼の作品をほしがり、巨大なピエタの素描を手にしたと伝えられる。プラハのルドルフ二世はスプランガー時代からの関係を持っていたが、1595年にはホルツィウスの作品を偽造から守る6年間の版権を与えている。

 このようにイタリア帰国後、ホルツィウスは更なる版画家としての名声のもとにあった。しかしながら、彼は1600年を境に一切の版画活動を打ち切り、油彩画に没頭しはじめることになる。版画のために残された素描は、その後弟子であったヤコブ・マータムが彫版して出版されたものもある。晩年の油彩画の方面では版画において見られたほどの成果を示すことなく終わっている。しかし、没年の1617年までの間に描かれた素描は、17世紀の新しい美術の動向を暗示する先駆的なものが含まれている。それは何よりも風景を描いた素描の中に見いだされる[iv]。前世紀のアルカディア風の山岳風景から脱して、現実のオランダの平担な風景をモチーフとしはじめている。そのいくつかはキアロスクロ木版画として彫版された。グロテスクな肉体のはてに風景が現われる。

 このような自然観察に向かう目は、スプランガー様式を逸早く脱して、古典古代あるいはデューラー、ルカスヘと回帰したホルツィウスに当然予定されたものだったとも言える。しかし、自然観察はあくまで素描にとどまり、そのいくつかを除いては版画化されていない。それはいまだ自然観察が版画というメディアに乗るまでに至っていないことを思わせ、こうした志向性が一般化・大衆化するのはまだ先のことと言えよう。


[i] D=Loys Delteil, Le Peintre- Graveur Mustre, XXVI, Paris, 1926, no. 2247.

[ii] A.J.J.Delen, Histoire de la Gravure dans les Anciens Pays- Bas, I, Paris, 1935, P.106.

[iii] Reznicek, op. cit., S. 84.

[iv] オランダ風景画の成立についてのホルツィウスの重要 性は、E.K.J.Reznicek, Realism as a Side Road or Byway in Dutch Art, International Congress of the History of Art: Studies 2, 1963, P.247 H.